1年目2月「バレンタインとこれから」
その日の俺は朝から憂鬱だった。
1年の中で嫌な日を5つ挙げろと言われれば、俺は間違いなくこの日をそのうちのひとつとして挙げることになるだろう。
2月14日、バレンタインデー。
改めて説明するまでもないと思うが、今日は何者かの陰謀に操られた女子たちが体裁を取りつくろうために大して好きでもない男どもにチョコレートを配って回り、それをもらった一部の男子たちがぬか喜びをしてしまうという、喜劇に彩られた聖人の殉教日である。
さて、そんなバレンタインデーであるが、俺は毎年必ず4つ以上のチョコをもらっている。
といっても、もちろん色気のある話などではなく、雪と由香、それに由香と直斗の母親である梓さんと桜さんからで計4つ。
義理チョコだとあえて言うまでもない、いわばお歳暮みたいな性質のチョコレートである。
それに加え、昨晩は歩が台所でなにやらゴソゴソやっていたようなので、今年はもう1個増えそうだ。
……憂鬱だ。
そう。
問題はそのチョコレートなのだ。
もともと俺は甘い物をあまり食べない。
嫌いというわけじゃないのだが、甘いのが口の中に残ってる状態がどうも苦手で、食べたあとは必ずしょっぱいものか、最低でも茶か水で口直しをしないと落ち着かない人間なのだ。
そしてこの、嫌いなわけじゃないってところが実は最大の問題だった。
いくらバレンタインデーとはいえ、食べられないやつのところにわざわざチョコを持ってくるやつはいないだろう。しかし俺の場合は別に嫌いでもないし食べられないわけでもないから、あいつらはやはりセオリーどおりにチョコを持ってくるのである。
それに加え、俺の周りには本命でもないチョコを配りたがるやつらが非常に多く、結果として、毎年俺のもとには致死量をはるかに越える量のチョコが集まってしまうわけだ。
と、まあ、そんなわけで。
「そういや今日はあいつの誕生日だな」
「そうだね」
ダム、ダム、という音が体育館に響き渡っている。
みぞおちの辺りから昼休みを待望する声が上がりつつあった4時間目。
体育の授業でバスケの試合の順番待ちをしながら、俺は隣の直斗と雑談をしていた。
「お前、プレゼントとかもう買ったのか?」
「うん。今朝のうちにもう渡したよ。優希はまだ?」
さも当然と言わんばかりの顔をする直斗。
そう。
前段のバレンタインとはまったく関係のない話で恐縮だが、本日2月14日は我らが幼なじみ、水月由香の16回目の誕生日なのである。
つまり、あいつは自分の誕生日にバレンタインのチョコを配って歩かなきゃならないというわけだ。
なんとも不憫というか、あいつらしいというか。
(プレゼント、どうすっかなぁ)
去年の誕生日は、俺がバレンタインにもらったチョコを全部綺麗にラッピングしてプレゼントしてみたのだが、全然喜んでもらえなかった。
というか、受け取りを拒否された上に、雪のヤツにこっぴどく叱られてしまった。
なかなか合理的で全員がハッピーになれる画期的な発想だと思ったのだが、あいつらには理解してもらえなかったようだ。
「あえて言うなら本人のチョコまで入れてしまったのがまずかったか」
「うん。そういうレベルの問題じゃないね」
キュッ、キュッ、というシューズの音が響く。
今日の体育は1組と2組の男子合同で行われていて、女子は教室で保健の授業を受けている。
授業は試合形式で、それぞれのクラスで3組ずつチームを作り、10点先取の勝ち抜き戦だ。
コートを2面使っているので回りはかなり速い。
俺と直斗は同じチームで、今は審判係だった。
ちなみに、
「あー。早く終われー。早く終われー」
と、得点ボードの裏でやる気なさそうにつぶいている将太も俺たちと同じチームである。
「あん? お前、球技は結構好きなんじゃなかったか?」
「そういう問題じゃねぇっつの」
将太はチッチッと人差し指を横に振ってみせて、
「お前、今日がなんの日かちゃんと心得てるか? 言ってみろ」
