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鵺の回向  作者: 碓氷瑶
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鵺の回向

「――『ありがとう』。……それがしいの最期の言葉でした」

 重く垂れ込める空気は苦しかった。そして、何よりも小学生の彼らが味わったであろうその絶望が。

「汐乃ちゃんの身に……そんなことがあったとは……」

 口に手を当てて、信じられないというように呟く。

「私たちはしいを守りたかった。そして、救ってやりたかった……ただ、それだけです」

 椅子から立ち上がった琅がカウンター内に戻り、ミネラルウォーターのボトルを手に取った。ぐしゃりとボトルが潰れる音が生々しい。

「しかし、私たちは結局何もできやしなかった」

 悔しそうに唇を噛んだ暁也が振り絞るように声を張る。

「俺たちはあいつに復讐するために、まずはあいつの罪を公にしてやるつもりだった。だが、あいつは……俺たちがすべて知っているのを見越して、先手を打った……マスコミを上手く使って、悲劇の父親を演じやがった! あいつは仕事上、マスコミ関係とも親しく、相当の賄賂を積んだと後から知ったよ」

「あいつは知っていたのでしょうね。絶大なる力の前で、子どもの主張など塵屑にも等しいと。私たちは所詮……子どもだった。なんの力もなく、知恵もなく、親の許可がなければ何もできない。本来は、あいつこそが嫌悪すべき性犯罪者で、すべての罪を背負わなくてはならない人間なのに、人々から可愛い養女を突然に喪った悲劇の父親と同情を寄せ、祭り上げられた……なんて、この世は理不尽なものかと何度恨んだかはしれません」

 空になったボトルが、無造作に床のダストボックスに投げ入れられた。何よりも恐ろしい冷徹さを含んだ瞳でそれを凝視する琅に一瞬身震いをする。

「事件から数年後、あいつは自ら会社を立ち上げて、社長の座に収まった。それだけでも許せなかったけど、それ以上にあいつがどこまでも屑な人間だと再認識したのは……その会社を立ち上げるために使われた資金が、しいが落ちたあの場所を……綺麗に整備しようと全国から集められた募金だったのよ……!」

「まさか……横領したというのか?」

 宗介が立ち上げたという会社は、業績の安定した今ではそれなりの認知度のある商社だ。その創業に不正があったとなれば、腰の重い警察も動かす材料になる。

「証拠ならあるから、使ってくれ」

 暁也がショルダーバックから数枚の写真とボイスレコーダーを取り出した。

「録音されているのは、あいつと経理担当者の会話だ。横領したことを自慢げに語っているあいつの声がもろに入ってるよ。写真はその決算書類だ」

「どうやってこんな証拠を手に入れたのだ……・? 最大の機密事項だろう?!」

「俺が社員になりすまして、あいつの会社に潜り込んだのさ。探偵業をやってる友達にコツを教えてもらって、すぐに即席のスパイの出来上がりだ。幸運なことに、あいつは俺の顔をまったく覚えていなかったからやりやすかったさ!」

 暁也の行動力には目を見張るが、それよりも胸に響いたのは宗介が暁也を覚えていなかったということだ。

 おそらくはすべてそれに尽きる。宗介は自らの罪を悔やんでもなければ、反省一つしていない。もし暁也を見て、思い出せれば何かが違ったのかもしれないが、そうはならなかった。

「だが……そんな大事な証拠を渡していいのか? 鈴谷を落とす切り札だろう?」

「もう、いいのですよ……もう、遅い」

 自虐的な笑みは琅を闇に引き摺り込むようだった。琅が窓に歩み寄って、そっと窓を開け放つ。いつの間にか雨はやんでいて、それにどきりとしたのはなぜなのか。

「私たちは待った……待って、待って――自分たちが壊れてしまうほどに」

 雲間から覗く月の光が琅を照らしていた。その透明な光に導かれるようにして、慎太郎が立ち上がり、もう一つの窓を開く。

「刑事さんは平家物語を知っていますか?」

「平家物語……?」

 突拍子もないその問いに、浅葱はそれが何を意図しているのかと微かに身構えた。

「平家物語の中の説話を基にした能の演目があるのです、世阿弥の晩年の作で……それを『鵺』、といいます」

 鵺といえば頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇で、鳴き声がトラツグミに似ているという妖怪のことか。だが、その鵺がこれまでの会話とどう繋がるのだろうか。

「旅の僧が、夜半川を漕ぐ埋もれ木のような舟を見つけ、中に乗っていた舟人は鵺の亡霊だと明かしたのです。鵺はかつて帝を病魔に陥らせ、源頼政に射抜かれ退治されていました。鵺は僧に回向を頼むと、夜の波間に消えてゆきました」

「回向?」

「死者の成仏を願って、仏事供養をするということです」

 首を傾げた浅葱にやるせなく笑った慎太郎が珍しく口を開く。それに続くように、琅が再び語り始めた。

「僧が読経を始めると、鵺の亡霊が元の姿を現し、語り始めたのです。源頼政は鵺退治で名を上げ、帝より獅子王の名を持つ名剣を賜ったが、自分はうつほ舟に押し込められ、暗い水底に流されたのだと……そして、山の端に懸かる月のように我が身を照らし、救い給えと願いながら、月と共に闇へと沈んでいったのです」

 月の光はまさに琅と慎太郎を照らしていた。その様が、まるで鵺の最期のように思えて、咄嗟に畏れを覚えたが、琅の声はそれで終わりではなかった。

「この鵺というのは、後白川帝との政争に破れた祟徳院の怨霊を表しているのだそうです。祟徳院を陥れ、島流しにした挙句、死者の供養と反省の証にと書き上げた写経を突き返し、無念の憤死をさせておきながら、実際祟られたら妖怪のせいにして退治してしまおうなんて、随分虫のいい話です」

