1年目5月「カオル」
「昨日小さい頃の夢見たんだけどな」
5月に入り、ゴールデンウィークが明けたとある朝の登校時。
「夢? どんなの?」
俺が真ん中。左隣に直斗で、右の半歩下がったところに由香。
俺たちは自然とこの並びになることが多い。いわばこれが3人の定位置だった。
「いや、別にどってことない昔の夢なんだけどな。ちょっと気になることがあってよ」
俺は今朝見たうろ覚えの夢を思い出しながら言った。
「俺らが会ったのって小1のときだったよな?」
「うん。同じクラスになって、私、最初はなんかおっかなそうな子だなと思って……」
「いやいや、そういうのはいいっての。で、俺と雪、お前と直斗の4人でつるむようになって……まあ、そこまではいいんだ」
そこでいったん言葉を切り、俺は由香と直斗の顔を交互に見た。
「もうひとりいなかったか?」
「なにが?」
直斗が不思議そうに聞き返してくる。
「いや、だから。俺たち4人の他にもうひとりいなかったっけ? 一緒に遊んでたヤツ」
由香が難しそうな顔をして、
「どこの子? なんていう名前?」
「……」
俺は無言で右手を由香の背中に伸ばし、ポニーテイルの先を軽く引っ張ってやった。
「痛っ! 痛いよ、優希くん!」
ビクッとして髪を押さえる由香。
俺はパッと手を離して、
「バカだろ、お前。そこまでわかってりゃ苦労しないっての」
「うぅ……ごめんなさい」
由香はやや納得できない様子で涙目だった。
少し加減を誤ったかもしれない。
直斗が言う。
「その正体不明の子の夢を見たって話? ……それって本当にただの夢じゃない? それか僕らと別のグループの子だったとか」
「いや、そんなはずはないんだが……」
そう言いながらも、記憶力のいい直斗が言うならそうなのかもしれない、と、少し自信を失いかける俺。
と、そこへ意外にも由香がパッと顔を上げて言った。
「あっ、そういえばいたような気がする! あの、ちょっと怖い感じの男の子……でしょ?」
「お前、どうせ男子は全員怖いとか思ってたクチだろ……でもたぶんそれだ」
おかげで記憶の輪郭がかなり鮮明になった。
よく遊んでいたのは小学校低学年の頃で。
由香の言うとおり、どちらかというと協調性がなく乱暴者だった印象がある。
俺とは仲が良くなかった――いや、一緒に遊んでいた以上、悪くはなかったのだろう。
ただ、いつもつまらない意見の食い違いで対立していたような気がする。
「んー? 怖い感じの?」
直斗は相変わらず首を傾げていた。
こういうときはだいたいこいつが最初に思い出すのだが、今回はまったくダメのようだ。
「えっと、なんて名前だったかなあ?」
由香は考え込んでいる。
俺も必死に記憶の深い部分をサルベージしながら、
「確か、か、き、く、け、このどれかで始まる名前だと思ったんだが……」
「あ、そうそう! か、だったと思う! か、か……カオルくん?」
「んー……うむ。なんかそんな名前だった、確か」
あまりピンとはこなかったが、近いような気はした。
「いつの間にか遊ばなくなったっけ。どこ行ったんだろうな、カオルのヤツ」
そんなこんなで、この日の朝は謎の人物"カオル"の話題で微妙に盛り上がったのだった。
「んぅー……っと」
自席で大きく伸びをする。
俺の心は窓の外に広がる五月晴れのようにすがすがしいものだった。
「いやーっ、やっぱ午前授業はいいなあ!」
休日でもないのにお昼の番組がリアルタイムで見れてしまうのだ。
なんという開放感。
「見ろ、直斗! なんと11時前に学校が終わってしまった! 素晴らしいことだとは思わんか!」
カバンを片手にやってきた直斗と喜びを共有しようとすると、
「確かにね。でも、肝心のテストはどうだった?」
「ぐ……せっかくの清々しい気分に水を差しやがって。この鬼畜が」
台無しである。
そう。今はいわゆる定期テスト週間で、今日はその初日なのだ。
世の中おいしい話には必ず裏がある。
「あ~~~! あと4日もあんのか~~~!」
俺はさっきまでと正反対の陰鬱な気分になって机に突っ伏した。
晴天の太陽ですら憎たらしく思えてくる。
直斗は苦笑しながら空になった前の席に腰を下ろして、
「で、調子はどうなのさ?」
