2年目7月「香月唯依のとある1日」
-----
香月家は5人家族である。
香月唯依が育ったのは、冬には足のすねまですっぽり埋まってしまうほど雪が積もる北国だった。
父は公務員、母は週4回のパートタイマー。3つ下の妹と4つ下の弟がいて、今でも週に一度は電話で連絡を取り合っている。
自分のことながら平凡な家庭に育ったな、と、唯依はそんな風に思っているが、そこには不満ではなく感謝の意味が強くこもっている。
なにしろ、唯依はこの4人の家族たちと血のつながりがないのだ。
……いや、ないと言ってしまうと少し語弊があるだろうか。
正確には養父と唯依の生母は遠い親戚関係にあり、血のつながりは一応あるようだった。
とはいってもかなり薄く、普通なら親戚であることすら意識しないほどの遠縁なのだ。
そんな養父母が、両親に捨てられた赤ん坊の唯依をどうして引き取り育てることになったのか、それらの事情についてはなにも聞かされていなかった。
本当の両親がどんな人間だったのかもいっさい教えてもらっていない。
ただ、ひとつだけ。
小さいころから繰り返し聞かされ続けた話があった。
『15歳の春になったら、お前は本当の家族たちと一緒に暮らすようになるんだよ』
と。
そして迎えた15歳の春。
つまりは今年の4月、唯依は風見学園の1年生としてこの町にやってきたのである。
唯依たちの暮らすアパートは駅まで徒歩5分。
風見学園までは電車の待ち時間を考慮にいれても30分以内の場所にある。
唯依は養父母から聞かされてきた言葉どおり、そこで彼と同じ境遇にあった3人の異母姉たちと一緒に暮らすようになった。
長女の真柚。
次女の亜矢。
そして、三女の舞以。
そんな3人の姉との生活は、唯依にとって当初かなり息の詰まるものとなった。
それも当然だろう。
姉といってもそれまで面識どころか会話をしたこともなかったし、手元にあった情報といえば、彼らがそれぞれの家に引き取られる直前に撮ったらしい1枚の集合写真のみで、みんなまだ2歳にも満たない赤ん坊だ。
今見てもどれが誰なのかわからないような古い写真だったのである。
つまり、ほぼ赤の他人同然。
そんな他人同然の異性3人と一緒に生活しろと言われて、いきなり順応できるほど唯依の神経は図太くはなかったのだ。
ただ、そんな生活が始まってから4ヶ月。
……あるいはそれも、血の成せる業なのだろうか。
1年の1学期が終わるころになると、唯依はようやく、少々個性的な3人の姉たちとの生活になじんできたのであった。
「提案が、あるの」
ぶぉぉん……という、扇風機の音が室内に響いている。
アパートの最上階にある4LDKのリビング。その中央には木製の四角いローテーブルが置いてあり、そこにはタンクトップ姿のお団子頭の少女が座っていた。
3姉妹の長女、真柚である。
外ではセミが高らかに鳴いていた。
本格的に夏だ。
「……ねぇ」
ぶぉぉぉぉん……。
「提案がー、あるんだけどー」
「ちょっと唯依。真柚がなんか言ってるから構ってあげて」
そう言ったのは、全開になった窓の下に座り込んでマンガの本を読んでいるボブカットの少女。
3姉妹の次女、亜矢だった。
「え、僕?」
台所で朝食の片づけをしていた唯依は、カウンターテーブル越しにリビングの彼女たちを見る。
「今のって、そっちのふたりに言ったんじゃないの?」
「わかってるわよそんなこと。でも暑いから相手したくないの」
亜矢はマンガから目を離さないままだ。
ぺらっと、ページをめくる音が聞こえる。
「真柚のことだから、どうせどうでもいいことなんでしょうし」
そんな亜矢の冷たい言葉に、真柚が抗議の声を上げた。
「ちょっと亜矢ちゃん。聞きもしないで勝手に決めつけるのはよくないと思うよ。っていうか私お姉ちゃんよ? そういうおざなりな態度はどうかと思うな」
「はいはい。お姉ちゃんお姉ちゃん」
「むぅ」
不満そうな真柚の視線が動いて、その部屋にいたもうひとりの少女へと向けられる。
おっとりとした雰囲気のロングヘアの少女。
三女の舞以である。
「ねぇ、舞以ちゃん。舞以ちゃんからも言ってやって。お姉ちゃんの言うこと少しは聞きなさいって」
「私、思うんですけど」
そう言って、真柚と同じテーブルのそばに座っていた舞以が顔を上げる。
「それは本当に亜矢さんが間違っているのでしょうか?」
