2年目8月「花見旅館」
夏は夜(がいい)。
なんてことを昔の有名人だかなんだかが言っていたような気がするが、この表現は微妙に誤解を招く気がするので訂正しておくことにしよう。
夏は夜(のほうが少しだけマシ)。
俺はこの夜、そのことを嫌というほどに思い知らされることとなった。
「あっつぃ……」
昼間のうだるような暑さは確かにやわらいでいる気がするが、いくら夜でもやはり暑いものは暑いのだ。
空気はジメジメとしていてお世辞にも快適とは言いがたい。
気温はこの時間でもまだ30度近くあるだろう。いわゆる熱帯夜というやつだ。
そんな中を、俺と雪はかれこれ1時間ほども歩いていた。
しかも身ひとつではなく、ふたり分の旅行カバンを抱えているから疲れるし汗もかく。
当然、機嫌も悪くなる。
「……だぁぁぁぁッ! やってられっかぁッ!」
俺はとうとう我慢の限界に達して、足もとに転がっていた空き缶を思いっきり蹴り上げた。
「なんで民家もねぇところにバスが止まんだよ! あんなとこにバス停作ってんじゃねーよ!」
「仕方ないよ。間違ったの私たちなんだし」
さすがの雪も少し疲れている様子だったが、あまり表情には出さずにそう言った。
俺はむすっとして、
「ああ、そうさ。俺が間違ったんだ。俺がすべて悪いのさ」
「うん。ユウちゃんが悪いね」
「……フォローはねーの?」
肩を落とすと、雪はおかしそうにクスクスと笑って、
「冗談だよ。黙ってついて来たんだから私も一緒に悪いよ。ね?」
女神のごとき妹のフォローは、俺の器の小ささを浮き彫りにしただけだった。
……さて。
とりあえず俺たちが今どのような状況にあるのかというと――
乗っていたあの電車は結局、大きい事故だか事件だかで路線自体がストップしてしまい、俺たちはひとつ前の駅に戻ってそこで降りざるを得ない状況となってしまった。
どうしようか、いったん引き返して明日出なおそうか、というようなことを雪と相談し、最終的にバスによる移動を提案したのは俺である。
この辺りのバス路線はかなり複雑だということもあり、心配そうな顔をする雪に『大丈夫だ、俺に任せておけ』を繰り返し、乗り込んだバスはお約束どおり海から離れて山のほうへと向かっていった。
数十分経ってようやく乗るバスを間違えたと気づき、慌てて下りたバス停は周りに民家のない寂れた場所。1日3本しかないらしいバスは乗って来たのが最終便。
こうして俺たちは、元の場所に戻ることすらできなくなったのである。
最終的には通りかかった軽トラックのおっちゃんに道を聞き、下のほうに少し歩けば旅館があるよと教えてもらってこうして山を下っているというわけだ。
……まあ、なんだ。
どう見ても全面的に俺が悪い。
「あ、ほら」
時間はすでに夜の8時を回っていた。
「見て、ユウちゃん。明かりが見えるよ」
と、雪が笑顔で道の下を指差す。
そこには確かに、民家らしきいくつかの明かりが見えていた。
「……ふぅ。とりあえず落ち着いたか」
たどりついた先は小さな温泉街のようなところだった。
相変わらず山を下りるバスはないのでタクシーでの移動も一瞬考えたのだが、どうやら俺たちはかなり見当違いの方角に進んでしまっていたらしく、目的の海まではかなり距離があったため結局断念。
安い宿を探し、そこで1泊して明朝のバスで向かうことにしたのだった。
「ユウちゃん。向こうに電話してきたよ」
ふすまが開いて雪が部屋に戻ってくる。
「おー。……誰が出た?」
「ナオちゃんだった。電話の向こうで笑ってたよ」
「明日ぜってー嫌味言われんな、こりゃ」
ため息をついて仰向けに転がる。
呆れたように笑う直斗の顔がまぶたの裏に浮かんだが、自業自得なので仕方がない。
「……けどま。急に飛び込んだところにしちゃここもそんなに悪くねーよな」
と、俺は部屋の中を見回した。
旅館としてはこの辺りでも一番安い部類らしいが、建物が若干古いことを除けば部屋は広いし掃除もきちんと行き届いている。なかなか良質の宿だった。
「うん。温泉もオススメですって言ってたよ。入ってくるね」
雪がそう言って部屋の隅にまとめておいた荷物をゴソゴソとやりはじめる。
それを聞いて、俺は旅館の受付辺りに貼ってあった張り紙を思い出し、
「温泉って、露天しかなくてしかも混浴って書いてなかったか?」
「うん。まずい?」
「まずいって……俺は別に困らんが」
「じゃあ一緒に行く?」
「……」
「あ、ちょっと考えた」
「考えてねーって」
すぐにそう返すと、雪はクスクスと笑って、
「冗談。混浴なんて恥ずかしくてムリだよ。でもほら、そこ。部屋にも温泉が引いてあるんだって」
「ん? あー、なるほどな」
確かに、部屋の片隅には風呂らしきものがついている。
こういう設備があるってことは、家族向けがウリの宿なのかもしれない。
雪は風呂場のドアに手をかけてこちらを振り返ると、
「ユウちゃんどうする? こっちなら一緒に入れるよ?」
