2年目8月「なけなしの勇気」
-----
(怖くなんかない……)
体が無意識に震えたことを自覚した亜矢は、自らに言い聞かせるように強く心の中でそうつぶやいた。
自分以外にもそういう力を持つ人間がいることは雪から聞いていたため、そういった意味でのショックはない。
ただ――
「このガキ、こっちの世界で育ったみてーだな。俺らみたいのと戦ったことなさそーじゃん」
金髪の男がうすら笑いでそう言った。
だが、そんな男の言葉は亜矢の耳には入っていない。
(しっかりなさい、亜矢。こんなことで……)
亜矢は必死に自己暗示を続けていた。
心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。
背中には冷や汗。
足はまるで棒のようにすくんでいた。
……もう疑いようはない。
その感情は、恐怖だ。
(怖くなんか、ない……)
よくも悪くも亜矢は普通だったのだ。
おそらくは他人よりも正義感が強く、偶然か必然かはわからないが力を手にし、その力を使うことで自らの正義を誇示してきた。
そんな亜矢の相手はいつも、彼女より弱い立場の人間たちだった。
だが、目の前にいるのは違う。
目の前の3人の悪魔たちは彼女より強いかもしれず、そしてもしかすると他人の命をなんとも思っていないような連中かもしれない。
負けるかもしれない。
負けたら殺されるかもしれない。殺されないとしてもひどい目に合わされるかもしれない。
普通である亜矢には、その事実を目の前にして平然としていられる覚悟がまだ備わっていなかった。
つまり圧倒的に経験不足だったのである。
……しかし。
(……冗談じゃない。冗談じゃないわ)
それでも彼女は何度も何度も自分に暗示をかけ、心を奮い立たせるのだ。
恐怖はある。確かにある。
だが、徐々に彼女の中でその恐怖を超える感情が湧き上がっていた。
(だからどうしたの? 相手が手強いから引き下がれっていうの……?)
その程度ではない。
そんなハンパな気持ちでやってきたわけではないのだ、と。
もしここで引き下がったら、今までやってきたことがただの弱いものいじめに成り下がってしまう。
それだけは絶対に認められなかった。
そして覚悟を決める。
死んでも、貫くのだ、と。
「……もう一度言うわよ」
そして亜矢はこぶしに力を込めて言った。
自分と相手の実力差を読む手段さえ持たないままに。
「懲りていないなら、お前たちも昨日の連中と同じように痛い目に合ってもらうわ」
バチッ! と、駐車場全体が白い稲光に照らされた。
そして、亜矢の全身が幾筋もの電流をまとう。
「まとめて叩きのめしてあげる。かかってきなさい」
「……」
そんな亜矢の態度に、男たちは一瞬意外そうな顔をする。
……が、やがて。
その表情は残忍な笑みへと変わっていった。
峠の駐車場。
そこでの亜矢たちのやり取りを遠くから見つめる影があった。
(亜矢、どうして……)
彼女の行動を不審に思い、まさかと思いつつもその行方を追って駐車場にたどり着いた唯依である。
唯依が隠れていたのは、偶然にも亜矢が先ほどまで隠れていた茂みの中。
視線の先では、ちょうど亜矢らしき人物の雷撃が金髪の男を吹き飛ばしたところだった。
亜矢らしき人物――
唯依がそのことにすぐに確信を持てなかったのは、遠目でなおかつ後ろ姿しか見えなかったということと、彼女が異形の姿をしていたせいである。
しかし髪型や服装、かすかに聞こえる声などから、おそらく亜矢で間違いないだろうとも思っていた。
(……どうしてこんなことに)
亜矢が自分と同じ異能力の持ち主であるということにももちろん驚いていた。
が、それ以上に、彼女が見も知らぬ――状況から察するにうわさの暴走族のメンバーだろうが、やはり同じような異能力を操る連中と争っていたということに唯依は混乱していたのである。
(! あぶない……!)
