四人
一九九五年八月二十日。
やっとのことで宿題も終わらせ、ついに夏休みもあと一週間を切っていた。直視したくない現実から逃れるために、今日も琅たちはいつもの場所に集まっていた。
「しー、それ取ってー」
「ほら」
「ありがとー」
特にすることもなく、各々持ち込んだゲームや漫画本やらで、時間を潰している。これほど同じ場所にずっといれば、必然と定位置みたいなものもできていて、そこに仲間たちがいるのが不思議と心地よさというものを感じさせていた。
琅は窓の下の壁にもたれながら漫画本を読んでいたが、寝転がって同じく漫画本を読んでいた暁也が脇にそれを置いて起き上がった。
「あーもう、夏休みも終わりだなー」
「急にどうしたんだよ?」
琅も読みかけの漫画から顔を上げる。
「なんかさー早いなって」
「そんなこと言ったって、学校が始まったら一番楽しんでるのアキじゃん。主に、休み時間と給食の時間に」
「そりゃそうだけど。俺らも来年から中学じゃん? なんか、小学生最後の夏休みなのに、いつもと変わらんなーってさ」
「別に来年からだって、そうは変わらないだろ。皆、同じ中学だし」
まだ終わらせていなかったらしい宿題をやっていた慎太郎が話に加わる。普段は真面目ぶっているが、意外と最後まで終わらないのが慎太郎だ。
「そうだけどさー気持ちの問題ってやつ」
「アキってそんな繊細だったっけ」
「はいはい。俺はどうせ食べ物にしか興味ありませんよーだ」
いじけながらも、ポテトチップスの袋に手を伸ばす。もしゃもしゃと頬張る暁也はそんなことを言いつつも、おそらくはなんの悩みもないのではないかと思えてくる。
「あっ、そういえば今日は早く帰んなきゃ駄目だったんだ!」
海生は開いていた海洋生物の図鑑を勢いよく閉じて、立ち上がった。
「なんかあるの?」
「今日、叔母さんが来てくれる日なの!」
「叔母さんって、あのダイビングのインストラクターやってる?」
俄然目を輝かせ始めた慎太郎が前のめりの姿勢になって、海生を向く。ふふんと自慢げに鼻を鳴らして、海生は腰に手を当てた。
「そうそう。ダイビング旅行でコロンビアから帰ってきたばかりで、お土産話を聞く約束なの」
「うっそ! いいな!」
宿題そっちのけで話に飛びつく慎太郎に海生は苦笑した。叔母さんの話をすれば、絶対こうなると思ってはいたが、慎太郎は期待を裏切らない。
「じゃあ、うちくる? しーなら叔母さんも大歓迎だろうし」
「マジで! 行く行く絶対行く!」
即行で宿題を片づけ、海生よりも早く靴を履き終わった慎太郎に皆が呆れて笑った。
「テンション上がり過ぎ」
「宿題終わってないんだろー」
「そんなの後に決まってるだろ! 海生早く!」
「ちょっと待って、早過ぎる……」
手提げバッグに図鑑を放り込み、海生も慌てて靴を履く。
「じゃあ、また明日ね」
「ばいばーい」
そして、興奮した慎太郎と共に海生は帰っていった。取り残された琅たちはにやりと顔を見合わせる。
「最近、あの二人仲いいよな」
「ちょっと跡つけようぜ」
*
「琅、その人……」
一瞬で自分のことがわかったらしい。
「警視庁の橘浅葱だ。……知っているのだろうが」
状況を上手く飲み込めていない慎太郎は、答えを求めるように琅を見る。
「来てくれたんだよ、あの日のことを聞くために」
「じゃあ、やっと……?」
身体の力が抜けたのか、ふらっと壁に倒れかける。海生がすかさず慎太郎の傍に寄り、その手を引いてソファ席に座らせる。琅もコップにミネラルウォーターを注ぎ、慎太郎の前の猫足テーブルの上に置いた。
「琅……」
「慎太郎のことを待っていたんだよ。これで、すべてが揃った」
「嗚呼……そうだな。……まさか、本当にこの人になるとは思ってなかったが……」
ちらっと慎太郎がこちらを見た。すぐに目を逸らされたが、今までの誰よりも慎太郎は感情が表れやすいらしい。
「琅の勘が当たったな」
「誰も信じてはくれなかったけどね」
琅も慎太郎の前にある一人用のソファに腰かけた。
「長かった……だが、もう待たなくていいんだな……? やっと、やっと……俺たちは、進めるんだな」
「そうよ。これで、すべてが終わるのよ」
慎太郎の隣に座り、その肩に海生の手が添えられた。今にも崩れ落ちそうな二人を見守っていた琅が、流れるような視線を自分に向ける。
