幕間1~伶の思い
「田中 伶です、伶と呼んでください」
私が自己紹介する時に必ず言う言葉だ
知人にも「伶でいいですよ」と言っている。だから私を田中さんと呼ぶ人は少ない…
別に田中という名字が嫌いなのではない。それは居なくなってしまった両親との繋がりだから…
私が小学生の時、両親は交通事故で逝ってしまった
当時、人見知りの激しかった私は遠方の親戚が集まる法事に付いていくのを嫌がった。
見知らぬ大人たちに、馴れ馴れしい子供達。いつも私の頭を撫でてくれる父が、私を優しく抱いてくれる母がそんな人達にかまって私の相手をしてくれなくなるのがとても嫌だった
「じゃあ、道場のお爺ちゃんの所へ行こうか」
そんな父の言葉に頷いてしまった。
きっと、反抗期が始まっていたのだろう自分。困らせればきっと自分と居てくれるという思いと我儘を言っていると理解している思い
それが混ざり合い、元々は両親と離れるのが嫌だったはずなのにその妥協案に頷いてしまったのだ
道場のお爺ちゃんは優しかった
自分の名付け親だというお爺ちゃんは良く私を膝の上に置いて頭を撫でてくれるのであった
その節くれ立った手のひらはとても安心できた
何を話しかけるでもなく私を膝の上に置き、本を読んでいる私の頭を撫でてくるその手が大好きだった
道場のお母さんは、いつも私の好きな物を作ってくれた
母の友人だという、その人は母と同じく私を優しく抱いてくれる
料理をしている時でも、私を片手で抱いて家族と門下生の分になる大量の食事を作り上げる
後日、母に同じ事をおねだりしたら、私には無理よと苦笑いしていた
歳の離れたお兄ちゃんもお姉ちゃんも優しくしてくれた
お兄ちゃんは沢山の本をお姉ちゃんは色んな服を、私が来た時の為に用意してくれていた
唯一、私と同い年だという少年だけが苦手だった。
その少年は、私に良く話しかけてくる。お爺ちゃんの膝の上で本を読んでいても道場のお母さんに抱かれていても邪魔をしてはお爺ちゃんやお母さんに拳骨を落とされていた
その日の事は良く覚えていない…
ただ、私を抱くお母さんの腕の力がいつもより強かった事と道場が騒がしかった事だけはうっすら記憶にある
翌日になっても両親は私を迎えに来てはくれなかった
お爺ちゃんが険しい顔で両親の死を、もう会えないのだと告げるのを覚えている
言葉の意味は理解していたし両親ともう会えないのも判っていた
ただ何故そうなったのか、これからどうなるのか。あの温もりはどこへ…
頭の中はそれだけだった。
ただ右手に残る温もり、後で聞いた話だが智大がずっと手を握っていてくれていたそれだけが私を現実に繋ぎとめていた
葬儀が終わっても私は泣かなかったらしい
道場で行った葬儀の後両親の遺影の前で、親戚が私を引き取るという話になった途端に火が付いた様に泣き出した
この辺は覚えている
両親の死を親戚のせいにしてしまったのだ。大好きだった両親を奪った親戚たちが憎くて、しかしその親戚に頼らなければ生きていけない自分が悔しくて…
今なら、それは違うと判るが当時の私は何もかもが理不尽に思えて、溜まっていた何かが噴出してきて自分でもよく判らなくなっていた
智大はお爺ちゃんがいきなり私を引き取ると言い出したと言っているが、私のその様子を見た智大が私と暮らすと言い張ったのを覚えている
当時、智大の才能を見たお爺ちゃんは道場の跡取りは智大だと言っていたが智大は継ぎたくなかったらしい
電車の運転手になるのが夢だという子供らしい事を言っていた智大が
「俺が道場を継ぐ、そして伶を守る。でも今は無理だから爺ちゃんが伶を守れ」
と、頼もしいのか情けないのか判らない事を言った。それを聞いたお爺ちゃんはいつもは拳骨を落とすその手で智大の頭をただ撫でていた…
そこからは早かった。
道場の皆が親戚を説得した。
環境が変わるのは良くないとか言いつつなだめて廻り、私の様子を聞いた親戚からも落ち着くまではという条件付きで了承を取ったのだった
道場で暮らす事になった私は、塞ぎ込んで喋らなくなった。
殆ど部屋から出てこない私を皆が心配していたのだが、時間を置こうとしてくれていた
たぶん、時間が解決するようなことでは無かっただろう…
幼い私は無気力で何故付いて行かなかったのかという事、一緒に死んだ方が良かったと考えていた
そんなある日、智大が部屋に入ってきた
膝を立て頭を埋めた私の頭を両手で挟み、智大の顔の前まで上げて固定すると目を見て行ったのだ
「伶の父さんと母さんはもういない。誰のせいかなんて俺は知らない。ただ伶の事は俺が守る。」
そのまま、私の頭を胸に抱いてくれた。
幼い智大が何から私を守るのか、どうやって守るのか。両親の温もりを失った私にはそんな事より新しい温もりが嬉しかった
そのまま、手を引いて私を部屋から連れ出してくれた智大はいつも私と居てくれた
部屋から出た私に智大の家族、お爺ちゃんやお母さん、お父さんにお兄ちゃんお姉ちゃんの温もりが増えた
失った温もりはかけがいの無い物であったけれども新たな温もりもまたかけがいの無い物であった
変わらない温もりと繋がりを得た私だったが中学に上がる頃から気に入らないことが出来た
新しい知人が増え、学校も変わると皆が私を田中と呼ぶ。それはいい、事実私は田中だし両親との大切な繋がりだ
しかし、他の男子にからかわれた智大も田中さんと呼び始めたのだ。
気に食わない…当時は何故気に入らないのか判らなかったが、とにかく気に入らなかった
皆が田中と呼ぶから智大も田中と呼ぶなら、皆が伶と呼べば智大も伶と呼んでくれるのだろうか…
他人に伶と呼ばれるのは、それもまた気に入らないが智大が田中と呼ぶのは許せないのだ
だから私の自己紹介は「田中 伶です、伶と呼んでください」になる
智大はどこまで判っているのだろう…
智大はどこまで覚えているのだろう…
でも、文句を言いつつも道場へは毎日顔を出す。修行と称されるお爺ちゃんの扱きをやめる事はない。
ならば覚えているのだろうあの言葉を…
幼い私はもう智大に守ってもらう事が決まったのだ
それはこの先ずっと変わらないの事なのは、私の中では決定事項だ
だから言う「田中 伶です、伶と呼んでください」と…