唯依が状況把握に時間を取られているうちに、風を身にまとったスキンヘッドの男がものすごい速さで亜矢に襲い掛かっていった。
「っ……!」
亜矢は普段の彼女からは想像もできないほどの身軽さで、スキンヘッドの男と距離を取ろうとする。
が、下がったところにも仲間らしき女がいて、亜矢はとっさに足を止めた。
風をまとった男と亜矢の距離が狭まり、そのこぶしが迫る。
「――ッ!」
思わず叫びそうになって、唯依は口を押さえた。
駐車場に響く、苦悶の声。
男のこぶしが亜矢の左脇腹に命中し、彼女はまるで車にはね飛ばされたかのように吹っ飛んだ。
(……亜矢が)
見開いた唯依の視界の中、亜矢の体がアスファルトの地面に叩きつけられる。
(殺される――)
足が震えた。
(助けなきゃ……ッ!)
唯依の頭に真っ先に浮かんだのはそのことだった。
当然だ。
たとえ長く離れて暮らしていようとも、亜矢は唯依の姉。
そんな彼女が目の前であんな目に遭わされていて、見過ごすことなどできるはずはない。
亜矢はすぐに立ち上がっていた。
ただ無傷というわけではなく、こめかみの辺りから首筋にかけては赤いものも見える。
どう見ても多勢に無勢。
放っておけば、彼女は本当に殺されてしまうだろう。
(助けなきゃ……早く助けないと)
すぐに飛び出していかなければならない。
彼女を助けなければならない。
そんなわかりきったことを、何度も何度も心の中でつぶやいて。
そして……唯依は気がついた。
(……足が)
動かないのだ。
まるで地面にしばり付けられているかのように。
はやる気持ちとは裏腹に、唯依の足はそこから1歩たりとも先に進んではくれなかった。
もちろん誰かに押さえつけられているわけではない。
……理由は明らかだった。
(出て行けば、きっと俺も殺される……)
認めたくなかった。
認めたくはなかったが、唯依の足をそこにしばり付けていたのは、紛れもなくそれ。
恐怖だった。
確かに唯依も、彼らと同じ異能力者である。
ただ、こうして戦いを見ていると、どうやら彼らはいずれも唯依より上位の能力者たちだ。
助けに行ったところで、戦況をひっくり返せる可能性は限りなく低い。
(……バカ! 亜矢のバカッ! どうしてこんな無茶なこと!)
どうしようもなく腹立たしくなり、唯依は心の中で彼女の行動をののしった。
ただ、もちろんそれで状況が好転するわけもない。
「!」
唯依はハッとした。
最初に亜矢に吹き飛ばされた金髪の男も戦いに復帰し、3人が彼女を包囲していたのだ。
(……助けなきゃ)
それを見て、唯依は改めて心を奮い立たせる。
(敵わないとしても、時間を稼いで逃がすぐらいはできるかもしれない。……いくら危なくたって、家族なんだから!)
膝に両手を当てて体を前に。
しかし――
(……あ)
体はそれでも言うことを聞かず。
それどころか、唯依の足は逆に後ろに下がろうとしていた。
そして、気づく。
(俺は――)
おそらく――そうおそらくは。
自分はこのまま、最後まで彼女を助けにいくことはないだろう、と。
きっと彼女を見捨ててしまうだろう、と。
それは絶望だった。
臆病な自分。
家族を助けに行けない自分。
そんな自分の情けない姿を無理やり見せつけられてしまって。
足が下がる。
1歩。2歩。
あんなに動かなかったはずの足が、むしろ急かすように後ろへと。
(……俺は、なんて――)
絶望する。
涙があふれてくる。
泣きながら、唯依は後ろに下がっていった。
そして――
……バキッ。
「!?」
唯依のかかとがベニヤ板の破片のようなものを踏み砕き、予想外の大きな音を立てた。
心臓が跳ね上がる。
唯依はとっさに駐車場の状況をうかがった。
幸い、亜矢を取り囲む男たちにその音は聞こえていなかったらしい。
ただ――
「!」
視線が絡み合う。
亜矢が横目で、わずかに驚きの表情を浮かべながら唯依を見ていたのだ。
(……ああ、そんな……)
彼女に見つかってしまった。
逃げようとしている自分を、見られてしまった。
