五人
「ろう! 早く!」
可憐な白いワンピースがよく似合う子だったと書けば、語弊を招くだろうか。
悲劇の主人公を想像すれば思い浮かぶような、儚げな美少女――では決してなかった。鈴谷汐乃はむしろ活発、お転婆、じゃじゃ馬、そんな表現のほうがよく似合う、男勝りな女の子だった。
「ろうのほうが足遅いってどういうことー?」
それでも僕たちは皆、そんな彼女だからこそ――愛した。けらけらとなんの屈託もなく、笑う彼女が皆好きだった。
だからこそ皆気づかなかった。彼女が無理して笑っていたその裏で何を思っていたかなど。だが、もしそれに気づいていたら。もっと早くからそれを知っていれば、僕たちには違う未来があったのだろうか。
あの日からずっと、そればかりを悔やんでいる。
*
二〇一五年六月十日。
周秀谷は、無気力状態となっていた。
浅葱たちの質問に答えはするが、魂が伴っていないとでもいうのか。瞳は落ち窪み、げっそりと痩せ細り、まるで精気を抜かれた骸骨のような有様だった。その理由を間近で見届けた浅葱にとっては、同情に値するものがあったが、ただ今は警察としての仕事を終わらせることにあった。
「それで、結城とはどこで知り合ったのだ?」
結城という名に、秀谷はあからさまに身体を強張らせた。
「今、思い出させるのは酷だとわかっているが……早めに終わらせたほうが、お前も楽だろう」
虚ろな瞳が浅葱に向けられ、秀谷はそのまま動かなくなった。十分ほど経っても、変化を見せない秀谷に浅葱は溜息をついて、他の話題に移ろうと資料を捲った。
「……カフェで」
「カフェ?」
突然話し始めたことに少々驚きながらも、何気なさを装いながら続きを促す。
「アンティークで溢れた、しみったれた小さいカフェで……そこのオーナーがやたら上手い珈琲を出すって、評判で……仕事帰りによったんだ」
「仕事とは、暴力団関係のか」
「違う……俺は、あんたも知ってると思うが、あっちの趣味を持った男さ。だから、人の情事にも他の人間よりは、だいぶ理解があるほうだと思ってる。世の中には、あんたも知らないような趣味を持った男たちが、腐るほどいるのさ……だから、紹介してやった。馴染みの客でね」
鼻で嗤いながら、秀谷はどうでもいいといった雰囲気で話し始めた。
「その馴染みの客とやらも、お前の恋人か」
秀谷は、首を傾げてもう一度鼻で嗤った。
「その客はいい会社にも勤めてるし、そこそこの容姿も持っていたが……何分、幼女趣味でね。俺のようなおっさんなど相手にしちゃあくれないのさ」
「幼女……?」
あからさまに拒否反応を示した浅葱に、秀谷はそれを気にした風でもなく話を続けた。
「俺はもう、こんなだし……どうでもいいから話すが、その客は前に再婚相手の連れ子にも手を出したらしい。その時は、ほらを吹いてるだけだと思ったが……客の本名を知ったとき、俺は驚いたさ。あんたも知ってる男だよ」
やけに饒舌になり始めたと思えば、秀谷の目の焦点が合っていない。精神安定のために打っている薬が切れてきたらしい。今日の取調べはとりあえず仕舞だと思って、資料を閉じる。
「もう、身体がつらいだろう。今日は終わりだ」
立ち上がりかけた浅葱の袖が掴まれる。
「聞かなくていいのかよ……これは、特ダネだぜ」
怪訝な顔をした浅葱に、秀谷は何が面白いのか頬を紅潮させ、大笑いをし始めた。
「二十年前に、養女を喪って悲劇のヒーロー気取りしてた奴だよ」
浅葱の心臓が大きく打った。二十年前に養女を失った?
