1年目3月「手がかり」
病院から由香を家まで送り、俺が帰宅したのは夜の7時すぎだった。
「ただいま」
「あ! お兄ちゃん、おかえりー」
もう夕食は始まっていたが、俺が顔を出すと歩はわざわざ箸を置いて駆け寄ってきた。
その後ろで雪が少し首をかしげながら、
「遅かったね? どこ行ってたの?」
「ああ、ちょっとな」
この様子を見る限り、鉄也おじさんのことはまだ聞かされていないようだ。
子犬のように意味もなくまとわり付いてくる歩を適当にあしらいながら、カバンをソファの上に放り投げて台所へ向かう。
冷蔵庫を開けると紙パックのオレンジジュースがあったので、コップに注いでリビングへと戻った。
「……なにかあったの?」
俺の態度に感じるものがあったのか、雪が少し表情を曇らせている。
「ああ」
隠すことでもないし、どうせすぐに知られることだ。
俺はその場で鉄也おじさんの怪我について話をした。
一同が揃って眉根を寄せる。
「その事件って、たぶん夕刊に載ってたやつね」
瑞希が席を立ち、電話台の下から今日の夕刊を持ってくる。
「ほら、これ」
テーブルに広げられた新聞の記事に目を落とす。
かなり大きな記事になっていた。
まず、隣町にある賃貸マンションの一室で4人の遺体が発見された、と書いてある。
部屋の借主は若い男性で、その借主と思われる男が捜査で訪れた刑事3人に怪我を負わせて逃走しており、現在警察がその行方を追っている、というような内容だった。
発見された遺体は男3に女1。
うちひとりはつい1ヶ月ほど前に行方不明になった30代の会社員男性と判明。
他の3人はまだ身元不明ながら年齢はバラバラで、死亡からかなり時間が経過しているものもあるという。
また部屋の中からは凶器らしき刃物が見つかっており、去年の夏頃にその近隣で起きた別の殺人事件と状況が酷似していることもあって、その関連性についても調べている、と書いてある。
負傷した刑事の名前は書かれていないが、発生場所は鉄也おじさんが入院している公立病院にかなり近く、おそらくはこの事件のことで間違いないだろう。
「その件で今日は部活も中止になったの。あんたが帰ってこないからみんな心配してたのよ」
「ああ、悪い。連絡しとけばよかったな」
新聞を元の場所に戻してテーブルにつくと、雪がすぐにご飯茶碗を持ってきてくれた。
(賃貸マンションの部屋に4人の遺体、しかも時間が経っているものもある、か)
かなり猟奇臭のする事件だが、この記事を見る限りだと悪魔の犯行と思わせる要素はない。
もし人間の仕業なら、いくら猟奇的であっても警察の仕事だ。
「瑞希。お前、部活はしばらく休みなのか?」
「ええ、たぶんね」
殺人犯が近くをうろついているかもしれないとなると、もちろんそうだろう。
俺はうなずいて、雪に視線を向ける。
「じゃあ、しばらくはふたりともちゃんと一緒に帰って来い。歩、お前は俺たちと一緒な」
いろいろと面倒なので歩がここに住んでいることは一部の人間にしか教えていないが、カムフラージュで別々に、なんて場合ではなさそうだ。
3人がそれぞれうなずいたのを見て、俺はハシを進める。
「そういえば、優希お兄ちゃん。さっき沙夜さんから電話あったよ」
と、歩が思い出したように言った。
「神村さんから?」
「うん。帰ったら連絡が欲しいって」
「……そっか。わかった」
このタイミングでの用件となるとひとつしかない。
俺はいったん手にしたハシを置いて、電話台へと向かった。
……いや。
「そういや制服のままだったな。ついでにちょっと着替えてくるわ」
「え?」
歩たちがきょとんとしているのを尻目に、俺はソファの上に放ったカバンを取り、リビングを出て階段を上がった。
もちろん聞かれたくない話になる可能性があったからだ。
階段の廊下に置いてある子機を持って自分の部屋へ入り鍵をかける。
(……あ、しまった。電話番号)
そこまで来て、神村さんの家の番号がわからないことに気づく。
歩が聞いているかもしれないと思ったが、あの場に戻ってまた不審な顔をされるのも面倒だったので、押入れにある中学の卒業アルバムを引きずり出してくることにした。
(3年のときは確か同じクラスだったよな……)
アルバムの最終ページには生徒たちの住所と電話番号が載っている。
載せるかどうかは任意なので載っていない可能性もあったが、幸い神村さんの家はちゃんと記載されていた。
番号をプッシュしてすぐにコールが鳴る。
1、2、3……
4回目の呼び出しの途中で繋がった。
「はい! 神村です!」
「あ、神村さ――ん?」
若い女性の声に俺は思わずそう呼びかけようとしたが、すぐにその相手が神村さんではないことに気付いた。
「もしもし? どちら様ですか?」
受話器の向こうから聞こえてくる声のトーンは明らかに神村さんとは別人だ。
彼女の家族だろうか、と、思い、
「あ、えっと、俺、神村さ――沙夜さんの同級生で不知火といいます」
「不知火さん? ……ああ、はいはい。不知火優希さんですね? 沙夜姉様に代わりますので少々お待ちくださいね」
軽い調子の声に続いて保留のメロディが流れ出した。
(……沙夜姉様? 神村さんの妹か?)