「……」
俺は寝転がったまま、そんな雪をチラッと見て、
「おー。そこまで言うなら一緒に入ってやろーか?」
「……えっ」
雪はきょとんとして目をぱちくりさせた。
そして少し困った顔で首をかたむけると、
「あ、そうだ。私、今ダイエット中だった。やっぱやめとこっかな」
「意味わからん。……いいから、とっとと入って来い」
「うん」
雪は妙に浮かれた様子で、着替えの入った小さなカバンを手に風呂場へ入っていった。
「……ったく」
あいつはよくあんなことを言って俺をからかったりするのだが、たまにこっちが冗談に乗ってやろうとすると、今みたいに困った顔をしてやんわり拒否るのである。
まあ、拒否されなかったらそれはそれでこっちも困るのだが、どうやらあいつはああいうときの俺の反応を見るのがただ楽しいようだ。
だから、こっちもたまには今みたいに反撃してやることにしている。
コチ、コチ、コチという古い秒針の音。
壁時計へ視線を移す。
時間は午後9時。
山を下りてきた疲れもようやく癒えてきた。
と、そこへ。
「失礼しまーす」
ふすまの向こうから声。
最近は部屋が和風でも入り口は洋風のドアだったりするところも多いのだが、この旅館は入り口までちゃんと和風のふすまだった。
「どうぞ」
上半身を起こしてそう返すと、ふすまが開いて従業員らしき女性が姿を現す。
「どうも、こんばんわー」
「お、おぅ……」
予想外になれなれしい口調に、思わずおかしな返事をしてしまった。
(……従業員、だよな?)
なんて、そんな疑問を持ってしまったのはその女性がずいぶんと若く見えたからである。
女性というよりは女の子。俺と変わらないか、あるいは年下か。
肩ぐらいまでのゆるやかなウェーブの髪で、背は150センチ台半ばといったところだろう。
首に巻いたチョーカーが、和式の仲居服とミスマッチだった。
そうして俺の視線は仲居の少女から、その足もとのお膳に移る。
「それは?」
おにぎりと味噌汁に、焼き魚、沢庵。
それを見た瞬間、胃の辺りがキュッと締まる感覚があった。
歩いたこともあり、電車の中で食べたサンドイッチはとっくに消化されてしまったようだ。
「夕食はもう終わってしまっているのですが、こんなものでもよろしければと思って」
「あー……ちょうど腹が減ってたから助かるよ。こんな遅い時間に飛び込んだのにわざわざすんません」
俺は素直に礼を言った。
本当にありがたい心遣いだった。
そして仲居はにこやかに言う。
「まあ、ただの残り物なのですけれどねー」
「……わざわざ言わなくていいんじゃないか、それ?」
俺が突っ込むと、それもそうですわね、と、その従業員は声をあげて笑った。
旅館の従業員にしてはずいぶんといい加減だ。
同い年ぐらいに見える外見といい、あるいは夏休みだけのバイトなのかもしれない。
「では、失礼いたしますわー」
と、従業員はふたつのお膳を中に運び込み、俺の前とその向かいに並べていく。
残り物と言ってはいるのもの、魚なんかはパリッとした皮がジュージューと音を立てていて、明らかに焼きたてだ。おそらくはこちらに気を遣わせないための方便なのだろう。
「……で?」
「はい?」
お膳を並べ終え、そこにちょこんと正座した従業員が不思議そうにこっちを見る。
俺は尋ねた。
「ありがとうございます。他にもなにか用が?」
「なにか用事あります?」
逆に聞かれてしまった。
「いや、もうないけど」
「じゃあ、用事あることにしてくださいませんか?」
「は?」
意味がわからずに意図を問いただすと、
「普段は年配の方の相手ばかりしているものですから。この宿ではお客様のような若い方は珍しいのですわ。ですから」
話し相手になっていただけませんか、と、仲居は満面の笑みを浮かべた。
「いや、別に構わんけどさ」
確かにこの辺りには若い人間が好むスポットもなさそうだ。
温泉地として有名なわけでもないし、彼女の言うとおり若い客は少ないのだろう。
「特別おもしろい話はできねーぞ? それに仕事の方はいいのか?」
「私、ここの経営者の親戚なんで。ちょっとやそっとのことではクビになったりしませんから心配ご無用ですわ、お客様」
「そんなんでいいのか……ってかさ」
話をしながら焼き魚の身をほぐしつつ、
「世間話すんなら、そのお客様って呼び方どうにかしようぜ? 俺ら、たぶん同い年ぐらいだろ?」
「では、不知火優希さん」
「……なんで知ってる?」
「もちろん宿帳を見たからですわ」
そりゃそうだ。
「では優希さんでよろしいですか? あ、私のことはどう呼んでいただいても構いません」
「じゃあ従業員その1で」
「呼びづらくありませんか?」
「つか、そっちの名前知らねーし」
「ああ、ああ、それもそうでした」
どうやらマジボケだったらしく、女の子は少し居住まいを正して名乗った。
「私は花見華恵と申します。お花見の花見に、華やかの華、恵みですわ」
