2年目5月「全力で」
そして球技大会当日。
体育館には前半終了の笛が鳴り響いていた。
「はぁっ……はぁっ……」
額と首筋から汗がしたたり落ちていく。
いったんその場で息を整えてから、俺は手にしていたボールを審判に渡して待機場所へ戻った。
「お疲れさま」
直斗がそんな俺たちを出迎える。
「ここまで、なかなかいい感じなんじゃない?」
「……」
俺はその手からスポーツタオルを受け取ってその場に座り込むと、
「……負けてるけどな」
タオルで口もとの汗を拭い、スコアボードへと視線を移した。
21対16。
5点差でこちらが負けている。
相手の1年3組、というより木村は、さすが全国大会でレギュラーを張るだけのことはあった。
前半は俺や斉藤ではなく、他のふたりでマークについてもらう作戦を試したが、相手がふたりだろうと3人だろうと関係なく、あいつにボールが渡った時点でほぼ失点確定という状況。
このままだと、後半に入ってもおそらく同じ展開になるだろう。
(後半はやっぱ俺と斉藤でマークにつくか……)
ただ、木村が突出しているとはいえ、あっちは他にもふたりほど動きのいいやつがいる。
俺たちが木村ばかりに集中すれば、逆に大量失点にもつながりかねなかった。
さらに悪いことに、直斗の怪我で交代要員がいなくなったのも地味に効いてきている。
この休憩時間を見ても斉藤以外はしゃべる気力もないほどに疲れきっているようだし、そのうちのひとりなんかは前半の途中から走っているのか歩いているのかわからないような状態だった。
直斗が他の4人にタオルを渡しに行く。
(……さて、どうしたもんか)
そんな直斗の背中を眺めながら、俺が今後の作戦について思考を巡らせていると、
「不知火先輩」
「……あん?」
敵陣から木村がやってきた。
手にはバスケットボールを持っていて、俺と違い、息は早くも整っているようだ。
(……そりゃ、中学3年間ずっとやってたやつと比べてもな)
こっちの体力が劣っているのは当然のこと。
ただ、向こうにそんなつもりはないのだとしても、余裕を見せつけられているようであまりいい気はしなかった。
そんな俺の心中には気づいた様子もなく、木村は少し周りを見渡して、
「水月先輩は応援に来ていないんですか?」
「あいつは今ごろ卓球の試合中だ」
この風見学園には体育館とは別に卓球場がある。
向こうもちょうど1回戦の真っ最中のはずだった。
「そうですか。残念です」
と、木村は本当に残念そうな顔をする。
俺はそんな木村を見上げて言った。
「……この際だからはっきりさせとく。直斗はどうだか知らんが、俺はとりあえずお前の邪魔をする気はねーからな」
「え? ……あ、水月先輩のことですか?」
「他にないだろ」
すると木村は怪訝そうに眉を動かした。
どうして急にそんなことを言い出したのかわからないという顔だ。
俺は視線を足もとに落とし、ゆるんでいた靴ひもを結びなおしながら、
「お前がこの試合になにを賭けてるのかは知らんが、俺はそれに付き合ってるつもりはない。お前があいつのことを好きなら勝手にすればいいし、とにかく、もう今回みたいなことに俺を巻き込まないでくれ」
「関係ないから、ですか?」
「そうだ」
「……でしたら」
木村は急に真面目な顔をした。
「この試合、わざと負けてください」
「はぁ?」
俺は顔をあげ、思わずぽかんとしてしまった。
「お前なにもわかってねーじゃんか。だから言っただろ。この試合がどうだろうと――」
だが、木村はそんな俺の言葉をさえぎった。
「先輩の言うように、僕はこの試合にあるものを賭けています。でも、先輩のほうがなにも意味を感じていないのなら、わざと負けてくれてもいいじゃないですか。だってたかが球技大会でしょう?」
「それとこれとは話が別だろ」
「どうしてです?」
木村は少し強い口調だった。
「聞いてますよ。先輩はこういうゲームに本気で取り組むのはあまり好きじゃないらしいですね。……でも、昨日は汗だくになって練習してたじゃないですか。それでやる気がないなんて信じられません」
「……」
俺が口を閉ざすと、木村は少し口調をゆるめて、