「わかりきったこと聞くなっての。ま、今日のところはまだマシだったけどよ」
初日の歴史と現代文はどちらかといえば得意なほうだし、内容もまだまだ簡単だった。
しかし明日以降は数学に英語と俺の苦手な教科が目白押しである。
「じゃあ明日から頑張ればいいよ。今日だってこれからたくさん時間あるじゃない」
「家でなんて勉強はかどる気しねーわ」
「あ、そっか。去年までと違って雪に教えてもらうわけにいかないのか」
教科書が違うしね、と直斗が付け加える。
俺は憮然と顔をあげて、
「なんだよ。それじゃ俺がいつも雪の世話になってたみたいじゃないか」
「あ、そっか、ごめん。勉強自体してなかったから世話にはなってないよね。せいぜい受験前ぐらいか」
「……笑顔でひでぇこと言いやがる」
嫌味たっぷりに言ってやっても直斗はあまり気にしていない。
そういうヤツなのだ。
「あー、もうどうでもいいや。俺らも帰るか」
気付くと教室にはほとんど人がいなくなっていた。
テスト期間中ってのはなぜかみんな早くいなくなる気がする。
「みんな帰って勉強するんじゃない?」
「いや、諦めて遊びに行くってやつもいるはずだ。絶対」
「そんなに道連れが欲しいんだ」
「……神薙さん」
と、俺たちがやり合っているところへ直斗を呼ぶ女子の声。
振り返って見ると、教室の入り口に見覚えのある女生徒が立っていた。
(ああ……かみむら……さやだっけ。いや、さよ、だったかな)
先日喫茶店で遭遇した神村さんだ。
下の名前は将太の例のメモ帳に載っていた"沙夜"という漢字だけ覚えていて、どう読むのかは知らなかった。
(……にしても、姿勢のいい子だな)
静々と教室内に入ってきた神村さんは、まるで背中に定規でも入れているかのようにピンとしていた。
三つ編みのお下げといいどことなく古風な印象で、和装なんかが似合いそうだ。
(ってか、神社の娘なんだっけ。似合って当たり前か……)
そうこうしているうちに神村さんはすぐ近くまでやってきて、
「神薙さん。今、少しお時間ありますか?」
「え? あ、うん。大丈夫だけど」
「では、少しお話ししておきたいことがあるのですが……」
そう言って神村さんはこちらを一瞥した。
どうやら俺は邪魔者らしい。
(へいへい。よくわかんねーけど邪魔はしませんよ……っと)
俺が静かに立ち上がると、直斗はその空気に気づいてなかったのか、
「あれ? 優希、帰るの?」
「帰る以外にやることねーだろ。それともなにか、俺とデートでもしたいのか?」
「デートはしないけど」
直斗は平然と否定(赤面しながら否定されてもそれはそれで困るが)すると、
「今日は君んちで勉強でもしようかと思ってたから」
「はあ? なんで?」
直斗は割と真面目な顔をして、
「来年、先輩呼ばわりされたくないからさ」
「……それじゃあまるで、俺の留年がすでに決定しているみたいじゃないか」
誤解のないように言っておくが、俺は中学はしっかりと3年で卒業している。
とはいえ、まあ、悪くない提案だ。
「せっかくだし神村さんも一緒にどう?」
「なんですか?」
「ほら。中間テストの勉強、一緒に。話ならそのときに聞くし」
すると神村さんはチラッと俺のほうを見て、
「それは不知火さんも含めて、ということですか?」
「もちろん」
「では遠慮します」
「……露骨すぎんだろ」
あまりにもはっきりとした言い方に、俺は苦笑するしかなかった。
どうやら俺は彼女にあまり好かれていないようだ。
(……それともお邪魔虫だと思われてんのかね)
あまりそういう関係にも見えないのだが、可能性としてはなくもない。
いずれにしろ、これ以上ここにいる理由はないだろう。
「じゃ、俺はさっさと帰るわ。邪魔者みたいだしさ」
「あ、あとから家に行くから。ちゃんと勉強して待ってなよ?」
と、直斗。
どうやら俺と勉強するのには変わりないらしい。
「おー、まあ検討しとくわ」
特に断る理由もなかったので、俺は背中を向けたまま手をあげてそう答えると、そのまま教室を出ていったのだった。
「……ふっ」
自室のテーブルの上には数学と物理の教科書に、1ページ目が開かれた白紙のノート。
このまっさらなノートはテスト勉強用に新しく用意したもの……などではもちろんない。
