2年目9月「忍び寄る足音」
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「久しぶりだな、クロウ」
夜――ちょうど日付が変わり、まともな生活を送っている人間の大半はすでに床に入って寝息を立てているであろう時間。
とある場所に建つ和風の平屋の一室。
そこにふたりの男がいた。
「久々、か」
感慨深げにそうつぶやいたのは40歳前後の男だ。
一見、普通の壮年男性のように見えるが、よくよく観察すると天井でかすかに揺れる電灯の明かりに瞳がまったく反応しておらず、どうやら光を失った人物であるらしいことがわかる。
しかし、その盲目の男――クロウは、正面に座る青年をまっすぐに見据えて言った。
「それほど時間が経ったように感じないが、それでも、もう3年にもなるのか」
「あんたももう40歳過ぎたんだろ? 歳を食うと時間の流れが速くなるもんさ」
向かい合う青年は軽い口調でそう言った。
クロウはかすかに笑って、
「竜夜。お前こそ――いや、お前はその名で呼ばれることを嫌うのだったか。ブルー、と呼べばよいのだったかな」
その笑みは心を許した者に向けるような類のものではなく、若干の皮肉が含まれている。
「別に嫌いじゃないさ」
しかし青年――竜夜は特に気にした様子もなく、少し切れ長の目を伏せ気味に苦笑すると、
「ただ、今となってはそっちの名で呼ばれることはほとんどないからな。ま、知らない仲でもない。お前が呼びたいように呼べばいいじゃないか」
「知らない仲でもないだと? こっちはお前と馴れ合うつもりはないぞ、竜夜」
「そうか? まあそうだな」
クロウの素っ気ない反応にも、竜夜は笑みを浮かべたまま、
「確かに、どうせ馴れ合うならかわいい女の子の方がいい。あんたみたいなオッサンじゃなくてさ」
「相変わらずだな、お前は」
「それで?」
そう言って竜夜が身じろぎをした。
目の前の盲目の男に伝わるよう、ややオーバーに左右を気にする仕草をしてみせて、
「誰か隠してるんだろ? 俺を呼び出したのはそいつに引き合わせるためか?」
「ああ、そうだ」
そんな竜夜の言葉に、クロウは驚いた様子も見せなかった。
竜夜がその存在に気づくのは想定の範囲内で、隠すつもりもなかったのだろう。
「紹介しよう。ああ……」
と、クロウは意味ありげな笑みを浮かべる。
「もしかするとお前の希望にそえるかもしれんな」
「女か」
「ああ。お前にとっては厄介な女だろうが」
そう言って、クロウは愉快そうにのどを鳴らす。
「厄介な女、ねぇ……そいつは楽しみだ」
竜夜は変わらぬ調子でそう言ったが、その目にはかすかに相手の意図を探るような色合いが混じる。
そして、クロウが部屋の外に声を放った。
「メリエル。ミレーユ。入ってこい」
「……なに?」
竜夜の顔に困惑が浮かんだ。
「メリエルと、ミレーユだと……?」
つぶやく竜夜の視線は、ふすまの向こうに浮かんだ影に釘付けとなった。
す、と、小さな音とともにふすまが開き、そこからふたりの女性が入ってくる。
ひとりは長い銀髪の女性。
もうひとりは赤い瞳の女性。
どちらも長く大きな耳をしており、悪魔であることに疑いはない。
それ自体は特に驚くことではなかった。
しかし――
「"氷眼"のメリエルと、"支配者"ミレーユか……」
彼女たちを見た竜夜の目は驚愕に大きく見開かれていた。
そんな彼に対し、銀髪の女性が口を開く。
「お久しぶり、と言ってよいものかどうか。直接お会いするのは初めてですが、貴方の存在は23年前から存じ上げています」
ゆったりとした、余裕のある口調だった。
「……23年前から、か?」
まさか、という顔をして、竜夜はその女性を見つめた。
女性と表現したものの、その人物の外見は下手をすると少女という年齢に見えた。とても23年前にこの世に存在していたとは思えない。
そんな竜夜の困惑をおもしろがるように、銀髪の女性は続けた。
「私がメリエルです。そしてこちらがミレーユ」
隣にいた赤い瞳の女性――ミレーユはクスクスと笑って、
「ブルー、かぁ。竜夜って本名のほうがカッコいいのに」
「……信じられませんか?」
驚きのまま固まった竜夜の表情に、メリエルはどこか捉えどころのない微笑みを浮かべてそう言った。
「……そうだな」
一瞬の沈黙の後。
竜夜は降参というように両手を広げてみせて、
「女性を疑うのはあんまり好きじゃないんだが、死んだと聞かされていた人物がいきなりふたりも目の前に出てこられちゃ、な」
「では、どうします?」
微笑みを浮かべたままのメリエルの周囲に力場が発生する。
「力をお見せすればよろしいですか?」
「っ……」
その言葉と同時に。
竜夜の眼前にあった湯飲みに異変が起きた。
「……氷眼、か」
つぶやき、竜夜の視線は湯飲みに釘付けになる。
先ほどまで湯気を立てていた緑茶が、湯飲みごと一瞬にして凍りついていた。
しかもそれほどの力が発生したにも関わらず、湯のみのすぐそばにあった茶菓子にはなんの影響も及ぼしていない。
限定的かつ強力な氷結能力。
竜夜がうわさに聞いていたとおりの力だった。
メリエルはそんな竜夜の反応に満足そうな顔をして、