「え? どゆこと、どゆこと?」
不思議そうな真柚。
そんな彼女に対し、舞以は難しそうな顔をして言った。
「いえ。そもそも、真柚さんがこの家の長女だということが間違いであるという可能性は本当にないのでしょうか?」
「えっ? いきなりなに?」
「あー、なんか私も同じこと考えてたかもー」
と、亜矢はマンガの本から視線を外さないまま右手を大きく上げると、
「なんていうか。姉の貫禄? みたいなものがないのよね、真柚は」
「ええっ? そんなことないでしょ?」
「亜矢さんのおっしゃることには一理あります。そこで、こういうのはどうでしょう?」
と、舞以が軽く天井を見上げて考える仕草をしながら言う。
「このあたりで一度、生まれた時間なんて無意味な基準は捨ててしまい、もっとわかりやすく明確なもので姉妹の順番を入れ替えてみるというのは」
「あ、それ、面白いわね」
「え、なにそれ? 斬新すぎない?」
真柚がうろたえながら異議を挟んだ。
「っていうか今更なの? もう4ヶ月も経ってるのに?」
しかし亜矢が反論する。
「今だからこそよ、真柚。このままズルズル行ったら手遅れになりかねないわ」
「手遅れって……よくわかんないけど」
真柚は納得できない様子だったが、
「でも、それじゃあどうするの? 生まれた順番以外にわかりやすくて明確なものってなにかある?」
「んー、そうねぇ……舞以? なにかある?」
「そうですねぇ」
舞以はまたまた天井を見上げて考える仕草をした。
「そういえば真柚さん。私たち、姉妹なのにまだ一度も一緒に服を買いに行ったりしていませんでしたよね?」
「えっ? あ、うん。服はだいたい家から持ってきたから、すぐに買う必要なかったし……」
「ではこの機会に、今日これから一緒にいかがですか?」
「……どういうこと? 今の話と関係ないよね?」
真柚がわからない顔をする。
そんな真柚に、舞以はニッコリと微笑んで言った。
「ですから、そこで店員さんに測っていただいて、その大きさで決めてみるというのはどうかと」
バン! と、真柚がテーブルを叩く。
「つまり胸か! 胸の話かッ! そんなん私が一番下に決まってるし!」
「いえいえ、真柚さん。それは実際に測ってみないことには……」
「見ればわかんじゃん! はっきりしてんじゃん! どうせ私だけ断崖絶壁だよ! 自殺の名所だよッ!」
「……自分でそこまで言う?」
苦笑しながら、亜矢がようやく本から顔を上げる。
「でも、その基準だとあなたと舞以が入れ替わるだけね、きっと。私は2番目のままであまり面白くないわ」
すると舞以が首をかしげて、
「そうですか? 唯依さんが3番手に上がってくる可能性もあると思いますけど……」
「あ、あるわけないでしょぉッ!」
「あー、ほらほら。泣かない泣かない」
そう言って亜矢が真柚の背中をぽんぽんと叩く。
「……別に泣いてない。っていうか、こんな話になったの、もとはといえば亜矢ちゃんのせいだし」
「あら。私はただ、あなたに長女としての適正があるのかって疑問を口にしただけよ? 入れ替えるとか具体的なことを言ったのは舞以だわ」
とぼけてそう言った亜矢に、舞以は相変わらずの微笑みを浮かべたまま、
「私は亜矢さんの疑問にひとつの手法を提案しただけです。もともと真柚さんが長女であることに不満などありませんよ?」
「……むぅ」
矛先を失って、真柚はむくれたまま黙り込んだ。
と。
唯依はそんな姉たちの会話を背中に聞きながら、
「……っていうか、生まれた時間以上にわかりやすくて明確なものってないんじゃないかな」
しかしそのつぶやきは、皿を洗う水音に消されて彼女たちまでは届かなかったようだ。
結局、冒頭の真柚の提案というのは、夏休み用の水着をみんなで買いに行かないかということだった。
「ほら、見てよ。ちゃんとした提案だったじゃない」
なんだかんだと騒がしく4人で買い物に行き、それを済ませた帰り道。
真柚は得意げな顔で隣を歩く亜矢にそう言った。
それに対し、亜矢と舞以が同時に口を開く。
「珍しくそうだったわね」
「珍しくそうでしたね」
「……ハモって言うなーっ!」
そんなふたりに真柚が食って掛かっていく。
だいたいいつもどおりの光景だった。
と。
「……というか」
そんな3人のやり取りに、一番後ろの少し離れたところを歩いていた唯依が口を挟む。
