1年目3月「“銀白の世界(ホワイトクリスマス)”」
正確にはモノクロではなく銀白だ。
キラキラと周囲を躍るダイヤモンドダスト。
ピンと張り詰めた空気は、少し動けば肌が裂けてしまうのではないかと思うほどだった。
一面の銀世界。
時間さえも停止してしまったのではないか、と、一瞬そんな錯覚に囚われてしまっていたが、もちろんそうではなかった。
体は動く。
止まったのは、俺に襲い掛かろうとした暴走妖魔だけだった。
「がぁ……?」
暴走妖魔が自らの足下に視線を落とす。
その両足は床の中に埋まっていた。
……いや、違う。
床と同化――でもない。
(これは……)
凍り付いていた。
暴走妖魔の両足は完全に氷結し、床にピッタリと張り付いていたのだ。
「……がぁぁぁぁぁぁッ!!」
咆哮を上げ、足元の氷を砕いて暴走妖魔が動き出す。
だが、
「無駄だよ。動かないで」
それは無駄なあがきだった。
壁、床、そして天井。
四方八方から突き出した刺又のような無数の氷の棒が、再び全身を拘束する。
「ぐ……が……?」
なにが起きたのか理解できない表情で、暴走妖魔がかろうじて動く首を左右に動かした。
その視線が元凶を探し当てる。
「たくさん人を殺したんだね」
庭に続く大きなガラス戸。ガラスはとっくに粉々に吹き飛んで枠だけになっていたが、その向こうに小柄な少女が立っていた。
風に揺れる銀色の髪。
氷のように凍てついた瞳。
それはまるで昔話から飛び出してきた妖怪"雪女"のようだった。
……なんて。
そんな素直な感想をうっかり口に出せば、きっと今日の俺は1日中メシ抜きになってしまうに違いない。
「ユウちゃん……無事でよかった」
氷のようだった瞳が、そこに安堵の色を浮かべていた。
「雪……お前どうして」
「……がぁぁぁぁぁ――ッ!!」
「!」
もがいていた暴走妖魔の全身から魔力がほとばしり、氷の拘束具が砕け散る。
(こいつ、まだ……!)
神村さんの攻撃を受けてだいぶ弱っているにもかかわらず、暴走妖魔はまだ力を残しているようだった。
その怒りの矛先が、新たに現れた敵――雪へと向けられる。
だが、雪はまるで怯まなかった。
「無駄だって言ったよ」
「……!」
暴走妖魔の動きが再び停止する。
見ると、身にまとっている洋服さえすべて凍りつき、凍結はその肉体にまで及んでいた。
「その部屋の中はもう私の世界。だから――」
雪の視線が横に動く。
同時に短い呼吸音が聞こえた。
神村さんが暴走妖魔のすぐ背後に迫っていた。
「ぐ、あ、あぁぁ……!」
凍結した右腕をどうにか動かし、首を狙った神村さんの太刀を寸前で受け止める。
満身創痍で、雪の力が全身に及んでいるはずなのに、なお。
呆れるほどの力だ。
だが、雪と神村さんが作ってくれたこの機会を逃すほど俺はお間抜けではなかった。
「これで……!」
暴走妖魔が神村さんに気を取られた瞬間には、俺はもう動き出していた。
神村さんと視線が交錯する。
彼女も俺の意図を察していて、次の一撃を放つつもりはないようだ。
そのまま俺は、がら空きになった暴走妖魔の懐に潜り込む。
右手に宿るのは、君臨する天上の炎。
灼熱のうなりを上げる"太陽の拳"――。
「終わりだぁぁぁぁぁ――ッ!!」
「!」
暴走妖魔がようやく俺の動きに気づいたが、いくら超人的な反応速度、肉体能力を持っていても、雪、そして神村さんにこれだけ崩されては、俺の攻撃を受け止める余裕があるはずもなかった。
ゴリッ、という鈍い感触。
「が……ッ」
げんこつから前腕を伝い、肘、肩へと跳ね返ってくる衝撃。
それは俺のこぶしが暴走妖魔の肉体を確実に捉えた証だった。
ぐっ、と、押し込む。
肉と骨がきしむ。
アドレナリンがあふれ出した。
「ぉぉぉぉぉ――ッ!!」
全身全霊を込めて咆哮を上げると、こぶしから噴き上がった炎が敵の全身を一瞬にして包み込む。