普段から授業に持ち込んでいるものだ。
それが白紙であるということは、つまり"あきらめろ"ということだろう。
「だいたい数学と物理が同じ日とかありえねぇし……」
生徒たちをいたぶるのが目的としか思えない日程だ。
こうなってから改めて考えるとやはり直斗と約束しておいて良かったと思う。
というより、あいつはここまで見越していたのか。
ちなみに由香は学校が終わるなり、女友だち数人にさっさと連行されてしまっていた。
あいつの成績は直斗に比べるとそこそこであるが、なかなか綺麗にノートを取っていたりするのでテスト勉強のときは意外に役に立つのである。
ちなみに中学時代の成績は、直斗と雪がトップ付近で争っていて、その後に由香、俺(順不動)だ。
なお、将太はそんな俺のさらに下だった。
(そういや、桜花女子も今日から中間テストだったかな)
瑞希の成績は直接聞いたことはないが、雪がたまに話す内容を聞く限りだと悪くはないようだ。
つまり同じ親族でありながら、俺だけデキが悪いということになる。
(……どうもウチの親族は男が不遇の扱いを受けているような気がするなあ)
外見にしてもそうだ。
俺は自分自身でそれほど劣っているとは思っていないが、雪や瑞希を見ているとやはり不平等である。
「つまりだ。俺が何を言いたいかというと」
「うん」
「俺の成績が悪いのは俺のせいではなくて、この体に流れる血が悪いのだと」
「そうなの?」
「……って、いつの間に部屋に入ってきてるんだ、お前」
いつの間にか妹の雪が目の前にいた。
「いつの間にもなにも、ちゃんとノックしたし」
雪は背負っていたカバンを丸テーブルの横に置くと、
「声かけて入ったけど、なんか不知火がぶつぶつ言ってたから」
「なんだ、雪。いつの間にか藍原みたいなしゃべり方になってるな、お前」
「……不知火、なに言ってんの?」
と、雪は後ろにいた人物を振り返る。
その人物は答えた。
「気にしなくていいと思うよ。いつものことだから」
「おう、誰かと思えば木村じゃないか。久しぶりだな」
「木村くんなら小5のときに転校したね」
「じゃあ、マザコン太一か」
「あの子はマザコンじゃなくてシスコンだよ。お姉さん13歳も年上だったんだよね」
「げ、あれってねーちゃんだったの? ……いや、冗談はさておき――」
俺は直斗から視線を横にずらすと、テーブルの横をすでに占領していた藍原に向かって、
「おい藍原。お前を呼んだ覚えはねーぞ」
「あ、お構いなく。テキトーにくつろいでるんで」
藍原はテーブルの下に足を伸ばして、すでにくつろぐ姿勢になっていた。
どうやら話は通じないようだ。
無言で直斗を見る。
「来る途中で会ってさ。勉強の話をしたら、藍原さんも手伝ってくれるって」
「恩恵にあずかりたいだけだろ……」
横目で藍原を見る。
どう見ても勉強ができそうには見えない。
「へえ~。不知火の部屋って思ったより綺麗なんだね~。ほぅほぅ、これは……?」
キョロキョロと部屋を見回していた藍原は、そのうち辺りの物に勝手に手を伸ばし始めた。
「おいこら! 触るな!」
「なに? 見られたらやばいものとかあるの? エロ本とか」
「エロ本ってお前……」
「ベッドの下とか怪しいな。こういうとこに隠すんでしょ、男って」
俺の言葉も無視して藍原は上半身をベッドの下に突っ込んでガサゴソやり始める。
「ふ~む。ベッドの下にはなさそう」
「あのな……言っとくが探しても無駄だぞ」
これで本当にそんなものを隠しているなら多少は慌てるところだが、一応その心配はない。
というか、本当に出てきたらどうするつもりだろうか、こいつは。
「じゃあどこ? 机の裏? クローゼットの奥? それとも国語辞典と見せかけてってやつ?」
「妙に詳しいなお前。けどいくら探しても無駄だぞ」
「ホントにないの?」
藍原が目を大きく開いて驚いた顔をする。
「健全な男子はみんな持ってるって聞いたけど。不知火は健全な男子じゃないのか」
どうもこいつはどこかひっかかる言い方しかしない。
俺は小さくため息をついて、
「健全がどーとか以前に、俺の部屋はそういうものを置いとけねーの」
「雪に見つかったら大変だものね」
笑いながらそう言ったのは直斗の奴だ。