瞬時にそんなことを考えてしまった自分に、唯依はさらに強い嫌悪感を抱き。
それでもなお、足は後ろに下がっていった。
この距離なら逃げられる。
逃げて助けを呼ぶのだ。敵わない自分が出て行くより、そのほうが亜矢にとってもいいはずだと、そんな言い訳を必死に心の中で念じながら。
……しかし。
(え……)
その直後、唯依は亜矢の思わぬ行動を目の当たりにして、驚きに足を止めた。
(……亜矢、どうして)
確かに見詰め合っていたはずの視線。
亜矢の目には、自分を見捨てて逃げようとする唯依の姿が間違いなく見えていたはずなのに。
彼女は助けてくれと叫ぶこともなく。
それを目で訴えかけてくることもなく。
なにごともなかったかのように、そっと唯依から視線を外したのだ。
(……どうして)
唇が震えた。
(俺は――)
そして、そんな亜矢の体が、自分と同じように恐怖に震えていると気づいた瞬間。
迷いは、吹き飛んだ。
「……亜矢ッ!」
足が前に進む。
髪の色が、炎魔の証である燃えるような真紅に変化した。
「唯依!?」
茂みから飛び出した唯依に、駐車場にいた4人が一斉に視線を向けた。
特に亜矢は、変貌した唯依の姿を見ていっそう驚いたようだった。
「……仲間がいやがったのか」
そんな唯依を見てスキンヘッドの男は警戒の表情を見せたが、やがて唯依が身にまとう魔力がそれほど大きいものではないと気づいたのか、近くにいた金髪の男に目配せした。
うなずいた金髪男が唯依のほうに歩み出る。
会話は不要だった。
飛び出した勢いのまま、唯依はその手を男に向ける。
手首から先が炎に包まれ、それがこぶし大の塊となって飛び出していった。
「……」
金髪男はそれを避けようとはせず、唯依と同じように右腕を伸ばす。その腕から染み出すように水が生まれ、やがてそれは薄い盾のような形となって唯依の放った炎と激突した。
「うっ……」
炎は無抵抗のまま消失していた。
唯依は足を止め、今度は両手を向ける。
「……当たれぇぇぇぇッ!!」
体がカッと熱くなった。
唯依の両手から火の玉が次々と飛び出していく。
「ふっ……」
金髪男は小バカにしたように鼻を鳴らし、同じように両手を前に出して、体全体を覆うほど大きな水の盾を展開した。
結果は同じだった。
唯依にもわかっていたことだが、やはり力の差がある。
そして、金髪男も今のやり取りでそのことに気づいたのだろう。
「おーい。こいつ、どうすんだ?」
と、明らかに余裕の態度でスキンヘッドの男に声をかけた。
「唯依! 逃げなさい!」
それに応えたのは男ではなく、亜矢だった。
「無駄なことはやめて! 早く!」
そんな亜矢の言葉に、唯依の頭がカッと熱くなる。
「嫌だ! 君を置いて逃げたりできない!」
「なっ……バカ! 言うことを聞きなさい!」
「嫌だ! 逃げない!」
駐車場に風が渦を巻く。
ひときわ大きな魔力はスキンヘッドの男のものだった。
「……どっちも生かしておく必要はねぇ。やっちまえ」
その言葉とともに、男が亜矢への攻撃を再開する。
同時に金髪男も唯依に向かってアスファルトを蹴った。
「唯依ッ!」
亜矢はふらついた体で戦闘態勢を取りながら叫ぶ。
しかし、唯依には返事をする余裕もなかった。
(くそっ……せめて一撃……)
接近する金髪男に向けてとっさに放った炎は、やはり水の盾に弾かれてしまった。
逆に、相手の振り上げた足が唯依の脇腹をとらえた。
「く……かっ!」
息が詰まる。
人よりもはるかに強化されているはずの体がきしみ、激痛に唯依は嘔吐しながらアスファルトに膝をついた。
全身の力が抜けて脂汗が浮かぶ。
呼吸が大きく乱れる。
(……ダメ、か)
稲光が見えた。
亜矢はまだ交戦している。唯依よりは善戦しているようだったが、2対1の状況は明らかに劣勢で、決着がつくのもそう遠い未来のことではないだろう。
「もう終わりか」
唯依を見下ろした金髪男がフンと鼻を鳴らす。
「せっかくカッコよく助けにきたってのに無駄になったな。犬死にご苦労さん」
水が鋭利な刃物の形を取った。
(……無駄?)