遠い過去に葬り去ったはずのあの事件のことが一気に蘇る。あまりにも唐突に明らかにされたそれに鼓動が苦しくなって息すらできない。
「――鈴谷、宗介だ」
浅葱の瞳が、限界まで開かれた。
*
「俺たちは、汐乃を殺したくて殺したわけじゃない。……あの時はそうするしか、なかったんだ」
外を見続けていた慎太郎がこちらを向く。その瞳に宿る色が琅と同じだった。
今になって気づく。琅は表情がないのではない。それはあからさまにわかるほど目の前にあった。
「大人になった今ならば、他の方法も考えついたかもしれません。ですが……あの時は、あれが最善だった」
琅は変わらずに微笑んでいる。だが、その微笑の奥にあったのは、ここにいる他の誰よりも激しい怒りと――後悔。
「……最善? 人を殺めることが? 君らにどんな理由があったとしても、殺人は決して許容されるべき行為ではない。それでも、君たちはそうするしかなかったと言うのか」
「それは綺麗事だよ、刑事さん」
暁也が馬鹿にしたように嗤う。
「警察は必ずしも俺たちの味方になってくれるわけではないし、平気で見殺しにもできる。金に目が眩めば、なんだって揉み消す。心当たりがないなんて言わせないからな」
「そんな奴らを信用なんてできると思う? 子どもには嘘をつくなとか、人を傷つけちゃいけませんとかご高説を垂れる癖に、大人たちは平気で偽り、罪を犯す。そんな奴らが、汐乃を救えるはずがないわ……!」
彼らの言い分もわからなくはなかった。
長いこと『大人』をやっていれば、汚いことは見るし、自らもやるしかなくなる。最初は罪悪感を覚えはするが、年を取れば取るほどそれも薄れる。自分も警察組織に嫌気がさして今の部署に異動した口であるため、反論はできない。
だが、それと殺人は話が違う。
「私が殺しを否定するのは、何も法律やれ倫理やれという意味だけじゃない。人の命を奪うということは、歩むはずであった未来も含めて命まるごと背負うということだ。命の重さは何よりも重く、ただでさえ己の命一つだけでも抱えきれないのに、もう一つなど……己を自らで壊すような真似を……」
なぜ、と問いたかった。大切な友人を殺してまで、彼らは何を守りたかったというのか。
だが、浅葱はその時ようやく知った。彼らがまとう静寂が、何を意味しているのかを。
「私たちは知っているんですよ。知っていて、それでもそれを選択したのです。……しいの最期の願いだったから」
ついに慎太郎が涙を流した。嗚咽を堪えて、肩を震わせてなく慎太郎を海生が庇うようにその肩を抱く。だが、海生の瞳も涙に潤んで、今にも零れそうであった。
「俺たちは……しいの、最期の願いを……叶えた……傷ついて、ぼろぼろになって……それでも、笑って……俺たちに願った……願いを……」
「たとえ……それが、しいと永遠に会えなくなることだとわかっていても、私たちはしいを助けたかった……もう、無理して笑わなくたっていいんだって……!」
今まで強気に振舞っていた海生も、憚ることなく涙を流していた。長い間、溜め込んできたものを、ようやく外に吐き出すかのように。
「では……あれは、汐乃ちゃん自身が望んだことだというのか?」
「それ以外で、俺らがしいを殺すわけがないだろ! できることなら生きて欲しかった……でも、もうそれは無理だったんだ」
暁也が耐えられないというように再びカウンターを拳で打った。悔しさを滲ませて、血が出るほどに唇を噛みしめている。
だが、浅葱は少々混乱しながらも、冷静に整理していた。
汐乃自身が死を望んだ――それは予想だにしない答えだった。浅葱は、些細な喧嘩の末の殺意のない殺人、または不可抗力の事故のどちらかだろうと思っていた。だが、事態はそんな単純なものではない。
彼らが人を殺す代償を理解してまでも起こった殺人。一体、そこにどんな理由が隠されているというのか。だがおそらくは、事実こそがもっとも残酷なのだろう。
「私たちはしいが抱えていた苦悩を……本当の意味で理解することはできません。半年以上もの間、養父から性的虐待を受け、それでも笑って生きようとしていた……しいは、一体どれだけ苦しかったか……」
琅が疲れたように眼鏡を外し、眉間を揉んだ。その目にまだ光るものは見えない。琅こそが誰よりも苦しんでいると思うのに、それを見せようとしないのは琅の覚悟なのか。
再び眼鏡を戻してこちらを見た琅に、惑いはない。さすがだとは思うが、どこか痛々しさを感じるのは気のせいではあるまい。
「私は今も忘れられません……最期の時を」
時計は二一時を回っている。
*
一九九五年八月二三日。