妹がいるなんて初耳だった。
俺は勝手に彼女のことをひとりっ子だと思い込んでいたのだ。
そして、それほど待たされることはなく。
「お電話代わりました。不知火さんですね?」
聞き慣れたトーンの声が受話器の向こうから聞こえてきた。
俺はその声にちょっと安心して、
「ああ、神村さん。……今電話に出たのって」
「妹の美矩さんです」
「ああ、やっぱ妹――って、妹にさん付け?」
「そんなことより不知火さん」
俺の疑問にはまったく取り合わず、神村さんは用件を切り出した。
「昼に不知火さんのおっしゃっていた事件、詳細がわかりました」
昼間言っていた事件、つまり先ほどまで下で話題になっていた事件のことだ。
神村さんは、楓の件と関係がある可能性は薄いと言っていたのだが、どうやらわざわざ調べなおしてくれたらしい。
「夕刊の記事はご覧になりましたか?」
「ああ。ついさっき」
「では、そこに載っていなかった情報を。不明だった3人のうちのふたりはすでに身元が判明しています。いずれも隣町の住人で、かねてより捜索願いが出されていた人です。先に身元が判明していたひとりと合わせてお互いの面識はないようです。死因は失血、あるいは出血性ショック死。凶器には鋭利な刃物のようなものが用いられていて、これは現場から発見されています」
神村さんは一呼吸置いて、
「なお、昼間にもお話ししたとおり、悪魔の力の痕跡はありませんでした。少なくとも犯人が殺害の際に悪魔の力を行使した事実はありません」
「……なるほど」
一気に聞かされた事柄をひとつひとつ噛み砕いて頭の中に吸収し、そして俺は言った。
「つまり猟奇的な事件ではあるが、悪魔が関わっている証拠はない、ということか」
「そうなります」
先ほど下で出たのと同じ結論ということになる。
俺は続けて質問した。
「この殺人事件と楓のえん罪のこと、神村さんはどう思う?」
すぐに返答があった。
「普通に考えれば無関係でしょう。私たちの仲間が殺されたとき、犯人は闇の力を行使しています。同一人物であれば、片方の事件で力をまったく使っていないのは不自然だと思います」
「4人の遺体が見つかったのは隣町のマンションだって書いてたけど、悪魔狩りの人たちが襲われたのとは別の場所か?」
「はい。現場は隣ではなくこちらの町。不知火さんのご自宅からもそれほど離れていない一軒家です」
それほど離れていない。
その言葉に背中が寒くなる。
「その犯人、基本的に悪魔の力は使わないことにしてるけど、悪魔狩りが相手だったから使わざるを得なかったって可能性は?」
「可能性そのものは否定しません。ただその可能性が、別人の犯行と考えることに比べて優位にあるとも思えません」
「まぁ、そうだよな……」
楓のえん罪。
鉄也おじさんの大怪我。
俺はただ、たまたま身近に同時に起こった事件だという理由で、無理やりそれらを関連づけようとしているだけかもしれない。
けど――
なぜだろうか。
神村さんの話を聞いても、俺はその可能性をどうしても捨て切れなかった。
……と。
神村さんはそんな俺の心中を受話器の向こうで察したのか、
「途中になりましたが、事件のお話、続けてもいいですか?」
「ん。まだあるのか?」
「死体が発見されたマンションと、発見されたときの状況についてです」
もちろん聞くことにした。
「今日の午前9時過ぎ、昨年の夏に起きた殺人事件の捜査で賃貸マンションを訪れた刑事が3人、何者かによって重傷を負わされました。その人物が部屋の借主で、なおかつ事件の犯人でもある可能性が高いと考えられています」
これについては、新聞にも載っていたことだ。