「これ、どうして僕まで付き合わされちゃったのかなあ?」
当然の疑問だった。
唯依の水着は実家から持ってきたものが用意してあったし、今日の買い物で購入したのは彼女ら3人の水着と気まぐれに買ったアイスぐらいで、別に男手が必要なほどの荷物があるわけでもない。
にもかかわらず、唯依は2時間近くも女性用の水着売り場に身柄を拘束され、ただでさえ汗ばむ暑さの中、それとは別の理由で大量の汗をかくはめになってしまったのである。
そんな唯依の疑問に、振り返った亜矢が答える。
「いいじゃない。どうせ暇だったんでしょ?」
「そりゃ暇だけどさ……」
これだったら家でおとなしく留守番をしていたほうがよかったよ、と。
そんなことを思いながらも、唯依の口から出たのは言葉ではなくため息だけだった。
真柚が少しえらそうに胸を張って言う。
「練習だと思いなよ、唯依くん。将来彼女ができたときのためのね。今日みたいにしょっちゅう付き合わされるんだから、きっと」
「うん……でも、3人同時に付き合わされることは一生ないと思うよ」
「あ、あはは……それはそうかもねー」
誤魔化すように真柚が笑う。
と、そこへ舞以が思い出したように、
「そういえば、唯依さんは水着を買いませんでしたよね?」
「あ、うん。僕は去年……」
唯依がその理由を言おうとすると、それより先に舞以が言葉を続けた。
「もしかして唯依さんはヌーディストですか? それなら遠慮せず、家でも全裸で過ごしていただいて構いませんのに」
「……ど、どうしてそんな発想になるのさ。去年買ってもらったのがあるってことだよ」
「あ、そっちの意味ですか」
「普通そうだよ……」
「残念です」
舞以はなぜか満面の笑みだった。
唯依はこの、なにを言い出すかわからない一番下の姉が実はもっとも苦手である。
と。
そんなふたりの会話に亜矢が口を挟んで、
「っていうか、家で全裸は構わなくないからね、さすがに。そんなことしたら速攻で叩き出す」
「だからしないってば……」
脱力して肩を落とす。
だいたい唯依は、いまだに洗濯物の下着を彼女らに見られることすら恥ずかしいと思っているのだ。
家で全裸で過ごすなんてどう考えてもありえない。
「……あ、みんな。ちょっと先に行ってて」
とある交差点に差し掛かったところで、亜矢が急に足を止めた。
「どうしたの?」
唯依が聞くと、亜矢は道路向かいにある銀行を指差して、
「お金下ろしてくるわ。来月は出費も色々かさみそうだから」
「あ、それなら付き合うよ」
「そう? 別に無理しなくてもいいわよ」
亜矢は素っ気なくそう言って、青信号の横断歩道を渡っていった。
「私は舞以ちゃんと先に帰ってるね。アイス溶けちゃうから」
「わかった。じゃあ真柚、このアイスの入った袋持ってって。……亜矢、待ってー」
点滅し始めた信号に、唯依は慌てて亜矢の後を追う。
銀行内に入ると亜矢はすでにATMの前にいて、なれた手つきで操作をしていた。
唯依たちの生活費は、それぞれが預けられていた家の仕送りが元になっている。
当初はそれぞれが自分の仕送りを好き勝手に使っていたのだが、一緒に生活するようになって1ヶ月ほど経ったころ、舞以の提案で亜矢にすべてが委ねられるようになった。
たまにアレが買いたいとか、来月まで我慢しなさいとか、そういう小競り合いが(主に亜矢と真柚の間で)起こることもあったが、だいたいは亜矢の意見通りに終わることが多い。
彼女が一番のしっかり者であるというのが、4人の共通認識になっている証である。
唯依としても、食費がどうだとか次の仕送りまで何日かとかを考える必要がなくなって非常に助かっていた。
(……そういうとこ、しっかりしてるんだけどなあ)
と、ATMを操作する亜矢の後ろ姿を少し離れたところから眺める。
(ちょっと我が強いっていうか。この前みたいに変なことになることもあるし。……こないだのことだって、気のいい先輩だったからまだよかったものの――)
「唯依。ちょっとこの袋持っててくれる?」
「……え?」
気づくと亜矢が目の前まで戻ってきていた。
どうやら用事はもう済んだらしく、唯依の目の前には、今日買った水着の入った紙袋が突きつけられている。
「いいけど、どうしたの?」
「なんでもいいから」
亜矢は半ば強引にそれを押し付けると、銀行の奥へ入っていった。
(……ああ、トイレ)