「すみません。別に先輩が水月先輩のことをどう思っているかとか、そんなことを決め付ける気はないんです。でも、少なくとも僕の邪魔をするつもりがまったくないっていうのは嘘だと思います。だったら――」
そう言って小さく頭を下げる。
「先輩の本心はどうあれ、少しでもそういう気持ちがあるなら最後まで全力でやってください。お願いします」
「……」
俺は壁に背を預けたまま、じっと木村を見上げた。
額に浮かぶ汗。
目の奥に見える真剣な光。
(……わかんねーな)
どうしてそんなにも執着するのだろうか。
……ああ、いや。
仕方がないのか。
俺や直斗の存在ってのは、事実がどうであれ、はたから見ればどうしても壁のように見えてしまうのだろう。
今回は直斗があんな態度をとってしまったから、なおのこと。
この試合の勝敗で現実になにかが変わるわけではないにしても。
木村にとってこれは、おそらくその壁を乗り越えるための試練という位置づけなのだ。
それにまあ。
勝手にしろとは言ったものの、そういった連中が気分よくアタックできるように由香と距離を置こうとか、そういう殊勝な考えも今のところはない。
つまり。
(……後には引けないわけか)
不本意だ。
とはいえ、こうなった以上は適当にお茶を濁してさようならというわけにもいかないのだろう。
俺は深いため息をついた。
「お前って、結構言いたいこと言うやつなのな」
「最初からそういう性格ですよ、僕は」
「……わかったわかった」
思わず笑ってしまう。
そこまで言うなら、俺の流儀に則ってやらせてもらうことにしよう。
そう決心すると、逆に考える必要がなくなって気が楽になった。
俺は目を細めて、
「さっきまでも別に手加減してたわけじゃねーけど、後半は本当に全力で相手をしてやる。……いいか、全力だぞ。後悔すんなよ?」
「しませんよ。負けるつもりもないですし」
「生意気な」
俺が鼻で笑うと、木村は笑顔になった。
いつの間にか目的と手段が逆になっているんじゃないかとさえ思えてくる。
スポーツマンってのはみんなこういうもんなのだろうか。
そして木村が去り、俺は斉藤たちメンバーのもとへ戻った。
「おい、斉藤」
「ん?」
さすがサッカー部だけあって、斉藤は他の3人より早く息が整ったようだ。
俺は言った。
「作戦変更だ。後半は俺ひとりで木村のマークにつく。点取りはお前に任せた」
「お前ひとりで? 本気か?」
驚き顔の斉藤。
チラ、と、直斗が俺の顔を見る。
「冗談言ったって仕方ないだろ。……見てな」
ピィィ、と笛が鳴った。
休憩時間が終わり、後半戦が始まる。
「後半はあいつに1点たりとも入れさせない。上級生の威厳を見せ付けてやろうじゃねーか」
そして――試合は後半戦に入った。
「……くっ!」
ボールがリズミカルに床を叩いている。
木村の首筋には滝のような汗が流れていた。
俺はその手の中にあるボールの動きを目で追いながら、一挙手一投足に集中する。
前半は思い切りよくどんどん攻撃していた木村も、今はどうにか隙を探そうと必死に視線を動かしていた。
かなり焦っている。
今の俺には、そんな木村の心境の変化を推測する余裕さえあった。
得点ボードは25対28。
俺がぴったりとマークにつくようになって、前半だけで10本近く決めていた木村のシュートは後半終了間際になってまだ1本も決まっていなかった。
逆にこちらは斉藤が攻撃の主導権を握り、現時点で3点勝ち越している。
残り時間は1分程度。
この攻撃を抑えてもう1本決めれば、おそらく勝負は決するだろう。
「っ……先輩、まるで別人ですね……」
「お前がそうしろって言ったんだろ」
木村の息はかなり上がっているが、それにずっとくっついていた俺はそれほど苦しくはない。
当然だ。
今の俺は人間の姿を保っていられる範囲で、悪魔の運動能力を解放しているのだから。
その身体能力の差はどうやら、木村と俺の技術の差を埋めるのに充分だったようだ。
「なんか先輩は普通じゃない気がしてたんですよね、最初から……」
木村の手の中のボールが規則正しく床を叩く。
「……水月先輩が好きになるのもわかる気がします」
「はぁ?」
一瞬、気を取られた。
その瞬間、音のリズムが変わって木村の体が動く。
(こいつ……!)