「100度にも満たないお茶程度では物足りなかったかもしれませんね。ですが、私のこの視界の中にあるものでしたらなんでも。お望みであれば貴方の眼球を氷の塊に変えることも可能ですよ」
「それは遠慮しておくとしよう。俺はまだ君のような美しい女性の姿をこの目にたくさん焼き付けていきたいからね。……しかし、メリエルか」
かつてそう呼ばれた悪魔の名前を、竜夜はよく知っていた。
「ということは、そちらも"支配者"ミレーユ本人、ということでいいのかな」
と、赤い瞳の女性に視線を向ける。
「そうだね。私の力も見せたほうがいい?」
「いや。その必要はないよ、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃん?」
そんな竜夜の言葉に、ミレーユはなんとも複雑な表情をした。
「これでも君より10歳は年上なんだけどな」
「とてもそうは見えないがね」
そのころには、竜夜は自分のペースを取り戻していた。
そしてふたりの女性に向けていた視線をクロウへ戻す。
「つまり、これがあんたの兄貴の形見にして、あんたたちの最強の切り札ってわけか」
「まあ、そういうことだ」
クロウが手を振ってメリエルとミレーユのふたりに合図すると、彼女らはうなずき、そのまま部屋を出て行った。
竜夜は彼女たちの影がふすまの向こうに消えていくのを視線で追いながら、
「……それで? ただ自慢するためだけに兄貴の形見を俺に見せたとは思えないが」
「警告だよ」
クロウは盲目の瞳を再びまっすぐ竜夜に向けた。
「お前が思っている以上にこちらの戦力は整いつつある。妙なことは考えるなということだ」
「なるほど。信用されていないわけだ」
「信用されたいとも思っていないだろう?」
と、クロウは鼻で笑った。
「私は小心者でな。お前のようなやつを野放しにしておきながら、片手うちわで寝転がっている気にはとてもなれない性分なのだ」
「ふっ、なるほど。さすがあの戦場を生き残っただけのことはある」
そう言うと、竜夜は凍ってしまった湯飲みを手に取った。
中に入っていた液体はほんの少しだけ溶け始めている。
「しかし……整いつつある、か」
そのわずかな液体を口に含み、竜夜はのどを鳴らした。
「つまり、残るふたりもいずれは"復活"するってわけだ」
「わかっているなら話は早い。我々とお前たちは決して対等な関係ではないぞ」
「……」
竜夜は無言のまま、メリエルとミレーユが出て行ったふすまの奥へ視線を移動させる。
そして一呼吸。
ゆっくりと口もとに笑みを浮かべると、
「わかってる。あんたたちを裏切ろうなんて気は最初からないさ」
「……いいだろう」
クロウがかすかに眉を動かして。
竜夜はゆっくりと立ち上がる。
「あんたたちの戦力が整うのはこちらとしても大歓迎だ。弱体化したとはいえ、御門にはまだまだ手強い連中が残っているからな」
軽く手を振り、竜夜はそのまま部屋を出ていったのだった。
――いけない。
湧き上がる衝動。
「……謝る相手は、私じゃないわ」
指先が閃光を放つ。
いつものように。
彼女はいつものように悪人たちをさばく。
この力で。
「うっ、うわぁぁぁぁぁッ!!」
強烈な雷撃が、地面にへたり込んだ男の眼前に炸裂した。
――いけない。
そうやって何度自制心を働かせようとしただろうか。
ほとばしる雷撃に、男はすでに白目をむいて気絶していた。
彼女はそれに気づき、ようやく力を止める。
一瞬殺してしまったかと思ったが、どうやら恐怖に意識を失ってしまっただけのようだ。
――おかしい。
彼女は恐る恐る手の平を自分へ向ける。
――止まらない。
以前ならちょっと脅して、それで終わりだった。
なにしろ相手は大した罪を犯したわけでもない、ただの小悪党どもだ。大抵はちょっと力を見せるだけで屈服し、それで二度と過ちを犯そうとはしなくなる。
それがわかっていながら。
――止まらないのだ。
あふれ出す力。
自制心のタガが緩んでいる。
いったいどうなっているのだろうか。
――手が震える。
恐怖に、ではない。
体中を駆け巡る歓喜に。
「どうなってるのよ、これ……」
体の奥が震える。
衝動が沸き起こる。
――もっと。
もっと。もっと。もっと。もっと。
もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。
力を使いたい。
誰かを支配したい。
恐怖させ、屈服させ、そして、
滅茶苦茶に壊してしまいたい――
「っ!」
体が大きく震えた。
それはまだ"そこ"にかろうじて残っていた"彼女自身"の恐怖。
震える右手が、気を失った男に照準を合わせる。
「……違うッ!」
叫び、右手を左手で押さえた。
「違う、違うッ!」
ぐ、と、力を込める。
「こんなのは、違う――ッ!」
――どうにかその場を離れた頃、ようやく衝動は収まっていた。
大きく息を吸って、吐く。
体中を覆い尽くしていた電流は消え失せ、同時に体が人間のそれへと戻っていく。
路地から外に出て、もう一度大きく深呼吸した。
……違う。
そして彼女は強く、自分に言い聞かせるのだった。
負けてたまるものか、と――