唯依はようやくそれに気づき、手近な椅子に座って待つことにした。
人もまばらな銀行内をなんとなしに見回しながら、ふぅっと息を吐く。
(あーあ。せめてもうひとりぐらい男だったらなぁ)
思わずそんなことを考えてしまった。
この4ヶ月でだいぶ環境になじんできたとはいえ、同性である3人の姉たちに比べると、やはり唯依だけはまだ溶け込めていない感じがあった。
性別が違うのだからそれは当然といえば当然で、もちろん姉たちも唯依だけをのけ者にしようとしているわけでない。それどころか、あの年ごろにしては唯依が孤独にならないよう全員よく気を遣っていると言ってもいいぐらいだろう。
唯依もそれはよくわかっていた。
いや、わかっていたからこそ、もしも亜矢か真柚のどちらかが男だったら、こんなにも気を遣わせずに済んだのに、と、そう考えてしまうわけである。
なお、そこに舞以の名前があがらないのは、彼女が3人の中でもっとも男性である姿を想像できないということと、仮に彼女が男だったとしても付き合うのは簡単じゃないだろうなと思ったからである。
その点、亜矢と真柚はそのまま男になってもさほど違和感がない。
(……なんて。こんなこと考えてるのがばれたらひどい目に合わされるな、きっと)
男ひとり、しかも彼は末っ子である。
立場的にも人数的にも、そして性格的にも、姉たちに対抗できる手段はひとつもなかった。
なにげなく視線を外へ動かす。
夏休みとはいえ、今日は平日で人通りは少なかった。
と。
(……ん?)
外を眺めていると、妙なワゴン車が銀行のすぐ前に止まったのが見えた。
妙な、といっても別にどうってことはない。
ただ前方以外の窓ガラスが黒くなっているだけだ。
(中からは見えるけど、外から見えないってやつかな?)
唯依の興味はすぐに離れ、なかなか戻ってこない亜矢のほうへと意識が向く。
そして、その30秒ほど後のことだった。
……ドォン!
「え……?」
耳をつんざく破裂音。
なにが起きたのか、と、唯依があたりを見回そうとすると、
「動くな!」
いつの間にか店内に入ってきていたサングラスの男が、カウンターの受付に散弾銃のようなものを突きつけていた。
(……えっ)
一瞬の思考停止。
まるでドラマのワンシーンのようだ、という、のんきな感想が頭に浮かんだ後、それが現実の、しかもとてつもなく非日常的な光景であることに気づく。
(強盗……!?)
唯依の頭はようやくその事実を認識した。
しかも強盗はひとりではなかった。
カウンターの男に呼応して、店内にいた何人かの男が懐から拳銃らしきものを取り出して立ち上がる。
「全員動くな! お前ら、両手をあげてそこに集まれ!」
発砲はしなかったものの、男たちは拳銃をチラつかせて残っていた数人の客を威嚇した。
悲鳴が店内に響き渡る。
最初は誰もが信じられないという顔をしてその場に凍り付いていたが、強盗のひとりがさらに威嚇するように拳銃を振ると、せきを切ったように全員が指示通りの場所に集まった。
唯依もあわててそれに従う。
(もしかして、さっきのワゴン車……)
途中でチラッと外に視線を向けると、ワゴン車はまだ先ほどの場所に止まっていた。
中には人影らしきものが薄っすらと見え、エンジンはかけられたままだ。
(……信じられない。まさか銀行強盗だなんて)
新聞の紙面でも滅多に目にすることはない。
ほとんどテレビ画面の中にしか存在しないと思っていた類の事件だ。
(どうしよう……ひとまずじっとしてるしかないのかな)
ただ、唯依は自分でも驚くほどに落ち着いていた。
それは、この唯依という少年がおとなしい見た目に反して並外れた度胸の持ち主だから――というわけではない。
彼には"奥の手"があるのだ。
その気になれば、自分だけこの場を切り抜けることはおそらくたやすい。
いざというときにも命の危険がないとわかっているからまだ冷静でいられたのである。
ただ、それはあくまで最後の手段だ。
人の多くいるこの場所では使いたくない手段。
だから唯依は、銀行の人たちには悪いと思いながらも、強盗たちがお金を奪うだけで人に危害を加えないのならこのまま過ぎ去って欲しいと考えていた。
それに、いまだ戻ってこない亜矢のことも気になる。
彼女の安全を確保するまでは、下手なことはできない。
「全員背中を向けて両手を挙げろ! 妙な動きするんじゃねぇぞ!」