暴走妖魔は悲鳴を上げる間もなく、火だるまになったままバネ仕掛けのオモチャのように壁まで吹っ飛んでいった。
激突したタンスが粉々に砕け散る。
家の梁がギシギシと音を立てる。
埃が宙を舞う――
……充分すぎる手応え。
カラ、と、タンスだったものの破片がガレキに埋まった暴走妖魔の額に落ちた。
が、ピクリとも反応しない。
「……」
神村さんが刀を手にしたまま近づいていった。
油断なく見下ろし、完全に動かなくなっていることを確認すると、神村さんは懐から不思議な刻印のついた手錠のようなものを取り出して、素早く暴走妖魔の両手首にはめた。
「……ふぅ――っ」
そんな彼女の行動を見て、俺は詰めていた息をゆっくりと時間をかけて吐き出す。
どうやら終わったようだ。
脱力感が襲ってきて、体の緊張が解けていった。
「美矩さん」
神村さんが呼びかける。
「本部に連絡をお願いします。件の妖魔を拘束したと」
「連絡済みです、沙夜姉様」
と、美矩が台所の陰からパッと姿を現した。
ずっとそこに隠れていたのか、戦いが終わったことを察して裏口から素早く入ってきたのか。
いずれにしても気付かなかった。さすが隠密を自称するだけのことはある。
「それよりも沙夜姉様。怪我の手当てを」
「っ……」
美矩が心配そうに近づいていくと、神村さんは少しだけ顔をゆがめて床に片膝をついた。
あれだけの怪我だ。
立っているだけでも相当の負担だろう。
その怪我の状況も気にはなったが、ひとまず応急手当は美矩に任せることにして辺りを見回す。
リビングは丸ごと洗濯機でかき回したようなめちゃくちゃな状態だった。
これで外からなんの反応もないのだから、美矩の張った結界とやらは正常に働いているのだろう。
(そういえば……)
ふと、階段の下で事切れていた老人のことを思い出し、俺はそちらへ足を向けた。
が、
「不知火さん。住人の遺体についてはこちらで対処します。手を触れないでください」
「ああ……そうか」
念のため生死を確認しようと思ったのだが、よく考えればあの状態で息があるはずもなかった。
仕方なく俺は玄関に向かって軽く手を合わせ、リビングへ戻る。
そして、
「あー……っと」
ようやく。
本来ここにいるはずのない人物へ声をかけた。
「雪。お前……」
「うん?」
そこにいたのは銀髪の凍りついた瞳の雪女――ではなく、いつもの雪だった。
それを見て俺も魔力の解放を止め、人間の姿へ戻る。
そうしながら問いかけた。
「……どうしてここがわかった?」
もしかして俺の動きに気づいて後をつけてきたのだろうか、と思ったが、そんなはずはない。
この場所が判明したのは神村さんの家で"同調"をやってからだし、そこからは車で移動している。
まさかそこからタクシーを拾って俺たちを追跡したわけじゃないだろうし、仮にそうだったとしても車の少ない時間帯だ。そんなことをすれば俺や神村さんが気づかないはずはない。
すると、雪が答える前に美矩が手を上げて言った。
「あ、それ。私が連絡しました」
「お前かよ!」
あまりにもあっけらかんと言われたので、怒るよりも先に突っ込んでしまった。
「あ、こっち向かないでくださいね。沙夜姉様、今セミヌードですから」
「うぉぅッ!?」
「あはは、思ったよりウブな反応ですね。今ので好感度が3ポイントほど上がりました」
「……誰の好感度だよ」
「もちろん私のです。ちなみに沙夜姉様はちゃんと前を隠しているので厳密にはヌードではありません。振り返っても大丈夫ですよ」
きっと背中に負った怪我の手当をしているのだろう。
それでも振り返る気にはなれなかった。
そこへ神村さんのたしなめるような声が聞こえてくる。
「美矩さん。茶化さずきちんと事情を説明してください。雪さんのことは私も聞いていません」
「……すみません」
美矩は少し殊勝な声になって説明を始めた。