「意識のあった刑事のひとりが警察と救急車を呼び、駆けつけた警察が部屋に踏み込みました。4人の遺体が発見されたのはマンション3階の2LDK、リビングの他にふたつある部屋のうち東側の部屋で、備え付けのクローゼットの中から、鍵がかかる旅行用のトランクにビニール袋に詰め込まれた状態で発見されています」
「旅行用のトランク……?」
そんなところにビニール袋に入れた死体を詰め込んでいたというのか。
想像して、少し気分が悪くなった。
「部屋の中からは血の付いた刃渡り20センチほどの短刀が発見され、浴槽からはルミノール反応が出たそうです。ここが殺害現場となった可能性が高いとのことでした。……以上です」
「サンキュ、神村さん」
肩で小さく息を吐く。
結局その内容は事件の生々しさがより色濃く伝わってきただけで、もちろん悪魔が関わっているという事実が浮かんでくるようなものではなかった。
つまり、状況としてはなにひとつ。
「……いや」
その瞬間。
脳裏の奥にあった記憶が刺激される。
「神村さん……今の話って、正確か?」
「え?」
意表を突かれたような声。
俺は重ねて、
「正確な話なのか?」
「……はい。確かです」
神村さんの返事を聞きながら、俺はさらに記憶を掘り起こした。
マンションの3階。
クローゼット。
それは――いや。
これだけではまだ偶然かもしれない。
俺はいま神村さんから聞いた話と、俺の中にある記憶の風景とを照らし合わせながら質問した。
「神村さん。その事件があったマンションの部屋、上下左右に人が住んでいるかどうか確認できるか? それと……部屋の借主の年齢は? 馬券を買える歳か? 大学生だったりしないか?」
「不知火さん? なにを?」
戸惑う神村さんに、俺は答えた。
「その事件、もしかしたら悪魔の仕業だって証明できるかもしれない」
「……」
一瞬の沈黙の後、
「美矩さん」
受話器の向こうの声が遠くなって、神村さんが先ほどの妹――美矩とかいう子になにごとか頼んでいるのが聞こえてきた。
「不知火さん」
声が戻ってくる。
「もしそれが証明できるようであれば、そちらを優先的に当たることにしましょう。根拠を聞かせていただけますか?」
「わかった」
俺は自分の"同調"という能力のことと、いま聞いた事件と多くの共通点がある、今朝の気持ち悪い夢のことを話した。
「同調……ですか」
神村さんは少し驚いたような声だった。
悪魔狩りの彼女でも、俺のような突然変異種は珍しいのかもしれない。
「そういう能力が不知火さんにあるのなら確かに気になる符合です。……寝ている間に無意識に同調してしまうというのは有り得ることなのですか?」
「それはなんとも言えない。けど、起きてなきゃできないって理屈もないし、可能性としちゃ有り得ることだと思う」
「今までにそういった体験は?」
「それもわからん。あったとしてもただの夢だと思って忘れちまってるかもしれんし」
「……」
少しの間。
「同調は、悪魔の力を持っている相手でなければ不可能、なのですね?」
「ああ。それはたぶん間違いない」
「わかりました。タイミングからしても、その線を追ってみる価値は充分だと思います」
受話器の向こうで神村さんがうなずいたのがわかった。
「先ほどのいくつかの質問、2時間もあれば結果がわかります。その時間にまたこちらから連絡しても大丈夫ですか?」
時計を見る。
7時半。時間はまったく問題ないだろう。
ただ――
「ワンコールしてからいったん切ってくれ。こちらからかけ直す。神村さんから立て続けに電話があったなんてことになると不審がられそうだ」
「雪さんですか?」
「他のふたりもな」
「わかりました」
神村さんがそう言って電話は切れた。
……さて。
子機をベッドの上に放り投げて考える。
今の仮説が合っていたとして、それでもすべてが解決するわけじゃない。