いつもは静かで虫の音とたまに走る車の音しかしない街で、その夜だけは違っていた。懐中電灯を持った大人たちが、琅たちの名前を口々に叫びながら森を捜索していた。夕方に出ていったきり、戻ってこない琅たちを心配して、声を張り上げるが一向に姿が見えない。いつも溜まり場にしている小屋や、暁也の父親が管理する他の小屋にもおらず、大人たちは途方に暮れていた。
そんな騒ぎになっていると気づいていながら、琅たちは汐乃を守るようにして、森の奥深くにある自然の洞窟に籠もっていた。ここは暁也が森を探検していた際に見つけたもので、自分たち以外誰も知らない秘密の場所だった。
「お母さんたちが探してるよ……皆、帰らなきゃ……」
汐乃が頼りなさげな声で囁く。それでもその手は離したくないというように琅の服を掴んでいた。
「大丈夫だって。しいは何も心配しなくていいから」
「そうだよ! 私たちはしいの友達でしょ。こういう時くらい皆で力を合わせなくっちゃ」
海生が汐乃を励ますように、ガッツポーズをした。なんだかんだで一番この状況を楽しんでいるのは海生だ。こういうハラハラするような展開が好きらしい。一方、小心者なのは暁也で、慎太郎は琅と同じくらいに冷静で作戦を考えられる余裕がある。
「アキってば何ビビっちゃってんの? いつも馬鹿みたいにはしゃいでる癖にー」
「ビビってねーよ! 別に、ここの存在を黙ってたこと父ちゃんにバレたら怖いってだけだし」
「怖いんじゃん。アキも男なんだから、しっかりしろよなー」
用意周到に懐中電灯や飲み物、軽食を用意してきた慎太郎がやれやれと肩を竦める。
「だけど、ここも見つかるのは時間の問題だ。……どうするか、考えないと」
琅の言葉に皆口を噤んだ。
汐乃の身に何が起こったのかを知って、怒りのあまり汐乃を連れてこんなところまで逃げてきてしまった。自分の親に見つかるのは確かに怖いが、今はそんなことはどうでもいい。もし、本当に見つかってしまえば、汐乃があの養父の許に連れ戻されてしまえば――今度こそ、汐乃を助けられない。
だが、どんなに頭を捻っても、いい案は何も思い浮かばなかった。この時ほど、小学生でしかない自分たちを恨んだことはない。
「皆……しいのために、ありがとね……」
ぽつりと呟いたそれが、汐乃の心からの言葉だと誰もがわかった。泣き笑いのような表情にも拘らず、こんな状況にあっても健気に笑おうとする汐乃に胸が苦しくなる。
「しいね……ずっと思ってたんだ……しいは、何か悪いことしたから……だから、神様はあんな人を連れてきたんだって……」
「何を言ってるんだよ! しいが悪いはずないじゃないか」
「そうだよ! 悪いのは全部あの人でしょ」
琅たちが代わる代わる汐乃を慰めようとするが、虚しく聞こえてしまうのはなぜだろう。
全員が汐乃の身に起きたことを知ってもなお、希望を捨てようとしなかったのに、汐乃自身が何かを諦めていることに気づいてしまったからだろうか。それはあまりにも哀しい事実だった。
「もう……疲れちゃったんだ……いい子でいることも、笑っていることも……」
初めて宗介に会ったときは、優しそうないい人だと思った。
離婚してからというものどこか塞ぎ込んでいた母が、以前のような笑顔を取り戻せたのは、宗介のおかげなのだと思えば、再婚することも別に嫌ではなかった。しばらくは、新しくできた父と母の三人で幸せな生活を送っていた。
だが、宗介の目的は母ではなく、汐乃であった。
母がパートに出始めた頃、宗介は初めて汐乃を犯した。宗介はそれなりの大企業に勤め、母が働きに出る必要もないはずなのにとは思っていたが、宗介が汐乃と二人きりになれる時間を作るために、母に働くように仕向けていたと随分後になってから知った。
宗介の行為は回数を重ねるごとにエスカレートしてゆき、汐乃が抵抗したり、宗介の正体を誰かにバラそうとしたりすれば、言葉の暴力で捻じ伏せられ、脅された。誰にもバレないように、母の前でも皆の前でも、弱音を吐くことすらできない日々が半年以上も続けば、誰だっておかしくなる。
だが、ついにやっと真実が白日の下に晒されるときには、すでに汐乃の心は壊れていた。自分を守るためにこんなところに逃げ込んで、励まし続けてくれる皆の瞳を正面から見られないほど、汐乃はもう穢れてしまった。そしてできることなら、そんな姿を琅だけには知られたくなかった。
「だから……終わりにしたいの」
何か奇跡が働いて、この状況が上手くいって、宗介が逮捕されたとしても、自分に残った傷は一生消えない。ずっと負い目を感じて、生きていかなければならない。そのようにしか生きられない残りの人生に、希望など見出せるはずもない。
「終わりにしたいって……しい、何言ってるんだよ?」
動揺して、琅の声が枯れている。