「刑事さんの目には、どのように見えていましたか? ……先ほど仰られた、花のこととか」
「覚えていたのか……」
「ええ、もちろん。答える時ではなかったので、先ほどはあえて答えなかっただけです。……ですが、それを忘れないでいてくれたからこそ、私はあなたに決めたのです」
「決めた?」
「私たちの生き筋を、見届けていただく証人にね」
優雅な手すりにもたれて、琅は妖しく微笑んだ。
*
一九九五年八月二四日。
荒れた土肌に手をつく。
若さに物をいわせてここまで這い上がってきたが、さすがに炎天下の下でその根拠のない自信は無謀としかいいようがなかった。肺が欲している酸素が多過ぎて、ぜいぜいと荒い息ばかり繰り返す。だが、わずかばかりの休憩も鑑識に邪魔そうな目を向けられ、あえなくその場を退散した。
日影はないかと視線をうろうろさせれば、丁度いい大きさの木の下に涼しそうな陰ができていた。天の助けといわんばかりにそこに飛び込んで、再び休憩に勤しもうとしたが、気にかかるものというものはいつでも唐突に目の前に姿を現す。
(なんだ、あれは……?)
崖の程近くの木に、何か白いものが引っかかっていた。不思議に思って、その傍に寄るとそれは花だった。しかも先ほどは気づかなかったが、それは一つだけではなく、他にも転々と落ちている。
「あの、これ……」
声を挙げかけるが、瞬時に暑さで機嫌の悪い鑑識に睨まれた。苦笑いをしながら視線を逸らし、どうしようかとしばらく悩んだが、えいっとその花を手に取った。あとで怒られたら、落ちてきたとかなんとか言って誤魔化そうと算段をつけて。
「これは、木槿か……?」
純白の大きめの花びらが重なる美しい花。だが、辺りを見渡しても、木槿が咲いている場所はない。不思議に思い、もう一度広範囲に渡って視線を巡らしていると、ふと視線が崖の上に向いた。そこには、木槿に似た白い花が自生していた。
その瞬間、浅葱の全身に悪寒が走る。この暑さにも拘らず、一瞬にして身体が冷えた。怖くなってぽろりと木槿を落とす。
その時、そう思った理由は未だによくわからない。なぜかその花が勝手に落ちてきたものではないと、はっきりと理解した。意図的にここに落とされ、自分にはその意味がわからずとも――この花がここにあるのには意味があるのだと。
背に視線を感じる。咄嗟に後ろを振り返れば、そこにあの少年が立っていた。
*
「私は当時、捜査に加われるような立場ではなかったし、若造などただ放って置かれていた。だから、ただ見ていた。君たちと……そして、あの花を」
所在なさげな指がカウンターの木目をなぞる。使い込まれていい味を出している一枚板のオーク材が指に馴染み、柔らかな温もりを感じさせるが、記憶に残る感情はそれとは正反対だった。年を取って、記憶が曖昧になった今でも、それは鮮やかに思い出せる。印象的に脳裏に焼きついて、忘却の彼方へ追いやることを許してはくれない。
もっと他の色だったのならば違ったのかもしれない。赤とか青とか、紫でもなんでもいい、白ではない他の色ならば。だが、そこにあったのは白で、その色以外の花がここにあるはずもなかったのだ。
すべての事象に意味があるのだとしたら。
「近くに咲いているわけでもないのに、その花はそこにあった。しかも、四輪――あれは君たちだね」
同意を示すように琅が頷き、それに続くように他の三人も頷いた。
「当時の捜査資料には、特にその花についての記載はなかった。だが、一度おかしいと思ってしまえば、なぜ花がそこにあるのか、異常な光景のような気がした……上手くは言えないが……あってはならないもの、のような」
あとで捜査資料を読み直して、愕然としたのを覚えている。あれほどに異常なものを鑑識が見逃していることに。そして、誰一人木槿の存在に気づかなかったことにも。
だが、浅葱の主張に耳を傾けてくれるような稀有な人はなかった。何度、繰り返し木槿の再調査を申し出ても相手にされることはなく、そのまま時だけが過ぎ、事件は解決という判子を押されて、かび臭い資料部屋の奥へと追いやられた。
「それで二十年経った今、私たちの許に舞い戻ってきたと?」