何だか気に入らないがそのとおりで、この部屋には週に2~3回、雪の捜査の手が入る。
そんなものを置いていたらすぐに見つかってしまうのだ。
「え、ここって雪ちゃんが掃除してるんだ? ってことは代わりに不知火が雪ちゃんの部屋を隅々までアレコレしてるの? やらしーなあ」
「ねぇよ! どういう発想だよ!」
こいつの頭の中はいったいどうなっているんだろうか。
と、そこへ、タイミングがいいのか悪いのか、
「ユウちゃん? 誰か来てるの?」
ノックの音とともに雪の声がドアの向こうから聞こえてきた。
いつの間にか帰っていたらしい。
「あー、気にすんな。直斗と、変なのが1匹来てるだけだ」
「変なの!? それってあんまりじゃない!?」
「ナオちゃんと……もしかして美弥ちゃん?」
先日知り合ったばかりだというのに、ドア越しの声だけで判別できたらしい。
「まあ、そうだ。だから気にするな。ちょっとうるさいかもしれんが」
「じゃあなにか飲み物持ってくるね」
「ああ、そんなの必要――」
ない、と言う前に、雪が階段を下りていく音が聞こえてきた。
おせっかいなところは由香といい勝負だ。
「あっ、雪ちゃん! おやつもお願いねー!」
「どんだけずうずうしいんだよ……」
ため息をつきながら、テーブルに適当に広げていた教科書とノートを寄せてとりあえず3人分のスペースを作る。
「あれ、なにしてんの、不知火」
「なにって、準備に決まってるだろ」
きょとんとして藍原は言った。
「なんの?」
「……」
「……」
「……冗談だってばさ。勉強するんだよね」
俺と直斗の無言の視線を浴びて、藍原はようやくカバンから教科書を取り出す。
「じゃあ数学から始めようか」
直斗もそう言いながらテーブルの横に腰を下ろし、まずは自分のノートを中央に広げた。
このノートが大事なのである。
中間テスト、期末テストというのは教科担当の教師が作るもので、教科書の利用率はその教師ごとに大幅に異なる。
つまり教科書の信頼率というのは中間、期末テストにおいてはかなりマチマチなのだ。
一方、ノートってのはその教師が黒板に書いた内容を忠実あるいは発展的に写したものであり、中間・期末テストはこの内容をもとに作られると言っても過言ではない。
だからテスト勉強のときにこれがあるとないとでは、効率にかなりの差が出るのだ。
……ということがわかっていながら、俺は全然ノートを取ってなかったりするのだが。
「ねえ、ユウちゃん。ドア開けてくれる?」
準備も整い、さあ始めようかというところで再び雪の声がした。
「おー、ちょっと待ってな」
よいしょ、と立ち上がってドアを開ける。
「はい、これ。みんなの分」
部屋の前にいた雪はまだ学校の制服にエプロンをつけた格好で、両手には3人分の紅茶と自作のお菓子らしきものを載せたトレイを抱えていた。
「これは?」
「アップルパイ。今朝時間が余ってたから私と瑞希ちゃんで焼いたの」
「今朝って学校行く前にか?」
平日の早朝にアップルパイを焼く女子高生とか、きっと全国探してもほとんどいないのではなかろうか。
「私もまだ食べてないんだけど、多分うまくいったと思うよ」
「つまり、俺たちに毒味しろと?」
「うん。お願いね」
と、雪は屈託ない笑顔を浮かべる。
こういう顔をされると、俺としては苦笑して受け取るしかない。
それにこう言ってはいても、こいつの菓子作りは直斗や由香の母親から『下手なお店よりよっぽどおいしい』との評価を受けるほどの腕前だ。
まず間違いはない。
「え~、なになに、それって雪ちゃんの手作りなの?」
「おぉぅ!?」
びびった。
いつの間にか藍原が後ろにぴったりくっついていたのだ。
「じゃあちょっと休憩してお茶にしよ~よ。ほら、雪ちゃんも一緒にさ」
「休憩ってお前、まだなにも……」
「ほらほら。紅茶も冷めちゃったらおいしくないじゃん?」
こいつはホント、なにしに来たんだろうか。
「まあ、いいんじゃない?」
直斗も仕方なさそうに藍原の意見に同調したので、なにもやらないうちから休憩時間となった。
さらに――
「あっ、マンガがある! ねえねえ、勉強はあたしがマンガ読み終わってからに――」
「お前、もう帰れよ!」
この日、ほとんど勉強がはかどらなかったことは言うまでもない。