わずかに反応が遅れた。
だが、その分を差し引いてもアドバンテージは俺にある。
木村の体が右に流れた。
俺の目はそんな木村の動きの不自然さを冷静にとらえている。
フェイントだ。
(左か……)
あえて右を抑える素振りを見せると、案の定、木村はすぐに反転して左へ動いた。
俺も素早くそれに対応する。
……いや。
(なるほど……)
ダン! と、ボールは勢いよく俺の股の間を抜けた。
してやったり、という顔をして木村が俺の横を駆け抜けていく。
だが――
「!?」
木村の顔が強張った。
完全に抜いたと思ったのだろう。しかし股の間を抜けたボールは、それを直前に予測し、体をひねって差し出した俺の右手の中にスッポリと収まっていた。
(これで……)
駆け出す。
木村も慌てて反転して、後を追ってきた。
クラスメイトの歓声。
木村の足音が追いついてくることはない。
(……終わりだ)
迫りくるゴール。
あと3歩。
そこで踏み切り、手の中のボールを叩き込めばそれでゲームセットだ。
そこは誰もいない無人の道。
……の、はずだった。
しかし――
「!?」
突然右手から現れたひとつの影。
(……なっ!?)
木村ではない。
(こいつ……!)
とっさに名前が浮かばなかったが、それは先日木村と練習に来ていたうちのひとりだった。
必死の顔で俺のボールに手を伸ばしてくる。
「くっ……」
しかし間一髪。
俺の右手を離れたボールはななめに床を叩いて左手へと移動し、そいつの手は空を切った。
そのまま床を蹴る。
それだけで俺の体は高く宙を舞い――歓声。
慌てて強く飛びすぎたせいか、ゴールは目線と同じ高さにあった。
(なら、このまま……!)
手の中のボールを直接ゴールに叩き込むと、クラスメイトからひときわ大きな歓声が上がった。
試合後。
2回戦を控えた俺たちが教室で待機していると、すでに敗退が決まって学生服に着替えた木村がやってきた。
「……ずるいですよ。僕、先輩の引き立て役みたいになっちゃったじゃないですか」
不満そうに、それでも満面の笑顔で木村がそう言った。
俺はスポーツドリンクのペットボトルから口を離して答える。
「後悔するなって言っただろ。……まぁアレだ。俺は天才だからな」
「あんな別人みたいになるなんて誰も思いませんよ。結局後半は1本も決めさせてもらえませんでしたし」
「だから天才なんだよ」
本当はもっと具体的な理由があるのだが、もちろんそれは言えない。
それでも木村は妙に満足そうだった。
「だとすると、僕はどうやっても勝てない運命だったんですね」
「……なあ。気になってるんだが」
俺はそんな木村になにげなく尋ねてみた。
「お前、もしかしてひどい勘違いをしていないか?」
「勘違いですか?」
「ああ。……お前さ。さっきの試合中、由香のヤツが俺のことを好きだとか口走っただろ?」
「ええ、言いましたけど?」
「そもそも、その根拠はなんなんだ?」
単純に、由香と仲のいい男子という理由で標的にされていると思っていたのだが、さっきのその発言からすると、どうやらそれだけではないように思えたのである。
すると木村は首をかしげて、
「だって、水月先輩が毎日お弁当を作ってきてるって聞きましたから」
「……ちょっと待て」
そういえば、と、思い出す。
こいつはさっきも、こういうゲームに本気で取り組むのは好きじゃないはずだとかなんとか、話してもいない俺の内面に踏み込んだ発言をしていた。
なにやらきなくさい。
「どっから聞いたんだ、その話」