「連絡したのは、相手が相手だけに、やはりおふたりだけではどうしても心配だったからです。相手の力が未知数でしたから、万が一があってはと思い保険を打たせてもらいました。……勝手にやったのはきっと反対されるだろうと思ったからです。ごめんなさい」
「……」
確かに作戦を練っている時点で美矩に提案されていれば、少なくともすんなりOKとは言わなかっただろう。
そして、雪が来なければこの戦いがどうなっていたかはわからないから、結果的にそれは正しい判断だったのかもしれない。
だから俺は美矩を責めるつもりはハナからなかった。
むしろ感謝してもいいぐらいなのかもしれない。
が。
そうはいっても、だったらいいか、と、軽く受け入れる気持ちにもなれなかった。
「美矩ちゃんは悪くないよ」
「わかってる」
雪の言葉にぶっきらぼうな言葉を返す。
美矩の行動が、神村さんの身を案じた結果であることはわかっていた。
ただ――
「……黙ってたこと、怒らないのか?」
俺は逆に雪にそう尋ねた。
てっきり秘密にしていたことを怒って、げんこつか平手打ちのひとつでも飛んでくるかと思ったのだ。
だが、雪はあっさりと首を横に振った。
「怒らないよ。……言ったでしょ。ユウちゃんの声、聞こえてるって」
そう言いながら近づいてくると、雪はそっと俺の頬に手を伸ばした。
チクリ、とした痛み。
気づかなかったが、どうやら飛び散った破片かなにかで頬を傷つけていたようだ。
顔をしかめていると、雪はポケットの中からばんそうこうを取り出して、
「どうして黙ってたのかも知ってる。だから怒らないよ。でも……」
ピタッとそれを頬に貼った。
「次も黙ってたら今度は怒る。ものすごく怒るから覚悟してね」
ぎゅっと、ばんそうこうを強く押し付けてくる。
「いてて……いてぇって、おい」
怒っていないと言いながら、俺を見上げる視線はやけに不満そうだった。
こいつがこんなにもわかりやすい表情をするのは珍しい。
俺はそんな雪から少し視線をそらし、心の中で言い訳をする。
(……仕方ねーだろ)
俺はもう、自分の無力のせいでこいつが命の危険にさらされる場面には遭遇したくないのだ。
だったらそもそもこんなことに首を突っ込まなければいいのだが、俺の性分と周りの状況はそれを許してくれそうにない。
だからせめて。
この件に関してはこいつを巻き込みたくないと、そう思っただけなのだ。
だが、そんな俺の言い訳さえもまるで雪には聞こえていたかのようだった。
「私だって……」
雪はパッと頬から手を離し。
そして俺の胸に右手をそえ、額を押し付けてきた。
「なにも知らないで朝起きて、ユウちゃんが2度と帰ってこなくなってるなんて。もしそんなことになってたら、なにも知らなかった自分を一生許せなくなっちゃうよ……」
「……」
胸の辺りから、雪の声が直接脳に響いてくる。
そこに熱のようなものが生まれて、かなしばりにあったように体が動かなくなった。
「だから次はちゃんと教えて。……だって私は怖くない。ユウちゃんが信じることのためだったら、戦うのが怖いなんて思わないよ」
「……」
雪のその主張は至極まっとうなもので。
俺が逆の立場だったら同じことを思うはずで――。
「……あー」
結局のところ、俺は自分が嫌な思いをしたくないという自分勝手な都合で動いてしまっていたということだろう。
こいつが足手まといになるというのならまだしも。
そうでないことは今の戦いを見ても明らかだ。
反論の余地はなかった。
「わかったよ」
すまん、と、続けようとしたが、その言葉は出てこなかった。
いつも余計なことまで悟るのだから、そのぐらいは察してくれ、と、俺はまた自分勝手なことばかり考えていて。
ただ。
「……うん。約束だよ」
それが伝わったかどうかはわからないが、雪は顔を上げてようやくいつもの微笑みを返してくれたのだった。
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「……というわけで、お前はまもなく無罪放免だ。いい友だちを持ったな」
