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「――死んだ?」

 口に咥えていた煙草を思わず落としそうになった。

「死んだって――人が?」

 穏やかではない。

 急になにを言い出すのかと思えば、人が死んだという。しかも女の子がである。

 お互い室内で吸えない煙草をバルコニーで吸っていただけだ。暇つぶしの世間話が人死にの話になるなど思いもしない。

 しかも初対面なのだ。

 からかっているのか。

「病気かなにかで?」

 人は死ぬ。

 それは確かだ。死なない人間などいない。遅かれ早かれ人は死ぬのだ。別段珍しいことではない。

 珍しいことではないのだが。

 夜のバルコニーで初対面の人間の話ではないと思う。なにがどうあれ、死というものは気持ちのいいものではない。

 このまま今夜は失礼しますと、部屋に戻ろうか。

「まだこんなにこの街が拓ける前ですよ。造成の準備といいますか、重機やらダンプやらが少しずつ入って来た頃でした」

 隣人は続けた。

 まだ三本目の煙草に火を付けたばかりだし、もう少し聞いてみるか。

「静かだった場所が少しずつ騒々しくなってきた頃です。昼間は何台もダンプが通り、工事関係の人たちがめまぐるしく動いてました。少なかった住民は皆引っ越してしまって、私の家だけがぽつんと建ってたんですよ」

 隣人の息子さんが説得に入っていた時期だろうか。

「日中は賑やかになりましたが、夜中が静かなのは変わりはなかった。田んぼだらけの道端には相変わらず小さな街灯があるだけ。違うのは――」

 田んぼだった場所に大きな重機が置いてあることです、と隣人は言った。

 どこから手を付けたのかは知らないが、この大きな街を作り上げたほどだ。夜間は多くの重機が至る所に置いてあったことだろう。平らだった土地に大きな異物が並んだ光景は、少々異様だったかもしれない。

「少しずつ見慣れた光景が変化していましたが、住んでいる我々は普段と変わらず生活していました。田んぼが田んぼじゃなくなった――それだけだと思っておったんです」

 しかし。

 相変わらず、隣人の指先の煙草は煙が立っている。話に夢中なのか、それを口に運ぶのを忘れているようだ。

「土地に変化が起きているということは、そこの空気も変わるもの。今までとなにも変わっていないようでも、目に見えない所ではなにかが変わって来てたんでしょうなあ。それに気付いていなかった。私も彼女も――」

 一体なにがあったというのだ。

「その日は雨が降ってましたねぇ。そうです、雨でした」

 記憶を噛み締めるように隣人は語った。

「彼女は部活をしていました。バレー部です。ここから自転車で通ってたんです。その日も練習で遅くなったようで。いつもの道をいつもの自転車で帰ってたんでしょう。雨に濡れながら。家族は家でいつものように食事の準備をし、風呂を焚いて彼女の帰りを待っていました。ところが、九時になっても帰って来ない。練習の厳しい学校でしたから、帰りが遅いものいつものことだと、なにも気に留めていませんでした。部活仲間と雨宿りでもして、雨が弱まるのを待っているのかもしれない、と」

 十時。

「少しづつ、家族は焦り始めました。随分と遅い、なにかあったのだろうか。学校に電話してみましたが、部活はとっくに終わって誰も残っていない。部活仲間に電話しても途中までは一緒だった、と。家族は各々、車や自転車で探しに出ました。外へ出ると、意地悪をするかのように雨足は強くなりました。一時間が経ち、二時間が過ぎ――警察にも連絡して夜通し捜して回りましたが、結局その日は見つからず仕舞いでした。そして、次の日の朝――」

 隣人の声は震えていた。

「よくある話ですよ。暗い夜道を一人で歩いていた若い女の子が、暴漢に襲われる。よくある話だけれど、あってはいけないことだ。造成中の空き地にね、泥だらけの姿で倒れていたそうですよ。重機の陰に隠される様にして朝方現場に来た作業員が見つけて、辺り一帯大騒ぎでした」

「事故――だったんですか」

 きっと事故ではなかったんだろう。それでも、そう尋ねるしかできなかった。

「事故だったまだ諦めもついたんでしょうけどねぇ――」

 私は黙って天を仰いだ。

「警察によるとね。暴行を受けて、首を絞められていたそうですよ。必死に抵抗したんでしょう。顔に殴られた痕もあったらしい。爪には相手の皮膚がこびり付いていた。だけど、か細い女の子だ。男には敵わなかった。凌辱されて、用が済んだら虫けらのように殺されたんです」

 私は眼下に広がった町を見つめた。

 こんな静かな町にそんな痛ましい事件があったとは知らなかった。

 最近は幼い息子を虐待する内縁の夫を殺した母親だとか、アパートの隣人の女の子を殺した青年だとかいう嫌なニュースばかりが目に付いた。そんな嫌なニュースがこの町にでも起きていたのだ。

 この新興住宅地が出来上がる以前の事件だから、私は県外に住んでいた。きっとそのニュースもどこかで目にしたり聞いていたのだろうが、所詮自分とは縁のない土地なのだからと興味を持たなかったのだろう。目を覆いたくなるような残酷な事件が多発する現代にとって、何年も前のニュースは風化するのも早い。一体この町の住人の何人がその事件のことを知っているのだろうか。

「欲望というものは人間をそこまで豹変させるんだと、そのとき初めて知りましたよ。快楽への欲求が暴走下人間の前では、すべてモノに見えるんでしょうな。相手がどれだけ嫌がって抵抗しても、耳に届かないし目に入らない。ただ快楽への渇望だけが脳を刺激する。そして満たされて現実に引き戻されれば、目の前のモノは邪魔になる。邪魔になるから――」

 処分するんですと隣人の語気には激しい怒りが込められていた。

 もしかすると、その女の子というのは。

「――娘だったんです」

 私の気持ちを察したかのように、隣人は言った。

 なんということだろう。

 かける言葉が見つからない

 彼の苦しみや悲しみがどれほどのものなのか、私には想像がつかない。被害者の遺族がどれだけの想いをしたのか、いつも漫然と眺めている新聞やニュースからは伝わらない。可哀想にと思うが、結局それらは文字の羅列と音声でしかない。同情したとしても、数日経てば忘れてしまい、また新しい事件に胸を痛める。それの繰り返しだ。

 だが、今は違う。

 現実、目の前にその当事者がいて、彼から直接話を聞いているのだ。 

 いつものようなただの音声では無い。

 そこには言い知れない感情が籠もっていた。

「一晩中、あんなとこに晒されて。寂しかったでしょう、寒かったでしょう。恐ろしかったでしょう。なんの罪もない女の子が偶然、その道を歩いていたでけですよ。もう少し早く部活が終わっていたら。もう少し遅く二部活が終わっていたら。もし雨が降っていなかったら。もし私が迎えに行っていたら――」

 隣人は自分を責めている様にも聞こえた。

 いつの間にか私の煙草の火はフィルターの直前まできていた。私は灰皿で火を揉み消した。

 隣人の煙草は相変わらず細い煙を立てている。隔て板越しの隣人の姿勢はずっと変わらないままだ。

「それで――犯人は」

 当然の質問だろう。

 そんな犯罪を犯した人間が、未だのうのうと生活していることは許されない。

「私はね決めたんですよ」

「決めた、とは?」

「犯人を見つけ出した殺してやる――と」

 火をつけようとしていた四本目の煙草が、バルコニーから階下へと落ちていった。

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