始業式の放課後
寒い。
肌寒さを感じて、暖かさを求めるために動いて、ずきんとした痛みに目が覚めた。
「はあ!」
ずきずきと響く痛みに、神奈は思わず手を当て、さらなる痛みに悶絶する。
「ど、どういうことよ……」
口をきゅっと結び、おそるおそるブラウスの裾を上げた。案の定というか、見て後悔した。真っ青を通り越し、どす黒いアザが脇腹にあった。しかも巨大な。殴り合いでもしたか、と思えるようなアザに、神奈はため息をついた。今までろくにケガしたこと無かったのに、転入早々これか。
シャッとカーテンが開かれた。遠慮無くカーテンを開いたのは、白衣をまとった男だった。
「こ、こんにち、は」
白衣の男はふわっと微笑んだ。顔にあるしわの具合から、新米と言うには老けすぎている。多めに見積もって40代前半か……。
男が白衣のポケットから出したのはタブレットだ。いきなり出されたパソコン端末に、神奈はとまどいながら彼のすることを見守る。指がすさまじい勢いで画面を走る。数秒たって、神奈にタブレットの画面を見せた。
『天候初日からとんだ災難だったらしいね。アザはおそらく残らないだろうけど、早退して病院行こうか?』
そう、書いてあった。
何で口でしゃべらないんだろう。もしかしたら、しゃべれないのか。なら無理強いは出来ないな……。
「い、いえ、そこまでしてもらわなくても……」
そこまで大事にされたくはない。机ぶつけられたのが大事でない、と言うのもおかしな話だが、転入初日から早退して病院なんて、縁起が悪すぎる。
『でも、もしかしたら骨にヒビとか……』
「だ、大丈夫です、打ち身の痛みだけです!」
彼はしばらくタブレットを動かす指を止めた。数秒考え込み、すらすらと端末に指を滑らせる。指を五本すべて使った早打ちだ。パソコンの早打ちというのは割と身近にいたが、まさかタブレットの早打ちとは。それほどタブレットを媒体にした会話に慣れているのだろう。
『事情は話さないよ、病院の相手方には』
「え……」
『たとえ殴り合いの喧嘩だったとしても、ね。そのことについて心配することはないよ』
誰が机をぶつけたのか、結局神奈は知らない。それだとしても、暴行罪だかなんだかでいきなりクラスメートの罪が問われるのは非常に心苦しかった。見逃す、と言うよりも、取り返しのつかない状況を作るのが恐かったのだ。
『そういうのは学校の領分だから、事情までは話さない。君のケガの具合を聞いて、どうこうするのはこちらの問題だしね。只見逃すことは出来ないから、もし殴り合いとかだったら仲裁入ったり叱られるだろうけど』
「……そういう、ことなら」
これ以上かたくなに断る理由はない。もしかしたら自分も叱られるかもしれないが、そこは相手と半々と言うことにしよう。間に入ってくれるらしいし、この先生なら心配はいらない。
「ところでお名前を知らないんですけど、申し訳ありません」
『神谷言葉って言います』
「コ、コトバさん?」
しんと静まった。あ、これはもしかして、名前、間違えた。
いつか前に、世に言う、読めないキラキラな名前をカンで読み上げてしまったときの、女の子の雰囲気とよく似ている。
彼はプルプルと口元を痙攣させながら、タブレットをベッドの上に置く。くるりとふり返り、隣のベッドの枕に顔を埋め、くつくつと笑い出した。
「せ、先生……?」
秒針半周ほど、ごろごろと笑い転げている彼は、ばっと顔を上げた。未だに笑いを堪えきれない、とばかりに笑顔が消えない。
スルスルとタブレットを動かしはじめ、おもしろみと言うよりも喜びの混じったような笑みを浮かべ、神奈にタブレットを見せた。
『お父さんに本当に似てるね』
「は?」
『君のお父さんも、前そう読んだんだ』
「えと、その」
『僕の名前は、かみやことのぶって言います』
「こと、のぶ……」
読めないわよ。キラキラぴかぴかのあの女の子を改めて思い出した。ああ、あの子は今元気だろ……。
「ちょっと待ってください! あの、私の父と、知り合い、なんですか?」
『そうだよ、君のお父さんと、後ここの校長とは、同じ高校で大学なんだ』
「同高……」
『おまけに出身もここだしね』
「嘘ぉ……」
高校、大学と一緒と言うことは、少なくとも七年間は一緒だったと言うこと。実の娘より、同級生の方が父との付き合いが深いとは。何とも寂しい世の中だ。
「父とは仲がよかったんですか?」
『え。今でも仲いいよ』
「い、今でも?」
『今でもお付き合いさせていただいているよ。お世話になっています』
「……」
心にモヤリと何かが溜まった。息苦しさを感じて、神奈は口を開くことをやめた。おぼろげどころか、輪郭すら浮かばない父の顔。その父と仲がよいこの、赤の他人の教師の方が、顔も、声も、何もかも実感を持った人間だった。
『君の父さんともね、君と同じでね……』
「病院って、どのくらい離れて……」
「神奈ッ!」
怒号の後、ばんと保健室の扉が開かれた。その乱暴さに、言葉は眉をひそめ、入り口に近づいた。声で分かったが、来てくれたのは奏介だった。
「神奈、怪我は! ッて、痛! 先生叩かなくとも!」
パンと、タブレットを持っていない手で軽く叩いた。やれやれとでも言いたげに、言葉は溜息をついた。
「ありがと、来てくれて」
「いやぁ……」
ぽんぽんと肩を叩かれて、言葉に振り向く。にこっと微笑み、タブレットを差し出される。
「今から、ですか? はい、大丈夫ですけど。あ、荷物……」
「俺持ってきたぞ、俺も良ければ行っていい?」
ぼっと隣のベッドに鞄が置かれる。鞄の隅が妙にぬれているのが気になって、思わず手で触れる。それを見た奏介が、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「大丈夫。それ、水だから。一応不純物があまーり無い水なので、ご安心を。飲用水にも大丈夫です」
ぱちこーんと、星の飛ぶウインクをして舌を出す。男がやるポーズじゃないとは思う。くすくすと言葉が笑い、鞄を取り上げ奏介に押しつけた。
『じゃあ、行くよ。タクシーよんどいたから』
言葉は白衣を脱ぎ、ハンガーに掛けた。
神奈も素早く立ち上がると、服の裾を整える。鞄を持とうとすると、先回りするかのように奏介が鞄を取り上げた。
「荷物は俺が持つって。けが人以前に、女の子なんだからさ」
「ありがとう」
保健室の入り口に近づくと、言葉が立って待っていてくれた。が、その言葉の足下に、赤黄色の毛皮。番孤のフォックスが待っていてくれた。