「お前の登下校時のテンションに1年でもっとも大きな差がある日だろ?」
「ぐっ、痛いところを」
将太は眉間に皺を寄せてなにやら苦しそうな顔をしたが、すぐに立ち直って、
「……これまでは確かにそうだった! しかし今年は違うぞ!」
「どう見ても、去年と違う要素がひとつも見当たらんのだが」
あえて言うなら高校生になったことぐらいだろうか。
「バカだなぁ、お前。いいか? 俺たちは今どこにいる?」
「体育館」
「だろ!?」
将太は勢いよく叫んで、ずいっと迫ってくる。
「女子は男子のいない教室で保健の授業だ! つまりこれは、机の中にチョコをこっそり入れておく絶好の機会!」
ぺっぺっと唾が飛んでくる。
「……うぜぇ」
「将太。赤にスリーポイント入ったよ」
「へ? お、おぅ、すまん」
直斗に言われて真面目に得点ボードをめくる将太。
そうしながら続けた。
「つまりだ。今年のこのシチュエーションは、これまで恥ずかしがってチョコを渡すことをためらっていた女の子たちにとって、またとないチャンスというわけだ」
「渡す気がそもそもなかった、に、1万円」
「くっ……これが勝者の余裕ってやつか。まぶしいぜ、くそったれが」
「勝者? なんだそりゃ?」
聞くと、将太は苦虫をかみつぶしたような顔をして、
「お前はどうせ、今年も由香ちゃんや雪ちゃんからもらえるんだろーが」
「あー? そりゃま、恒例行事っつーか。……なんだ? 羨ましいのか?」
「羨ましいに決まってんだろ!」
「100パー義理でもか?」
しかも片方は妹である。
「うっせぇ! 義理チョコすらもらえない男がこの世にはごまんといるんだよ、ちくしょう! バーカ、バーカぁ!」
子どものようにあっかんべーしている将太が、珍しく可哀相に思えてきてしまった。
そしてなにより哀れなのは、期待に胸をふくらませて教室に戻ったところで、結局は非情な現実に気づかされるだけというのが目に見えていることである。
「あー、なんだ、その……アレじゃないか? 由香のやつなら頼めばチョコくれるんじゃないか、きっと」
「おぉ! その手があったか!」
適当に言った俺の慰めに、将太はパッと顔を輝かせた。
どうやらこいつは、そこまでしてもらうチョコにもなんらかの価値を見出せているらしい。
それはそれで意外と幸せなことなのかもしれない。
そんなこんなで体育の授業が終わる。
「……直斗。お前ちょっと張り切りすぎだっつーの」
「なにごとにも手を抜かない主義だからね」
平気な顔でそう言ってのける、元バスケ部のエース。
あのあとすぐに順番が回ってきた俺たちのチームは、結局そこから授業が終了するまでずっと勝ち続けてしまったのだった。
運動不足の俺なんかは走りっぱなしでもうヘトヘトである。
「いやぁ、ホント、ずいぶん張り切ってくれたもんだねぇ。オイラもグロッキーだわ」
そう言ったのは、直斗とは逆隣を歩いていた男子生徒だった。
頭にバンダナを巻いたその背の高い男は仲田といって、俺と比較的仲のいいクラスメイトのひとりだ。
見た目は完全に不良っぽく、校則に違反した格好ばかりしているが、生活指導の先生以外にはあまり迷惑をかけることのない、まぁ見た目よりはいくらか気のいいやつである。
「つか、お前だって張り切って走り回ってたじゃねーか。お前、タバコの吸いすぎで体力落ちたとか言ってたくせに」
「あ、禁煙始めたんよ、俺」
ダボッとしたTシャツの裾を手と一緒にポケットに突っ込みながら、仲田は真面目な顔でそう言った。
「それ聞くの、今年に入ってから3度目だけどね」
直斗がそう突っ込むと、仲田はすまし顔で、
「3度目の正直って言葉があんでしょ」
「通算で10回は越えてると思うけど」
「相変わらず痛いとこ突くね、神薙は」
笑う。
「どうでもいいけど、あんま周りに迷惑かけんじゃねーぞ。お前のねーちゃん、こないだまた学校に謝りに来てたじゃねーか」
「あー、そっちの話はなしにしといてや」
そう言って仲田は困り顔をした。