浅葱はゆっくりと彼らを振り返った。暁也を見て、海生、慎太郎と続き――そして、最後に琅を見る。琅は酷く冷静で、浅葱の口から零れ落ちるそれを待っているようにさえ思えた。
「……そうだ。もし、私の中にある一つの仮説が事実だとしたら、あれは事故ではなかったことになる」
*
楽しそうに二人は話している――主に、海洋生物について。
興味のない者から見れば、いつもいつも同じような会話をして何が楽しいのかと思うが、本人たちはいたって楽しげだった。何か、頬がにやけるような展開があると期待して跡をつけていたが、いつもと代わり映えしない二人に次第に彼らは飽き始めていた。
「もっとさー手繋ぐとか、なんかないのかよ」
「イルカとかそんなのばっかり話してるぞ、あいつら」
「つまんねー、もうやめようぜ」
撤収、撤収とアキは手を振った。言い出しっぺの癖にと思いながらも、つまらないのは事実なので琅も欠伸を噛み殺せない。
「ろうも眠そうだし、今日は解散する?」
「そうだなー、どうせまた明日も会うしな」
別れの挨拶に手を振ろうとしたとき、琅はまたしてもそれに気づく。
「また、痕ついてるよ?」
「えっ?!」
片腕を上げて、服が少しずれた瞬間に見えた。この前とは違い、肩の近くに赤い痕が二つもあった。
「なんかぶつけたのか? でも、こんなとこ……」
ぶつけるわけないと言おうとして、その痕に指を伸ばしかけたときだった。
「琅君?」
突然に名を呼ばれて、反射的に身体がびくっと反応する。
「こんなとこにいたんだね。帰るよ」
スーツ姿のいかにもサラリーマン然とした男が、にっこりと微笑んでいた。仕事帰りなのか、左手に仕事用の鞄とスーパーの袋を携えている。それは他のサラリーマンと変わらない風情であったが、男の声に籠められた冷たさに寒気すら感じて、その微笑がなおさら気持ち悪く感じた。
「今日は家にいなさいと言っただろう」
寒気を感じたのはどうやら琅だけではなかったらしい。暁也も眉を寄せて、あからさまに男を警戒している。
「森に……忘れ物があるから……しいも一緒に行こう!」
本当は忘れ物などなかった。それにあったとしても、普段の自分たちなら取りになど行かないし、それに明日も森で遊ぶ予定だ。だが、子どもの勘とでもいうだろうか、このまま離れてはいけないような気がした。
「そうだ……そうだな! 早く、行こうぜ」
琅の咄嗟の嘘に暁也もすぐさま乗った。なんとか誤魔化そうとして枯れた笑いを浮かべながら、手を引っ張って強引に連れていこうとしたが、男は微笑みながらそれを制した。
「二人だけで行ってくれるかな。今日は用事があるんだ。ね?」
男の瞳には有無を言わせない何かがあった。結局、琅と暁也はそれ以上何も言い出せないまま、男は二人に背を向け歩き出した。
「ばいばい……」
今にも消え入りそうな声に、二人は咄嗟に追いかけようとしたが、男がこちらを振り返り、気持ち悪い笑顔を向ける。
「じゃあ、また明日」
そして、そのまま足早に男は去っていった。
「……あれが、しいの新しい父ちゃんか」
「嗚呼、そうらしいな」
暁也は頭の後ろで手を組んで、面白くなさそうに口を尖らせる。
「俺、なーんか好きになれないんだよなー。大人たちはあの人のことすごいとかって褒め立てるけど、なんかなあ。ろうはどう思う?」
「うん……なんか、僕たちのこと嫌ってる感じ。よくわかんないけど。というか、あの痕見た?」
「見た見た! 流行のでぃーぶい? とかいうのじゃないといいけどなー」
どんどん小さくなっていく背に不安を覚える。それは暁也もだったのか、二人同時に顔を見合わせる。
「……夕飯食べたら、しいの家に集合な」
ごくりと生唾を呑み込み、二人はとりあえず家路に就いた。
*
徐々に静まり返ってゆく店内はひっそりとしていた。息をすることすらも躊躇われるような闇に堕ちてゆくような。それでも琅たちはその闇から抜け出そうと足掻くことすらもしなかった。
「その後、私と暁也は家に首尾よく忍び込みました」
「家宅侵入罪だと思うが……」
「そんな細かいことは置いといてくださいよ。あの日、私と暁也が忍び込まなければ、すべて闇に葬られたままだったのですから」
琅の前髪がさらりと揺れる。
「できることなら見たくなかった、知りたくなかった――事実を、私と暁也は見て、それをここにいる海生と慎太郎にも告げた」