 椅子を引く音がして、海生と暁也も同じように月の光を目指した。現実世界に取り残されたのは浅葱一人だけというような。

「でも、私たちは歴史の話をしたいわけじゃない」

 気丈に顔を上げた海生の肩を抱いて、慎太郎が呟いた。懺悔に似たそれを。

「俺たちはずっと、自分たちこそが源頼政だと思っていた」

 悪を倒し、英雄となった源頼政。

 汐乃の無念を晴らし、悪を白日の下に晒すことだけをずっと願ってきた彼らは、きっとそれに似ているのだろう。だが、彼らの瞳の奥に潜む闇は決してそれではない。

「本当は――鵺、だったのです。無力で何もできず、現実という波間に漂っているだけの……鵺」

 本当に罪を償うべき人間が、償わないでのうのうと生きている現実。対して、汐乃を守るために犯した罪を抱えて、闇に漂う彼らの現実。

 どちらにも罪はある。それにも拘らず、この天と地ほどの差はなんだ。それを甘んじて受け入れろというには、現実は残酷過ぎた。

 やはり真実は残酷だった。自らを鵺といった彼らが抱え続けた真実は果てしなく重い。それこそ鵺が最終的に身を滅ぼしてしまったように、彼ら自身の人生を蝕んでいた。だが、それでも彼らが汐乃を想い続けたのは、それほどに愛していた彼女を救えなかったという悔恨からくる衝動。

「ですが、そんな日々ももう終わる」

――そして、その衝動はついに動く。

 二三時を告げる鐘が唐突に鳴る。それまでは音一つ立てなかったはずの時計のその音が妙に禍々しく、浅葱の身体は飛び跳ねた。

「二三時――ちょうど、ですね」

 琅の声色は、艶を含んでいた。今までとは違い、何かを得て満足したかのように。

 だがそれは、琅だけではなかった。海生や慎太郎、暁也も同様に肩の荷が下りたようなほっとした表情を浮かべている。それは、青白い月の光に照らされてなお一層の不気味さを醸し出す。

「……何か、したのか」

 何かが起きようとしている。だが、もう止められないこともわかっていた。

 止められるくらいの生半可の覚悟で、彼らは生きていない。彼らの人生すべてを懸けて、きっとこの時を待っていた。

「刑事さんは、証人になってくださいますよね? 私たち四人があなたとずっとここにいたことを」

 遠くで鳥の鳴く声がした。

 ヒョー、ヒョーというその鳴き声は切なく、これが幕開けに過ぎないことを告げる――鵺の咆哮だと、浅葱は知った。


 *


 二〇一六年八月二四日。

 朝、出勤した浅葱は署内がやけに騒がしいことに気づいた。

 馴染みの若い刑事がこちらに向かって走ってくるのを見つけて、挨拶代わりに片手を挙げようとしたが、その刑事の顔が曇っているのに気づく。

「なんか事件でもあったのか」

「昨晩、殺しがあったんです。まあ、害者がちょっとした有名人なんで、少しトラぶってて……」

 天啓のように閃いたのは、偶然ではない。

 彼らは証人になってくれと言った。その意味を今さらになって気づいて、浅葱は震え上がった。

「いつだ……」

「え?」

「犯行時刻は何時だ!」

 普段温厚な浅葱が血相を変えて叫ぶため、馴染みの刑事は面食らっていた。慌てて、内ポケットから手帳を取ると、パラパラと捲ってそれを探す。

「えっと……昨晩の二二時から二三時の間です。……どうしたんですか、浅葱さん? 真っ青ですよ」

 心配そうに覗き込む目ももはや眼中になかった。必死に搾り出した声で、最後の足掻きを行うが、すでにそれが望み薄であることは重々承知していた。

「害者の名は……」

 彼らはついにやり遂げたのだ。二十年かかってやっと、復讐を遂げた。

 彼らは結局、彼らの本当の目的など何も話さずに、ただ自分は証明のためだけにあそこに導かれたのだ。――彼らの、潔白を証明するために。

 琅が始めに諷喩と言った時点で、すでに琅の勝利だった。自分の手元に残ったのは、宗介の有罪を確かにするためだけの証拠だけ。それ以外は、彼らの単なる――たとえ話。

「鈴谷宗介です」

 手に持っていた写真が、手から滑り落ちていった。

 失った真実と共に。

こんにちは、紫苑です。


このたび、『Rain』シリーズ第1作を無事に完結させることができました。


二十年前に起きた哀しい事件に囚われたまま、時が止まってしまった琅たち四人が選んだ、一つの答え。

きっと彼らは汐乃に生きていて欲しかったけれど、それを願うことは汐乃に地獄のような苦しみを一生背負わせるのと同じだった――汐乃を愛してたからこその、この選択だったのでしょう。


時に、人間というものは己の欲に駆られて、自らだけでなく多くの人間を巻き込んで傷つけることがあるでしょう。

されど、その傷は一生癒えないものもある。

汐乃や彼らの選択を否定するには、この理不尽な世の中の現実を直視しなければならないのかもしれません。


これからも橘浅葱はちょこちょこと他の作品にも登場します。

また、最後に起きた殺人事件――この謎は『Rain』シリーズの核ともなる、悲劇に通じる……かもしれません。笑


最後になりましたが、私の拙い文章を最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。

皆様の生に幸多からんことを。


紫苑

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