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バルコニーに出ると、冷たい風が鼻先をくすぐった。
「ふぅぅ」
思わず身震いして、身を細める。
最近になって急に冷え込んできた。暦も暮れに向かって進んでいるのだから仕方ないことだが、この冷たい風は中々堪える。地上から離れると、随分風の強さも違う。そろそろ上着を着なければならそうだ。
眼下に広がる住宅の群れは煌びやかな光を灯し、星のように瞬いて見える。それらはまるで星空の様で、天と地が入れ替わったかのようだ。
地方都市でこの美しさなのだから、大都会となると光の数は無限のように広がっているのだろうか。
そんなことを考えながら、私は煙草に火を付けた。
思い切り吸いこんだ紫煙が灰を満たすと、私の体は一日の緊張が解けたかのようだ。
一日の大半を社会の歯車となって働き、心の安らぐ我が家へと帰る。
毎日同じことを繰り返す、平凡な毎日だ。
心身を休ませる手段は人ぞれぞれだろう。
音楽、映画、読書、食事、団欒、酒――。
私にとって、それは煙草だ。
最近は喫煙者にとっては厳しい世界だ。
五百年を持つ歴史のある煙草は、今まさに世界の嫌われ者になってしまった。年々煙草の値段も上がっていき、私が初めて煙草を吸った時の倍近くなってしまった。確かに、あの煙と臭いは吸わない人間にとって不快なのだろう。だから、私は分煙にも賛成だ。時代の流れに反対するつもりもない。現に、喫煙者の私の目から見ても、マナーの悪い喫煙者は腹立たしい。
段々と片身の狭くなっていくことに納得しながらも、あんまり喫煙者をいじめないでくれよ、と寂しい気持ちになるのも事実である。
それでも、私にとってはこれが安らぐ手段なのだ。
光を眺めながら、私はもうひと吸いして再び肺を満たした。
二か月前、私は十階建てマンションの一室を購入した。
人生で最大の買い物だった。
それまで県営団地に住んでいたのだが、息子の小学校入学が近いこともあり、妻と相談して思い切って決断した。これから先のローンの支払いを考えると、煙草の量も減らさなければとも考えるが、これが中々止められない。結局、禁煙のストレスを考えるなら止めなくても構わないか、という安楽な考えへと落ち着くのだ。
私は最後のひと吸いを終え、いつもバルコニーに置いてある水入りの灰皿を手に取った。
「――こんばんは」
驚いた私は思わずその灰皿を落としそうになった。しっかりと吸いがらの出汁を取った水を、まだ新しいコンクリートのバルコニーに溢そうものなら、妻になにを言われるか分からない。下手をすれば、煙草は近くのコンビニ前の灰皿で吸ってこいというルールを作られかねないのだ。
私は辺りを見回した。
なにしろここは六階だ。バルコニーで声を掛けられるなど、全く予想もしていない。煙が中に入ったら大事だと、ガラス戸はおろかカーテンまでしっかりと閉めてあり、部屋とバルコニーはこれでもかと遮断されている。洗濯物は当然干されていない。夜空の六階で、突然声を掛けられるとこれほど驚くものなのか。
「――ここですよ」
声のする方へ視線を向ける。
そこには隣室との隔て板があった。
白いボードにブロンズのアルミ板で枠が付いている。その中央には「非常の際には、ここを破って隣戸へ避難できます」の丁寧過ぎるほどのステッカーが貼ってあった。
その中央付近にそれはあった。
隣室のバルコニーの手すり。
そこに人の手が見えた。その指先からは一筋の煙が立っていた。
「こんばんは――」
私は恐る恐る応えた。
「驚かせちゃいましたね。すみません」
声の主は申し訳なさそうに笑った。
「こんな高いところで声を掛けられるとは思ってなかったもので。失礼しました」
私が無礼をしました申し訳ないと、声は応える。
「最近越されてきたんですね」
「はぁ。二か月ほど前に。確か御挨拶には――」
仕事を理由に引っ越しの挨拶は妻に任せきりになってしまっていた。同フロアはもちろん、両隣りの部屋には真っ先に挨拶に行ったとおもっていたのだが。きっと妻が挨拶に行ったとき、向こうも奥さんが応対したのだろう。どこの家庭もそんなものかのかもしれない。
越してきて二カ月目にして初めて、お互いのバルコニーで出くわしたということだろう。
「そうでしたか。ああ、挨拶ね。挨拶――」
何かを確かめるように隣人は何度も繰り返している。
相変わらず顔は見えず、隔て板の隙間から手と紫煙だけが見えた。
声の印象から私よりも年上なのは間違いない。
十歳、いや、もっとか。
定年間近の印象も受ける。人生を積み重ねてきた声だ。
「ここら辺はねぇ、昔はなにもなかったんだよ。あるのは田んぼや畑ばかり。その田んぼも畑も次第に手つかずの荒れた土地になってしまってね。草の手入れもせずゴミも好き勝手に捨てられて――」
寂しそうな隣人の話を聞きながら、私は眼下に広がった夜景を眺めた。