「あ、実は僕のクラスメイトの従兄が2年にいるんです。ほら、この前僕と一緒に体育館に練習に来た田辺の従兄です」
「ああ……」
田辺ってのは確か坊ちゃん刈りだったほうだ。
俺は少々嫌な予感がしつつ、
「で、その従兄ってのは?」
「藤井将太さんっていうらしいですよ。知ってますか?」
「……知ってるよ」
嫌な予感は見事に的中していた。
(……元凶はすべてあの野郎か)
しかし、なるほど。
それなら木村が色々と勘違いしているらしいことも納得できる。
だいたいおかしいと思ったのだ。
もともと木村に宣戦布告したのは直斗なのに、いつの間にか矛先が俺ばかりに向いていたのだから。
きっと将太のヤツが、あの田辺とかいう従弟を通していらんことを吹き込んだのだろう。
俺はため息をついて、
「いいか? お前がなにを聞いたのかは知らんが、そいつの言うことはほとんどデマだ。俺と由香は単なる昔なじみで、それ以上でも以下でもない。それが真実だ」
「お弁当は?」
「いや……それは本当だが、別に深い意味はない」
すると木村は笑って、
「好きでもない相手の弁当をわざわざ作ってくる子はいないですよ」
「いや、あいつはそういうヤツなんだよ。それに直斗の分だってたまに作ってくるしな」
「そうなんですか? ……うーん、なんだか納得できませんけど、まあ、どちらにしても約束ですから。僕はこれ以上水月先輩には関わらないようにします」
そんな殊勝なことを言う木村に、俺は天井を見上げながら、
「さっきも言ったけど、俺のほうはそんな約束した覚えはない」
「いえ、僕の中でそう決めていたので。といっても、現時点じゃ脈がなさそうってのが一番の理由なんですけどね。……あ、でも、もし水月先輩が卒業するころになってもフリーだったら、またチャレンジするかもしれません」
「あー……それって普通にありうる話だなぁ」
思わず苦笑する。
「そうですか? 水月先輩、モテそうですけど」
「スペックがどうこうより、本人の性格がな。……ま、そのときは遠慮なくアタックでもなんでもすりゃいいさ。ああ、それと」
思い出して、俺は木村に尋ねた。
「お前のチームメイトのアイツ、名前なんてったっけ?」
「田辺ですか? 京介ですけど」
「いや、そっちじゃなくて、もうひとり。さっきのゲームで最後に俺に食い下がってきたヤツだ」
「ああ、 そっちですか。香月です。香月唯依」
見た目どおり女みたいな名前でしょ、と、木村は笑った。
「香月、唯依か……」
先ほどのゲームを思い出す。
最後に木村からボールを奪ったとき、俺の記憶が正しければそいつはゴールに近い位置でパスを待っていたはずだ。とするとあの瞬間、あいつは木村よりも遠い位置にいながら、ギリギリで俺に追いついてきたということになる。
もちろん俺はボールを持ってドリブルしているのだから、がむしゃらに走ってくるやつに追いつかれること自体はおかしいことじゃない。
普通の状態、であれば。
「なあ木村。その香月ってヤツ、陸上かなんかやってたか?」
「え? あ、どうでしょう。聞いたことないです。ただ、そういうキャラではないと思いますけど」
「そっか。……呼び止めて悪かったな」
「いえ、それじゃあ。色々騒がせちゃって申し訳ないです」
「いや、終わってみればこっちも少し楽しかったかもしれん。じゃあな」
そんな俺の言葉に笑顔を見せ、木村が去っていく。
(……香月、唯依か)
俺はその、会話もしたことのない1年のことが少し気になっていて。
そしてそれは、その後に起きる事件のキーパーソンとなる後輩の存在を、俺が最初に認識した瞬間だったのである。