「花見華恵さんね」
なんとも小気味良い響きの名前だ。
そういやこの旅館は確か"花見旅館"とかいう名前だ。
近くに花見スポットでもあるのかと思っていたのだが、経営者の名字だったらしい。
「同じ名字の従業員が多いので、どうか華恵ちゃんとお呼びくださいませ」
「わかった。花子さんと呼んでやろう」
「……それではトイレの妖怪になってしまいます」
華恵はおかしそうに声を上げて笑い、ところで、と言って、風呂場のほうを見た。
「奥様はどちらへ? 入浴中でしょうか?」
「……は? 奥様?」
一瞬呆気に取られたが、俺はすぐにその意味を理解する。
「夫婦とかじゃねーぞ、俺たち」
「え? ですが名字が……」
「兄妹だよ。つか、俺らどう見たって学生だろ。普通に考えりゃわかるじゃねーか」
「普通とおっしゃられましても……」
と、華恵は困った顔をした。
「その年ごろのご兄妹がおふたりで宿泊するのも、あまり普通とは思えません」
「……止むに止まれぬ事情があったんだよ」
言われてみれば彼女の言うとおりである。
……さて。
そんな話の後、自然な流れでそれぞれが通う学校の話になったのだが――
「……え、なに? お前、風見学園の新入生なの?」
「はい。もともと生まれも育ちもあちらです」
「すごい偶然だね」
と、風呂から上がってきたばかりの雪が少し上気した顔で言った。
「私も驚きましたわー。まさか学校の先輩がたまたま私がお手伝いしているときにご宿泊されるなんて」
距離的にはそこまで離れているわけじゃないとはいえ。
世間は思ったよりも狭いものである。
「1年ってことは、もしかして唯依のことも知ってるか?」
そう尋ねると、華恵は即座に答えた。
「香月唯依さんですか? 知ってるもなにも同じクラスですわ。優希さんは彼とお知り合いなのですか?」
「まぁ、ちょっとな」
といっても、絵のモデルが終わってからはほとんど会っていない。
(……あいつ、元気にやってんのかな)
どこか頼りない後輩の顔と一緒に、少々個性的な3人の姉のことも思い出す。
亜矢に、真柚、舞以の3姉妹だったか。
唯依はともかく、その3人(特にそのうちのふたり)はあまり積極的には関わりたくないタイプだった。
「そういえば」
華恵が空になった俺のお膳を片づけながら言った。
「おふたりは明日、海へ向かわれるのでしたね? でしたら気をつけたほうがいいですわ」
と、少し声を低くする。
「なんだ? クラゲでも出るのか?」
「いえいえ。そうではなく」
お膳を持っていったん立ち上がった華恵はそれを部屋の外へ運び出し、すぐに戻ってくると元の場所に再び腰を下ろした。
「あの辺り、暴走族のような連中が最近うろついているそうです。夜に肝試しをしていた観光客が襲われたなんて話もあるみたいですわ」
「暴走族?」
去年はそんな話は聞かなかった。
正面の雪を見ると、少しだけ心配そうな顔をしている。
「まあ、日中に砂浜で悪さをするわけではありませんので、夜に出歩いたりしなければ大丈夫なのですけれど、一応」
そう言って、華恵は手持ちぶさたに首に巻いたチョーカーからぶら下がったアクセサリーのようなものを弄んだ。
(……暴走族、ねぇ)
まあ、華恵の言うとおり変な時間に変なところをうろつかなければ大丈夫だろう。
将太のことだから肝試しぐらいは計画しているかもしれないが、だとしたらそれは中止させたほうがいいかもしれない。
「では、私はそろそろ」
雪が食事を終えたところを見計らって、華恵はそのお膳を下げながら丁寧にお辞儀した。
「明日の朝食は8時からになりますわ。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
夏休みが終わったら学校でお会いしましょう、と、付け加えて、華恵は部屋を出て行った。
時計を見ると、時間は10時を回っている。
なんだかんだで結構長く話していたようだ。
俺は座布団から立ち上がり、必要以上にくっついていた布団を少し離しながら、
「んじゃ、俺も風呂入ってくるかな」
と。
そう言った直後。
「……あれ?」
ピカッ、と。
窓の外が光ったような気がした。
「おい、雪。今のカミナリか?」
「え? ううん。見てなかった」
どうやら雪は旅行カバンの中をのぞきこんでいて気づかなかったらしい。
「光ったの?」
「いや……」
改めて窓から外を見てみると、空は月がはっきりと見える晴夜だった。
天気予報も確か向こう3日間は快晴のはずだ。
「……気のせいかな」
街灯の明かりが目に入ったのを光ったと錯覚したのかもしれない。
結局俺はすぐにそのことは忘れて、
「おい、雪。明日は早いんだよな?」
「うん。心配かけちゃったし、早くみんなと合流したいからね」
「やれやれ……明日はなにごともなけりゃいいけど」
いきなりハプニング続きのこの旅行。
俺はなんとなく、これだけでは終わらないような予感がしていた。