こいつの家は父子家庭で、10歳以上離れた姉が母親代わりをしている。
俺が会ったときは温厚で優しそうな普通の女性に見えたのだが、仲田はどうやら頭が上がらないようだ。
「しっかし、まー、今日は藤井も谷も浮かれちゃってんね。ま、帰りにはガッカリしてんのが目に見えてっけど」
と、仲田の口からもバレンタインデーの話題が出た。
ちなみに谷はこいつとよく一緒にいるクラスメイトで、これに佐久間ってのを加えた3人でひとつの仲良しグループだ。
メンバーの役割的には俺、直斗、将太の3人と若干似ていて、谷ってのがいわゆる将太ポジションだと思ってくれれば間違いない。
「谷のやつはどうか知らんけど、将太のは毎年の恒例だからな」
「ご苦労なことだね、彼も」
「まったく」
実際、俺や仲田にとってのバレンタインはその程度のものだった。
俺の場合は特に由香の誕生日というイメージのほうが強いからなおさらだ。
「お、じゃあオイラはこのまま学食寄ってくわ」
と、仲田が教室に戻る生徒の列から離脱していく。
「おぅ。またあとでな」
「じゃあね」
俺と直斗は軽く手を上げてそのまま教室へと戻った。
一足先に教室に戻っていた将太が、自分の席でこの世の終わりみたいな顔をしてうなだれていたことは言うまでもない。
その日の放課後。
(……ったく。梓さんも相変わらずだな)
学校帰りに直斗に付き合ってもらって由香の誕生日プレゼントを買い、それを家まで渡しに行って、上がっていけとしきりに要求する梓さんをどうにかこうにか振り切り、直斗と別れて自宅へ戻ってきたときにはもう辺りは真っ暗になっていた。
家の門をくぐろうとしたところで2階のトイレの電球が切れ掛かっていたことを思い出したが、今からUターンして買いに行くのも面倒だったので、とりあえず後回しにしよう、と、玄関のドアを開ける。
「ただいまー……」
言いかけた、その瞬間だった。
「ハッピー、ばれんたいーんっ!」
「……うぉっ」
いきなり飛び込んできたソプラノの声に、俺はドアノブをつかんだままのけ反ってしまった。
「な……なんだ……?」
眼前にはヤケクソのように大量のハートマークがちりばめられたラッピングの箱が突きつけられていて、その陰からひょこっと、満面の笑みを浮かべた歩が顔を出す。
「びっくりした?」
「……別に」
実はかなり驚いたが、認めたくない。
「なーんだ、残念。じゃあ、はい」
ニコニコしながら改めてその箱を差し出してくる。
俺は眉をひそめて、
「なんだ、この不審物は」
「なにって、もちろんバレンタインのチョコレートだよー」
「チョコレート……爆弾?」
「どうしてそんな物騒なもの連想しちゃうのッ!?」
「いや、だって……なぁ」
一応、受け取ってみた。
「言っておくが、カカオ100パーセントに塩を混ぜても甘さは引き立たないぞ?」
「うぅ、心の傷をえぐるのはやめてください……」
胸の辺りを押さえて大げさに青い顔をしてみせる歩。
この反応を見る限り、中身は塩チョコレートではなさそうだ。
「ま、いいか。もらっとく。あんがとな、歩」
「いえいえ、どういたしましてー。あ、ちゃんと胃薬も一緒に入ってるから」
「……」
「わっ、冗談だよぅ! 捨てないで! 私を捨てないでー!」
箱を床に叩きつけようとした俺の右腕に必死にしがみついてくる。
と、そこへ、
「……なにやってんの、あんたたち」
部活帰りの瑞希が後ろから現れて、じゃれ合っている俺たちに呆れ顔をした。
「いや、なにって、これからこの爆弾の処理を……」
「ひどーい! 愛情込めて作ったのにー!」
「そんな予防線はいらん! 俺が欲しいのは生命の保障だ!」
「味の保障ですらないの!?」
ガクッとその場に膝をつく歩。
なんともノリのいいやつだ。
「あんたたち、ホント仲いいわね……」
そんな瑞希の言葉には明らかに皮肉が含まれていたが、歩は気にした様子もなく再び俺の右腕にぶら下がって、