もうろうとした意識の中、金髪男の言葉に唯依は思う。
……本当にそうだったのか。
あの状況で亜矢を見捨てて逃げることが最良の選択だったのだろうか、と。
そうは思いたくなかった。
しかし結果は――
(……やっぱり無駄だったのかな……)
それでも唯依は不思議に穏やかな気分だった。
これでよかった。
あそこで逃げだしてしまうよりは、きっとこれが最良だったのだ、と。
観念し、その場にうなだれる。
亜矢の戦いの結果は気になったが、いまさらどうしようもなかった。
……と。
そのときだ。
「……?」
すぐ目の前にあった金髪男の足が急にピタリと止まった。
「……なんだ?」
怪訝そうな声。
つられるようにして顔を上げた唯依は、そこにあった光景に目を見開いた。
「な……なに……これ……!?」
辺り一面が、真っ赤に染まっていた。
炎だ。
それも唯依が使っていたようなちっぽけな炎ではなく。
駐車場全体を覆い包むほどの業火。
「なにこれ。どうなってるの……!?」
亜矢の戸惑う声も聞こえた。
どうやら彼女たちもその状況に気づき、戦いを中断しているようだ。
そして、
「残念ながら無駄にはならなかったな」
背後から聞こえた少年の声。
唯依には聞き覚えがあった。
「そうだろ? 唯依」
「!」
辺りを覆っていた炎が四方八方からドーム状になって上空に集まっていく。
それはやがて巨大な球体を成した。
「な、なんだよ、こいつぁ……!」
金髪男がうろたえたように後ずさっていく。
「"巨人の炎"」
「!」
唯依の背後から、真紅の髪をした少年が姿を現す。
濃縮された頭上の炎は、まるで教科書に載っていた太陽の写真のようにドロドロと渦巻いていた。
「俺の機嫌がいいときしか見られない特別なやつだ。思う存分目に焼き付けとけ」
「……くっ!」
とても防ぎきれないと思ったのだろう。
金髪男が逃げるように後ろに下がっていく。
と同時に、頭上の炎塊からひと筋の紅炎が飛び出して男に向かっていった。
「こ、の……ッ!!」
金髪男は足を止め、腕を体の前で交差させる。
そこに、先ほど唯依が見たものよりもはるかに分厚い水の壁が展開した。
炎と激突し、水の蒸発するすさまじい音が辺りに響き渡る。
飛んできた熱波に、唯依は顔をそむけた。
やがて、
「……こ、のぉぉぉぉぉ――ッ!!」
全力の叫びとともに、金髪男を襲った炎が相殺され、四散する。
「……へっ、なんだ。見掛け倒しじゃねえか」
額に汗を浮かべながら勝ち誇った笑みを浮かべる男。
しかし直後。
「……っ!?」
安堵したその一瞬の間に、男の周囲は別世界となっていた。
オレンジだったはずの一面が、いつの間にか白銀へと変わっている。
そして――
「なんだ、こりゃ……!?」
金髪男の笑みはとっくに消えていた。
その両足は地面に張り出した氷に捕らわれ、さらに足首、すねの辺りまで一気に凍結が進んでいたのだ。
「……お、おい! どうなってんだ、こりゃ! 助けてくれ!」
金髪男は背後のスキンヘッドたちに助けを呼びかけたが、他のふたりもまったく同じ状況になっていた。
いずれも問いかけに答える余裕はない。
そして唯依は、亜矢の背後に近づいていく銀髪の少女を見つけた。
(あれは……雪さん……?)
雪らしき人物は亜矢の肩に手をかけ、そっと彼女を後ろに下がらせると、
「ユウちゃん! こっちはもう大丈夫!」
「りょーかい!」
唯依の背後まで来ていた、彼と同じ真紅の髪の少年。
(……優希先輩……!)
「んじゃ、もう一発行くぜッ!」
動けなくなった男たちに、優希が片手を向ける。
頭上の炎が再び火勢を増した。
そこから3つの紅炎が飛び出し、熱波をまき散らしながら男たちに迫っていく。
氷に捕らわれて動けない男たちは、その場でそれぞれに防御壁を展開した。
が、しかし――
「っ……この炎、さっきと段違いじゃねぇかッ! こんなの……ッ!」
金髪男の悲痛な叫びに、優希がフンと鼻を鳴らした。
「手加減してたに決まってんだろ。亜矢を巻き込むわけにゃいかなかったからな」
炎が男たちの防御壁を貫通する。
「終わりだ。全員病院で反省会でもしてな!」
「うわぁぁぁぁぁ――ッ!!」
そして紅炎は男たちの悲鳴をその場に残し、全員を飲み込んでいったのだった。