1年目4月「もうひとつの非日常」
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町が寝静まり、夜の闇がもっとも深くなる丑三つの頃。
ハアッ、ハアッ。
濃い暗闇の中、必死の息遣いが路地に響いていた。
人気のない工業地区。
悲鳴も届かぬ閑散とした地域。
男が走っている。
必死の形相。
絶望に満ちた瞳。
月は厚い雲に覆われていた。
風は生温い。
――追うモノと追われるモノ。
この町の中では、時折その立場が逆転することがある。
「!」
必死に逃げていた男がハッとして正面を見据えた。
男の耳は大きく尖っている。それは男が"人間ではない"ことの証。
その視線の先に誰かが立っていた。
「お前ら……」
闇の中から浮かび上がったのは長身の、男性か女性か。
この暗闇の中では見分けが付かない。
「……お前ら、一体なんなんだよ!」
叫びながら男が地面を蹴る。
逆方法に向かって。
最良の選択だった。
ただし、その判断が実を結ぶかどうかはまた別の問題だ。
「無駄だ。下級水魔」
「!?」
男は急にバランスを崩した。
転倒することはどうにか避けたが、泥沼に捕らわれてしまったかのように両足の自由がきかなくなっている。
「ちっ……!」
男は即座に逃げることをあきらめ、振り返って利き手を"敵"へ向けた。
空中にいくつもの水のつぶてが生まれ、"敵"めがけて飛んでいく。
しかし"敵"はまったく動じることなく、指先をくいっと動かした。
――パン。
「!?」
パン、パン、パパパンッ!
なにも見えない。
にもかかわらず、男の放った水つぶてはすべて空中で四散してしまったのだ。
"敵"の姿は男の眼前にまで迫っていた。
そこでようやく、男は目の前の人物が女性であることを知る。
と、同時に胸の辺りに鋭い痛みが走った。
「ぐ……ぁっ……」
心臓を一突き。
紛れもない致命傷。
「が、あぁ……ッ」
ゆっくりと倒れこむ。
そうして急速に薄れていく意識の中。
「……緑刃様、お疲れ様です」
「来たか。いつもどおり後始末を頼む」
手馴れたやり取りが混濁した意識の中で聞こえる。
そうして男はようやく彼らの正体を知った。
「おまえ、ら……は……!」
聞いたことがあった。
会ったのは初めてだ。
いや、当然だろう。
過去に出会っていたならば、おそらくその日以降の男の歴史は存在していなかったに違いないのだから。
明日以降がそうであるように――。
「あくま、が……り……」
それが男の最後の言葉となった。
――男が完全に事切れたのを確認し、緑刃はその場を離れていく。
ひとりの部下がその後を追った。
「……緑刃様。先日の力の持ち主、正体が掴めました」
「この町の住人か?」
「はい。どうやら町の女子高に通う15歳の少女のようです」
「子供、か」
緑刃は微かに眉をひそめ、そして続ける。
「紫喉様はなんと?」
「危険な存在である、と」
「そうか。……私は"御門"へ戻る。あとを頼んだ」
「はい」
そういって緑刃はその場を去っていった。
"悪魔狩り"
その名のとおり、悪魔の存在を否定し、それを狩る者。
それはこの町の闇に暗躍するもう一つの非日常であった。
この町の北西部には大きな山がある。
各所に"キケン""入山禁止"などの看板が並び、地元に伝わるおそろしい昔話の効果もあってか、行楽シーズンを含めてずっと人気の少ない険しい山だ。
そんな山のふもとには、やはりあまり人気のない閑散とした雰囲気の神社がある。
普通、神社には"~神社"とか"~神宮"というような名前がついていて、入り口などにその名称がわかるものが掲げられたりしているものだが、その神社にそのようなものは見当たらない。
といって打ち捨てられた場所というわけでもないようだった。
中には社務所があるし、巫女らしき姿の女性が働いている姿も見られる。
そしてこの日、朧月の夜。
うっすらと煙る月明かりに照らされた神社の境内にはふたつの人影があった。
片方はジーパンにシャツというラフな格好の少年。
そしてもう片方は、神社の関係者と思われる巫女姿の少女。
ふたりとも年齢は15歳~16歳といったところだろうか。
「話ってのは?」
先に口を開いたのは少年のほうだった。
見た目は少年だがその眼光は鋭く、髪の毛は金色。
染めているのか自毛なのかはわからない。
態度はお世辞にも良いとはいえず、神社の鳥居に背を預け腕を組んだ体勢で少女を見ている。
「楓さんはすでに御存知のことかと思いますが――」
それに対し、少女はお腹の辺りで両手を軽く重ね合わせ、ピンと背筋を伸ばし静かな声でそう言った。
こちらは和装の似合う黒髪をお下げに結わえていて、表情はまるで人形のようにぴくりとも動かない。
「先日の力のことです。ご存知ですね?」
「なんのことだ?」
「御存知のはずです」
繰り返した少女の言葉に、楓と呼ばれた少年はフンと鼻を鳴らした。
「ま、アレだけ自己主張されちゃあな。お前らにとっては無視のできない力だったか」
その言葉と表情には無関心の色がアリアリと浮かんでいたが、少女はそれも気にすることなく続けた。
「あれだけの力を発する悪魔はそう多くありません。これまで気付けなかったのは迂闊でした」
「別に何かをやらかしたってわけじゃない。それどころか、どうやらお前らの仕事を手伝ってくれたみたいじゃないか」
「結果的にはそうなりましたが、真意がどこにあるかは判断しかねます」
少女の切り返しに、楓は鋭い視線をさらに細める。
「で、俺を呼んだ理由はなんだ? その判断とやらを下すのはお前らであって俺じゃないだろ?」
はい――と、少女は静かにうなずいた。
「楓さんには、その人物をそれとなく見張っていてもらいたいのです」
楓は不可解そうな顔をする。
「どこの誰か、検討はついているのか?」
「はい。桜花女子学園の1年生――」
少女が口にした名前を聞いて、楓は初めて大きく表情を動かした。
「……本当か?」
「はい」
「……」
楓は視線を泳がせ、考え込むような素振りを見せる。
少女は黙ってその様子を見つめていた。
「……言っとくが、俺たちだって一日中見張ってるわけにはいかないぜ」
楓の言葉に、少女はやはり静かにうなずく。
「可能な範囲で充分です。彼女が大きな動きを見せたのは今回が初めてのことでした」
「しばらくは様子見ってことか」
「そうです。できれば彼らに察知される前に」
「……ちょっと待ってろ」
楓はそのままの体勢で目を閉じた。
「はい」
少女はすべて承知しているという様子で、そのまま身じろぎもせずに待つ。
2~3分ほどもそうしていただろうか。
思考するだけにしては少々長めの沈黙を挟んで、楓はようやく目を開いて答えた。
「それとなくでいいんだな? その程度ならやってやる」
「ありがとうございます」
即座に頭を下げた少女に、楓は少し皮肉な笑みを浮かべた。
「お前のありがとうは、全然ありがたそうに聞こえないな」
「……」
少女は初めて表情をわずかに動かした。
「そういう性格ですから」
「ああ、知ってる。用はそれだけだな? じゃあ俺は帰る」
「お願いします、楓さん」
楓は軽く手をあげてそれに答えると、神社の階段を町に向かって下りていったのであった。