「始めは信じられなかった。琅と暁也が面白がって、俺たちを騙そうとしているだけだって……でも、それは事実だった」
膝の上の拳が震えていた。怒りを窓の外を見ることでなんとか押さえ込んでいるのか、慎太郎はずっと降りやまない雨を見続けていた。
「鈴谷宗介――事件の半年前に母親が再婚し、誰もが知る大手商社に勤めるエリートと、資料には書かれていたが」
「それはあいつの表の顔。外ではいい父親を装っていたけど、すべてあいつの作り出した偽りの姿だった。それに犠牲になったのよ」
つらそうな表情を浮かべ、海生は堪らずに視線を伏せた。
「私は長年、疑問に思っていた。事件後誰もが証言したように、君たちの仲は疑いようのなくよかった。それにまだ小学生の君らにそんな大それたことを実行できる意志などない、そう当時の捜査官が判断したのも一理ある。だが、私はどうしても腑に落ちなかった。事件の当事者である君たちが……あんなに冷静でいられるものであろうかと」
浅葱があの日見たのは、涙も流さず、ただ何かに堪えるように酷く冷静な瞳をしていた彼らの姿だった。普通の小学生ならば、もっと泣き叫んだりして冷静でいられるはずがないのだが、彼らは違った。
だからこそ、浅葱は忘れられなかった。その子どもらしからぬ冷たい瞳を。
「――だから、私は一つの仮説を立てた。もしや、君たちは事件の当事者であっただけではなく……加害者でもあったのではないかと。ならば、あの冷静さは説明がつく。だがそれでは、君たちがいう鈴谷を狙わなかった理由や……花の意味がわからなくなる」
「あの花は――散華」
琅の眼差しの先にあったものに気づいて、はっと息を呑む。
店内の片隅、本当に気づかないようなところに、それはあった。涙の紺青に染まった硝子細工の美しい花瓶に生けられて、凛と咲く木槿が。
「仏教の言葉で、『仏を供養するために花を散布する』という意味だそうです。もちろん、当時の私たちがそんな高尚な言葉を知っていたわけではありませんが、今ならばその言葉が一番よく似合うことがわかる。……刑事さんは、もう一つの意味を知っていますか」
知っていたが、言葉にするのは躊躇われた。今ならば、その言葉が一番よく似合うと言った琅の言葉が身に染みていたゆえに。
「――若くして、死す。……あの子、そのもののような言葉でしょう?」
どうして琅の表情が泣き笑いのように見えたのかはわからない。そして、言葉を聞き届けた者たちが皆、瞳を伏せたのかも。
「ならばなぜ……あの子を」
がたっと椅子を引いた音がやけに響く。動揺していたわけではないが、その音が無性に心を引っ掻いて仕方がない。
「あの事件は事故ではない」
慎重に言葉を落としてゆく。真実を明らかにするためにここへ来たはずなのに、自分こそが泥沼に嵌っていくかのような錯覚を覚えるのはなぜなのか。
「事件当時、君たちは証言した……錆びた柵が壊れ、助ける間もなかったと。だが、それは君たちが作り出した事実だ……それが、真実ではない」
未だに、穏やかに微笑み続ける琅の瞳は微塵も揺らがない。浅葱の口から落とされる言葉をもう随分前から知っていたかのように。
浅葱の中で、様々な声が反芻する。逮捕した男の証言、赤い痕、琅たちの言葉。それらが大きな渦となって、浅葱を呑み込もうとしていた。隠されたものには、隠さねばならなかったわけがあると言っていた琅の声が蘇る。
そして、降り続く雨。その涙に似た紺青の中に見出したのは――
「……君たちは崖から突き落とし……殺害した」
琅の睫毛が一瞬震えて、指が動く。
「――鈴谷、汐乃ちゃんを」
言葉が落ちた瞬間、時が止まったのかと思った。だが、外で激しく降り続ける雨の音が現実を教えてくれる。
すでに、二十時を過ぎていた。
*
「ろう、ろう……」
「しい、どこなの……」
追いかけても、追いかけても届かない距離。そんな果てしない溝が、僕たちの間にある。
「しい……それでも、僕は」
僕は君をいつまでも、いつまでも、忘れない。
痛みばかりが降り積もって、発狂しそうなほどの孤独に蝕まれても、君を忘れて生きることはもはや不可能だから。
「ろう……ごめん、ごめんね……」
――復讐の刃を突き立てるまでは。