朝日を逆光にしてたたずむその男を、楓は不審な目で見つめていた。
時刻は午前6時30分。
たった今聞かされた話がすべて正しいと仮定すると、戦いが始まったのは6時過ぎ。
終わったのが今から約10分ほど前のこと。
「まるで自分で見てきたかのような口ぶりだな、青刃」
「見てきたさ」
青刃は当然のようにそう言って笑った。
「妖魔相手にあのふたりだけで行かせられるはずがない。陰ながら見守ってきたよ。結局出番はなかったがね」
「俺の見張りを言いつけられているんじゃなかったのか?」
「たまのエスケープをフォローしてくれる友人ぐらいはいるさ。今回のことをアンフェアだと思ってるやつらも多少はいるしな」
事もなげに言い放った青刃に対し、楓はフンと鼻を鳴らす。
「紫喉の企みは今に始まったことじゃないし、俺もそれを知ってんだからアンフェアもクソもねぇだろ。頭の固い老人らしくひねりのないワンパターンばかりだけどな」
命拾いをしたのはむしろあのジジイのほうさ、と、楓が笑う。
青刃は入り口の壁に背中を預け、そんな楓を横目でチラッと見ると、
「しかし嬢ちゃんもここに来て頼もしい仲間を得たもんだな。兄貴のほうは未知数だがセンスは悪くない。鍛えて場数を踏めばもっと戦えるようになるだろうし、妹のほうは……」
少しだけ天井を見上げ、楽しそうに言った。
「あっちは完全に"お化け"だな。あの力、おそらく4人の女皇にも匹敵する」
「……なんだ?」
「ん? "4人の女皇"か? ……直近でこの御門を滅ぼしかけた悪魔たちのことさ。お前が産まれる前の話だから知らないのも無理はないか」
俺も直接は知らんしな、と、青刃は軽く両手を広げた。
「なんにしろあのふたり、今は実際より過小評価されているが、実態が知れれば紫喉のおっさんはますます警戒するだろう。今回の詳細が耳に入ればそうなるのも時間の問題だ。……さて、どうしたもんか」
そう言いながら、青刃はくるりときびすを返す。
「とはいえ、まあ……去年の雑魚悪魔どもと違って今回の相手は妖魔族だ。悪魔狩りとしては"善意の協力者"に感謝状のひとつも出してやらなきゃならんだろうな。それも光刃様直々に」
「白々しいな、青刃。最初からそのつもりだったんだろ?」
演技じみた青刃の物言いに、楓は不快そうにそう言った。
優希たちが中心となって妖魔を倒す。青刃はおそらくその事実が欲しかったのだ。
戦いの場にいた彼があえて手を出さなかった理由は、それ以外には考えられなかった。
だが、青刃はとぼけてみせる。
「そのつもり? なんのことだ?」
「……ふん」
優希たちが悪魔狩りの味方であると組織内に知らしめるには、なんらかの大きな実績を手みやげとしたほうが説得力がある。
今回の妖魔退治はその材料としてはおそらく打ってつけだったのだろう。
「そのやり方に不満はねぇが、それで紫喉が手を出しづらくなるとでも? だったら俺のこの状況はどう説明するつもりだ?」
「お前のそれは普段の素行のたまものじゃないか。あのふたりはお前ほどやんちゃではなさそうだし、まあ大丈夫だろう」
「どうだかな」
特に兄貴の方は、と、楓は軽く毒づいたが、青刃は気にした様子もなく、
「なんにせよ"俺たちの"戦力が増えるに越したことはないさ。こんな状況だからな。俺の仕事が少しでも減るなら悪魔だろうが犯罪者だろうが大歓迎だ」
そう言って青刃は去っていく。
ドアの向こうに消えていくその後ろ姿を最後まで見送って、楓は朝日の射し込む窓に目を向けた。
「……これで、あいつらも本格的に巻き込まれることになるか」
誰もいない部屋の中、独白する。
もちろん返事はない。
だが。
「……ああ、そうだな。あとで報告しておくさ」
楓はなにもない宙に向かってそうつぶやくと、まもなく来る解放の時間に備えて身支度を整えることにしたのだった。