海生と慎太郎は言葉を失って、汐乃を凝視し、暁也は何かを知って大口を開けたまま呆けていた。こういう時に最初に気づいてくれるのは、いつも馬鹿だといわれてばかりの暁也だ。誰よりも勘が働き、今日ばかりはそれに何よりも助けられる。
汐乃は微笑んで、いっそ清々しいほどの心で呟いた。
「ねえ、皆……私を、死なせて……?」
白み始めた空を求めて、汐乃は外に飛び出した。
*
琅たちは血相を変えて、飛ぶように駆けてゆく汐乃の後を追った。
先ほどまでは声を張って探し回っていた大人たちが、なぜか今に限って一人も出くわさない。異様な静寂が支配した森は、薄く立ち込める霧も相まって、軽い不気味さを醸し出していた。まるでこれから起きようとしていることを暗示するかのようなそれに、琅は走りながらもその考えを振り払った。
汐乃が死ぬ? そんなこと受け入れられるはずがない。汐乃はずっと一緒にいる、過去も現在も未来も――それにも拘らず、汐乃のいない世界をこれからどうやって生きてゆけというのか。
だが、ずっと傍にいたからこそわかる。汐乃がこんな状況で冗談を言うような奴ではなく、長い間我慢して我慢して、ついにその我慢が限界に達し、心が崩壊してしまったからこその先ほどの言葉であったことを。その汐乃を留めさせられるほどの何かを琅は言えるのか。むしろ、汐乃の地獄を思えばこの世に留めるのは正しいといえるのか。
琅はわからなかった――わからなかった。
汐乃が選んだのは、思い出が詰まったいつもの小屋だった。錆びた柵の前に立ち、崖をものともせず汐乃はこちらを向いた。
「しい……やっぱり、駄目だよ……死ぬなんて……」
海生が瞳に一杯の涙を溜めて、懇願するようにうめいた。慎太郎がそれに同調するように叫ぶ。
「俺もしいがいなくなるなんて嫌だ! ずっと一緒にいたいよ……」
「ありがとう……うみ、しー。でも、もうこれしか方法がないの。……あの人から完全に逃げるには」
暁也が怒ったように汐乃のすぐ傍に走り寄る。
「だからって、なんでしいが死ななきゃいけないんだよ! 悪いのはあいつで、もし死ぬんならあいつのほうだろ!」
「あの人が死んだって、何も変わらないの……だって、私はもう汚れてしまったから」
哀しそうに笑った汐乃は痛々しくてもう見ていられなかった。
汐乃の未来は奪われてしまった。永遠に、決して取り戻せない。宗介に対する激しい怒りが湧き起こって、琅は気づけば汐乃の腕を掴んでいた。それは汐乃を留めるためではなく、汐乃の願いを叶えてやるためだった。
「しい、ごめん……気づいてやれなくて……」
汐乃はもう充分苦しんだ。こうやって、死を望んでしまうほどに。
自分たちがそれを引き止めてしまうことは、汐乃のその苦しみをさらに長引かせるだけなのだ。それは汐乃を狂わせて、本当の意味で喪うことと同じなのだと思う。
だから、自分たちが背負うのは罪だった。汐乃の苦しみを気づいてやれなかったことへの懺悔。
「しいはもう、頑張ったよ……たくさんたくさん、頑張って……もう、疲れたよな」
「ろう……」
「だからもう……笑わなくったっていい……泣いていいよ……」
「ろう……ろう、ろう……!」
初めて汐乃の瞳から涙が零れた。安心したかのように嗚咽を漏らしながら、汐乃は泣き続けた。それを見て、他の三人もつられて泣き始める。
「しい……ごめん、ごめんね……!」
海生が汐乃に寄り添い、縋りつくようにその背に手を置く。その手の上に慎太郎と暁也も重ねた。
「友達なのに気づけなくてごめん……」
「もっと早く気づければよかった……ほんとにごめん」
「皆……」
こうやって皆で身を寄せ合って泣いたのは、この日が最後だった。
汐乃の震える小さな背を、泣きながらも笑っていたその優しい笑顔を、僕たちは生涯忘れない。救えなかった友の名を呼び続けて、僕たちは生きてゆく。自らの罪を背負いながら。
最期の時、汐乃の背を全員で押した。
唇を噛みしめ、声を上げて泣き叫びたくなる衝動を必死に堪えて、僕たちはそれを聞いた。昇る朝日を遮り、どこかへ飛び立とうとする鳥の鳴き声を掻き消すような、切ないその言葉を。悲鳴も上げずに落ちていった身体が、何かにぶつかる嫌な音を。
無意識に近くに咲いていた花を手折り、そっと汐乃が落ちた場所へと流せば、汐乃の身体から流れ出す血潮に気づいて、誰もが泣くのをやめた。
言葉に出したわけではない。だが、わかっていた。その涙は今流すべきものではない。すべてが終わるその日まで、自分たちが泣く資格はないのだ。
その日、僕たちは汐乃と共に死んで、再び生まれ変わった。汐乃の無念を晴らすためならば、感情もいらない。欲しいのは宗介に復讐するための力だけ。それを得るためならば、手段など選ばない。