目の前には隣人の言うような田畑はひとつも見当たらない。マンションやアパート、民家の群れが煌々と光を灯していた。
きっと隣人はこの町の歴史と共に生きて来たのだろう。そして、目まぐるしく変わっていく町並みをたた呆然と眺めて来たのかもしれない。
「昔の住まいはどの辺にあったんです?」
いつの間にか短くなってしまった煙草をバルコニー用に置いてある灰皿に押しつけながら、私は訊いた。このまま部屋に戻るのも気が引けて、話のついでに聞いてみただけだ。さほど興味があったわけでもない。せっかく話しかけてくれた隣人に対する、ひとつの礼儀のようなものだ。
隣人はしばし黙った。
ふと隔て板越しの手が動いて、人差し指が下を指した。
私は差し出された指に誘われるかのように、身を乗り出して階下を覗いた。
薄暗い中に、囲い代わりの緑の植え込みと綺麗に整列した車が並んでいる。あまりの高さに目の眩んでしまった私は、握った手すりに力を込めた。
「――ここですよ」
「ここ?」
一瞬、隣人がなにを言っているのか分からなかった。
「ここ――ですか」
つまりこのマンションが建っている場所に隣人の前の住居があったということか。
「こここら一帯の区画整理が始まってね。みんな田んぼや畑を手放して、どこか違う所に引っ越していった。造成するために大きなダンプや重機がごった返して、それは賑やかでしたよ。それまでは貧相な街灯の光があるだけの、静かな場所だったのにねぇ」
昔を懐かしむような隣人の話に、私は部屋へ戻るのをやめて新しい煙草に火を付けた。
「そんなに静かだったんですね、ここは」
視界にはいくつもの光が灯り、町全体が忙しなく呼吸をしているようだ。隣人の言う様な静かな世界が想像もつかない。今は眠る暇のない町になっている。
「私は反対したんですよ」
「反対? 土地を売るのを?」
「慣れ親しんだ家を売るのが忍びなくてね。もう何十年も住んだ家だ。ぼろ屋でも愛着が湧くものですよ。私の息子たちがね、もう処分しようと説得するんですわ」
「土地売ってマンションにしようと」
隣人は微かに笑った。
「自分たちだってその家で育ったというのにね。家族四人の思い出の詰まった家ですよ。薄情なものだ」
隣人の気持も分らなくはなかった。
住み慣れた、しかも静かだった町だ。年寄りにとっては病院も遠かっただろうし、大型のスーパーも無かったことだろう。ここが拓ければ、老後の生活も楽になるだろう――彼の息子もそう考えたのかもしれない。
結局、隣人は息子の説得に折れ、その土地を手放してこのマンションの一室を勝ったのだろう。マンション業者とも話をして、優先的に買うことができたのだろう。業者としても、最後まで抵抗した地主に一室売ることくらいなんてことないのかもしれない。
「すみませんねぇ。年寄りの下らない話に付き合せてしまって」
「いいえ、そんなことないですよ」
本心だ。
それよりも、やはり隣人は年配だということが分かった。私の声の印象通りだ。相変わらず、板一枚挟んだままで、顔は見えない。やはり指先の煙草からは細い煙が一本立っていた。
「それでもね、やっぱりあの家を離れたくなかったんですよ」
隣人は一段と深刻そうな声になった。
「なにがあってもあの場所だけは――」
後悔しているのだろうか。
確かに住み慣れた土地というものは離れたくないのだろう。私も十年以上前に故郷を離れた身だ。地元の友人たちとゆっくり会いたいと思うが、家族ができれば自然と会う機会も減っていってしまった。だが、住めば都だ。このマンションを私は気に入っている。隣人も古い家よりも細心の昨日の備わったこのマンションの方が暮らしやすいのではないか。昔を懐かしむ気持ちも分かるが、きっと彼の息子もここに住んでくれた方が安心なのかもしれない。
「まだ慣れませんか、ここは」
元々このマンションの建っている土地の一部に住んでいたのなら、完成してすぐにここに住めただろう。だとすればもう二年になるはずだ。今にノスタルジーに浸っているのかこの隣人は。もういい年なのだろうし、いい加減気持ちの切り替えをすればいいものを――などと余計なお世話か。
「あの辺り」
隣人は煙草を挟んだままの指で遠くを指した。
「あのマンションの脇に小さな公園――いや、公園と呼ぶのは粗末なものでした。ただの空き地と言った方がいいのかな。とにかく、小さな空き地があったんですよ」
隣人の指さした方へ目をやると、民家の立ち並んだ中に五階建てくらいのマンションが建っていた。空き地だった面影は全く無く、昔がどうだったのか想像もつかない。
「その空き地でね。悲しい事が起きたんですよ」
「悲しいこと?」
今度はなにを話し出すのだろうと、私は煙草に火を付けた。
三本目だ。
こんなに長くなるとは思わなかったが、不思議と嫌な気はしない。
いつの間にか隣人の語り口に引き込まれている自分がいた。
「女の子がね――死んだんですよ」
隣人は静かに言った。