強盗の言葉に、客全員が背を向ける。
唯依も、強盗たちが視界から消えることに少々恐怖はあったが、素直にそれに従うことにした。
(……亜矢。出てこないでくれよ)
騒ぎに気づいてトイレの窓かなにかから逃げていればそれが一番だ。
彼女はその程度の機転を利かせられるほどには聡明である。
……と。
「おい」
ビクッと唯依の体が震える。
強盗のひとりが、いつの間にか彼の背後に近づいていた。
「そいつを黙らせろ」
「え……」
どうやら強盗は、唯依の隣に座っていた母子に言ったようだった。
緊張で気づいていなかったが、隣にいるその赤ん坊はずっと泣きっぱなしだったのだ。
「は、はい!」
母親が慌てて赤ん坊をあやす。
が、泣き止む気配はない。
「ちっ……」
気が短いらしい男は舌打ちをして、母親から赤ん坊を奪い取った。
「あっ、なにを!」
「俺が黙らせてやるよ」
そう言って、強盗は手にしていたガムテープを赤ん坊の口に貼り付けようとする。
が、赤ん坊は口を大きく開けて泣き叫んでいて、なかなかうまくいかない。
「ちっ……少し黙ってろ!」
しびれを切らした男が赤ん坊の顔を引っぱたいた。
「あっ……」
母親が悲痛な声をもらす。
もちろん赤ん坊は泣き止まず、さらに激しく泣き叫んだ。
「こいつ……」
男が再び手を振り上げる。
(……この)
唯依の手に少し力が入った。
そのままあと数秒ほどもすれば、強盗の行動に我慢できなくなって"奥の手"を使っていたかもしれない。
しかし、唯依が我慢できなくなるより先に異変が起こった。
「やめなさい」
店内に響き渡ったのは、静かな女性の声。
(……え?)
背中を向けている唯依には状況がわからなかったが、店内がざわめいたのがわかった。
一瞬、水を打ったような沈黙。
(なんだ……? 誰だ?)
と、唯依は少し混乱する。
強盗の中に女性はいなかったはずだった。
「……なんだ、てめぇ! 妙なカッコしやがって!」
強盗が赤ん坊を放り投げるように母親に返し、手に持った拳銃でその何者かを威嚇するようにしながら唯依のそばを離れていく。
「なんだろうと、別にどうでもいいじゃない」
再び、先ほどの女性の声。
「いまどき銀行強盗なんてね。ホントどうかしてるわ。世の中ってどうしてこうも頭の足りない連中が多いのかしら」
「……おい。俺はてめぇみたいなイカれた女と話してるヒマはねぇんだ。大人しくそこに座ってろ。さもないと――」
「さもないと、なに? 殺す?」
なぜか、その光景を見ていない唯依にも、女性が冷たい笑みを浮かべたのがわかった。
強盗の人数はおそらく4人。
全員が銃で武装している。
にもかかわらず。
「私もお前たちのようなクズと話をしていたくはないの。本当はね」
「死にてぇのか、てめぇッ!」
「死ぬのは――」
パンッ!
頭上の蛍光灯が砕け散った。
「死ぬのはお前たちのほうよ」
バチッ! と音がして、店内が短く、白く発光する。
唯依は思わず首をすくめた。
(……な、なんだ、今の!?)
バチ! バチバチッ!!
立て続けに3つ、4つ。
同時に頭上の蛍光灯も次々に割れていった。
「きゃぁぁぁぁぁッ!!」
複数の悲鳴が上がり、店内がパニックになる。
威勢よく叫んでいた強盗の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
それを挑発していた女性の声も、また。
なにが起こっているのかわからないまま、唯依はついに後ろを振り返る。
すると――
「えっ……?」
銃を持った強盗たちは全員がその場に倒れていた。
見たところ意識はなく、中には倒れたまま小刻みに痙攣している者もいる。
誰かが『逃げろ!』と叫び、慌てふためく客たちがこぞって店外へ逃げ出していった。
(これって、いったい……)
なにが起きたのか、と。
唯依は逃げ出していく客の流れに逆らうように、状況を把握しようとする。
そして、
「あっ……」
唯依の視界に、足早に銀行の奥へと入っていく女性の後ろ姿が映った。
しかし、見えたのはほんの一瞬。
入れ替わるようにして、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
(……いったい、なにが……?)
結局、なにが起こったのかわからないまま。
唯依が巻き込まれたその強盗事件は、謎の女性の手によって解決していたのだった。