「それはもう。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなのでー」
最近はもう毎日こんな感じのダッコちゃん状態で、ここのところますますスキンシップが強烈になってきた気がする。
瑞希が呆れ顔をするのもわからなくはない。
「ほら、わかったからそろそろ離れれ。このままじゃ靴も脱げん」
「はーい」
素直に手を離す歩。
そんな俺たちの話し声を聞きつけたのか、リビングのドアが開いて雪が顔を出した。
「どうしたの? あ、ふたりとも帰ってたんだ?」
「おぅ、いまさっきな」
「あら? この匂い……」
瑞希が靴を脱ぎながらリビングの中へと目を向ける。
台所からはなにやら甘い匂いが漂ってきていた。
「うん。今、ブラウニーを焼いてるの。クルミをたくさん入れて、ユウちゃん用に甘さ控えめでね。みんなの分もあるから晩ご飯の後に一緒に食べよ? 歩ちゃん。晩ご飯の支度手伝ってくれる?」
「はーい」
元気よく返事をした歩が、雪と一緒に台所のほうへと消えていく。
ふぅ、とため息をついて、俺は床に置いてあったカバンを手に取った。
「女が3人寄ればかしましいとかなんとか言うけど、あいつはひとりでも充分だな……」
「そうかしら。あの子があんなにはしゃぐのはあんたの前だけでしょ」
「あ?」
「ほら」
と、瑞希が目の前に小さなラッピングの箱を突きつけてくる。
「……へ?」
「バレンタイン。一緒に住んでるんだし一応ね。歩や雪ちゃんみたいな手作りじゃないけど」
「お……おぅ。サンキュな」
「どういたしまして」
瑞希は事もなげに階段を上っていく。
「……」
驚きすぎて、憎まれ口を叩くのも忘れてしまった。
ふたりにもらった箱を見比べつつ、少し遅れて階段を上がることにする。
部屋に戻って包みを開けてみると、歩のはひと口サイズのスポンジにチョコをかけたチョコケーキ。
瑞希のは市販のクッキーだった。
あえてチョコレートじゃないのはアイツらしい。
ベッドに転がって歩のチョコケーキをひとつ口の中に放り込む。
見た目はかなりいびつだったが、味はまともだった。
「60点。まだまだ成長の余地ありってとこかな」
ひとり言をつぶやいてミニコンポのリモコンを手に取る。
部屋の外からは、瑞希のものらしき階段を下りていく足音が聞こえてきた。
ミニコンポの電源を入れ、最近ずっと聞き続けている1枚目のディスクを選択する。
誕生日に雪に買ってもらったCDだ。
曲が流れてくるのと同時にベッドに仰向けになると、急に眠気が襲ってきた。
ゆっくりと目を閉じる。
……まぶたの裏に、ある少年の笑顔がよみがえった。
あれから半月。
歩は立ち直ったような素振りを見せている。
神村さんは最善を尽くした結果だと言った。
ただ。
(本当にそうなのか……)
俺の中にはモヤモヤしたものが残っていた。
なぜだろうと、そう考えて、すぐに答えが出る。
(……結局、俺ってなにも知らないんだよな)
俺が知っていることといえば血の暴走という現象そのものと、それを起こしたものが二度と元に戻らないということだけ。
それを起こす人間にどういった兆候が出るのかとか、どの段階から手遅れになるのかとか、これまでにどういったケースがあったのか、とか。
戦ってきてそれなりにわかっているつもりでいたが、実際にはほとんど知らないのと同じだった。
いや、血の暴走に関することだけじゃない。
悪魔のこと。悪魔狩りのこと。
神村さんや楓のこと。
いつかは確認しなきゃと思っていながら、日常生活に重心を置くことに固執して、結局先延ばしにしてしまった数々のこと。
そろそろ、このモラトリアムを抜けなきゃならない時期に来ているのかもしれない。
「……ふぅ」
大きく息を吐いて、ミニコンポの電源を切る。
階下から聞こえてくる楽しそうな家族たちの声。
夕食までは、あと30分といったところか。
どうしたものか。
ぼんやりとモヤのかかった頭でこれからのことを色々と考えながら、俺はゆっくりと夢の世界へと落ちていったのだった。