6.
『母は出張です。一週間後帰ります。一万円で、頑張って下さい』
見慣れた母の置き手紙。何の仕事かは知らないが、忙しいらしい。
私と愛犬。一人と一匹分の一週間分の食事なんて僅かな量だ。それなのに一万円を置いていくとは、『ちゃんと良い物を食べるように』という母の気遣いだろうか。
冷蔵庫を開くと何もなかった。もう、それは驚く位。飲み物も、調味料も何もかも。
これは流石に買い物しなくてはならない。餓死してしまう。死にたくない。
島唯一の大型スーパーは家から往復一時間。ゴマを連れて途中時間が長くなっても、今行けば暗くなる前に帰ってこれる。
「よし、ゴマ。お散歩に行こうか」
時間はないから制服のままで、大事な物を鞄に詰めて外に出た。
ゴマにはリードを付けない。只でさえ一日の大半を私の家に縛り付けられているんだから、たまには自由になりたいだろう。
好きに走るゴマを追いかけて、脇道で虫と遊ぶゴマを眺めて、疲れたゴマを抱っこする。
ちょっぴり肥満気味のゴマだから、良い運動になっただろう。
愛らしい態度とは反対に厳つい顔のゴマを撫でると、舌を出した。熱さよりも寒さに強い傾向にある犬種だ。夏の炎天下は辛いだろうと水分を促した。
「ゴマは運動嫌いだもんねー。この調子だったら帰りも抱っこだねー」
わぅ、と一鳴き。ゴマは私の言葉が分かるみたいだ。
店に着くと、ゴマを外の日陰に下ろした。ゴマは賢いから買い物中はここで待っててくれる。それに、ゴマを盗む様な意地悪はこの島にいないだろう。
人殺しはいるけど。
買い物はシンプルだ。牛乳と、肉と魚と、キャベツ。それぞれ一週間分。これなら栄養失調にはならないだろう。
外で待ってるゴマの為にも、どんどん近付く夜の為にもすぐに買って帰らなきゃならない、とレジに商品を置いた。
「あ」
財布を思わず落としてしまった。目の前には、店員としてレジに立つ彼がいたから。
慌てて拾って一万円を置いた。
「接客得意?」
「まったくもって、苦手分野」
「なのに何でここなの?」
「家から遠くて高い時給だから」
「……ふぅん。珍しい。普通、家から近い場所を選ぶもんでしょ」
バイトした事もなければ、友達から聞いたこともない。風の噂から出来上がった普通だ。
「さあね」
一万円はやっぱり多かった。大金なお釣りをお財布に入れる。
「帰るの?」
「そりゃ、買い物終わったし。外でゴマが待ってるし」
「僕も上がりだから、外で待ってて」
「うん」
彼はレジを閉めると、何処かへ行ってしまった。上がりだから帰るそうだ。それは良かった。外で待っててと言われた。帰るから、外で待ってて。
何故?
尻尾を振るゴマを抱き上げて数分後、息を荒くした彼がやって来た。
「ごめん、待たせて」
「別に良いけど」
彼は走ってきたみたいだ。長く息を吐いて整えてるが、汗はかいてない。かかない体質なのか。
「何で止まってるの?」
「いや、別に。理由はないけど」
やっと理解した。一緒に帰ろうという意味だったのだ。なるほど、なるほど、と歩き出す。
「家、どっち?」
「僕は学校のすぐ近く。君は?」
「私は三丁目の方。同じ方向ね」
「違ったら、ただ待たせただけになるところだった」
わぅ、とゴマは相槌を打つ。笑っているのかな。
「名前は?」
「ゴマ」
「小さいから?」
「ゴマフアザラシみたいに丸々してるから」
「確かに」
彼は抱えられたゴマを覗くと頷いた。
「大人しい子だ。ラサ・アプソでしょ?」
「よく知ってるね」
「辞典が友達だから」
「なるほど」
「抱っこしても良いかな?」
「良いけど、この子他人への警戒心半端じゃないよ。噛まれるかもしれないし」
「噛まれ慣れてるよ」
噛まれ慣れてるなんてどんな育ちをしたのだろう。やっぱり、都会は教育が違うのか。
「じゃあ」
「……重いね。小型犬なはずだけど」
「十キロあるから」
「じゃあ、途中まで抱いてても良い?」
「良い、けど?」
「荷物にゴマは重いでしょ。息荒かったし」
「確かに。ゴマも落ち着いてるから、お願いする」
滅多に人慣れしないゴマが、彼の腕の中で幸せそうに尻尾を振っている。
悪い人じゃないことが野生の勘で分かったのだろうか。
「狼」
「……うん」
一匹狼。誰かに言われたその言葉を思い出して、胸がきゅっと締め付けられた。
「ここらって、狼出るの?」
「狼……? いや、出ないと思うけど」
「……そう。狼の声を聞いた気がしたから」
「好きなの?」
「嫌いじゃない。君は?」
「嫌いじゃない。好きでもない」
辺りはまだ明るい。流石夏だ。日が沈むのが遅くて助かった。予想外の時間ロスをもカバーしてくれた。
まだ、大丈夫。
「いつも、バイトは遅いの?」
「基本十時。今日は七時だけど」
「夜一人で歩いたら危ないよ、殺人事件もある位だし…………ってクラスの女の子が言ってた」
途中から気恥ずかしくなって、乱暴に頭を掻いた。照れ臭い。これは、私には合わないやつだ。
「……気をつける」
「うん」
「じゃあ、ここまでだけど……」
彼はゴマを指差した。適度な揺れが心地よかったのか、すっかり眠っている。愛らしい寝顔だ。
「寝てるみたいだし、家まで送ろうか?」
「貴方の家から遠くなるけど、良いの?」
「一キロや二キロは大して変わらない」
彼はゴマの頭を撫でると、微笑んだ。無表情以外の表情も出来るんだ。新鮮で、驚く。
「ありがと」
彼の腕の中は相当居心地が良いんだろう。私の腕の中じゃ寝ないのに。やはり、広い胸板が寝やすさの秘訣なのか。
「晩ご飯、食べてく?」
「君のご両親に迷惑でしょ」
「母親は出張。父親はいない。貴方は?」
「……ああ。家に帰っても誰も待ってないよ」
「仕事?」
「まあ、そんな感じ」
彼の転校の理由は誰も知らない。わざわざ島に来る位なんだから、触れられたくない事の一つや二つはあるだろう。
「んー。ありがたいけど、遠慮するよ。暗くなる前に帰らないといけないから」
「うん、そう」
誘ってアレだが断られて安心した。何も考えていなかった。夜に彼と接触すれば何か起きてしまうかもしれない。屋内なら大丈夫、という確信はないのだから。