事件の犯人は鉄也おじさんたちに重傷を負わせた後、姿をくらませている。
遠くへ逃げたか、近くで身を潜めているのか。
いずれにしても現在の居場所を突き止める必要があり、そしてその悪魔が闇の力を行使できると証明しなければ、楓の身柄が解放されることはない。
それを、どう実現するか。
昼間聞いた神村さんの話だと、悪魔狩りたちの助力はあまり期待できそうにない。
俺なんかに協力を求めてきたぐらいだから当然なのだが、紫喉とかいう組織の実力者が楓を犯人だと決め付けていて、別の犯人を捜すことには消極的らしいのだ。
限られた人数で、どこかへ逃げた犯人を捜し出す方法。
策はあった。
もう一度時計を見る。
今の時間は午後7時37分。
ただ、俺の網膜にはもうひとつの違う時間が焼きついていた。
午前4時42分。
夢の中の"俺"が見ていた時間だ。
(その時間に能力を解放すれば、あるいは……)
再び"同調"し、居場所のヒントをつかむことができるかもしれない。
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その日、日づけが変わる直前。
神社の奥の林のさらに奥。
そこにこの地を中心に活動する悪魔狩り"御門"の本部がある。
「光刃様」
緑刃はその建物の一室、当主である光刃の部屋を訪れていた。
「なにか?」
中からの返事を確認し、緑刃は部屋の前に立てひざをついてふすまを横に引いた。
そして小さく開いた隙間から顔をのぞかせる。
「まだお休みになられないのですか?」
部屋の中央には布団が敷いてあったが、中の人物はまだ普段着だった。
返事を待たずに緑刃は続ける。
「楓のことが気になっておられるのですか?」
「はい」
光刃は小さくうなずいてみせた。
「妖魔族が希少な存在である以上、紫喉様のおっしゃることも理解できなくはありません。ただ、彼が犯人だという直接的な証拠はひとつもないのです。……緑刃さんはどうお考えですか?」
その声には少し疲労の色が混じっているように思えた。
無理もない、と、緑刃は思う。
「私は光刃様と同じ考えです。青刃のやつもおそらく同じでしょう。ただ」
口を濁した。
「真相が明らかになるまで、ひとまずあいつの身柄を拘束した上で捜査を進めるというのは必ずしも誤ったやり方ではありません。末端の悪魔狩りたちはそれが我々上層部の総意だと信じているでしょうし、それを光刃様や私たちが表立って批判するのは求心力の低下を招き、組織を混乱させることに繋がります。……もちろん」
緑刃は少し口調を緩めて、
「光刃様はそれがわかっておられるからこそ、美矩を行かせ、あの少年の力を借りることにしたのでしょう?」
「……私には、紫喉様の意思にそむいて大勢の悪魔狩りたちを動かすだけの力はありません。あなたや青刃さんに助けていただかなければ、なにも」
「いえ、問題ないでしょう。あの少年とは2度ほど会っただけですが、よい顔をしていました。信頼に値する人物だと思います」
緑刃は、どこか理屈っぽい相方の青刃と違い、どちらかというと直感を信じるタイプだった。
彼女がそれで大きく失敗したことは今のところない。
「ただ、相手が妖魔族の端くれだとすると、こちらも戦力を整えなければ返り討ちにあう危険があります。あの少年と美矩だけでは力不足かと。私と青刃がお手伝いできればよいのですが、私は光刃様の身辺を離れるなと命じられておりますし、青刃は楓のそばに張り付いているように言われているそうですから……」
「その件で、緑刃さんにお願いしようと思っていました」
「は……?」
ふすまの奥から、光刃のまっすぐな瞳が緑刃をとらえていた。
「……なんでしょうか?」
少し嫌な予感がした。