1年目1月「不運な事故」
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「きのうね。ゆめをみたんだ」
その日、いつもどおり学校の帰りに病院へ立ち寄った歩は、花瓶に水を汲みにいこうとしたところでベッドを振り返った。
「夢?」
そのときの真の表情にはいつもの笑顔はなく。
それが明るい夢でないことは簡単に予測できた。
ただ、どうやら本人は話したがっているようだ。
歩は花瓶を手に持ったまま、
「へぇ、どんな夢?」
「あのね。ぼくがマンガのしゅじんこうになるゆめなの」
「マンガの主人公?」
意外だな、と、歩は思った。
マンガやゲームの世界に入る夢というのは、この年ごろの少年としては珍しいものではないだろう。
ただ、多くの場合それは楽しい夢のはずだ。
「どんなマンガなの?」
「うん……あのね。ぼくがまほうで、わるい人をやっつけるの」
真の口から出てきた話は、小さい子どもなら誰でも一度は見そうな夢。
自分がヒーローになって悪人を倒す。
そんな夢のような夢。
「へぇ。真くん、すごいんだね」
歩はそんな真の話に相づちを打ちながら、頭の中では別のことを考えていた。
(……変。ちっとも楽しそうじゃない)
自分がヒーローになる夢を見たのなら、いつもの笑顔で話してくれてもいいはずなのに、と。
その違和感は、歩の心に不安を植えつけるには充分すぎた。
「あとね。おねえちゃんもでてくるの」
「私?」
動揺を悟られないように、明るく聞き返す歩。
「うん。でもおねえちゃんはおねえちゃんじゃなくて、おかあさんなの」
「……そ、そうなんだ」
お母さん。
その単語に、不安が広がっていく。
話題を変えたほうがいい、と、歩は直感的にそう悟っていた。
「そ、そうだ、真くん。明日は土曜日だから、またこないだのお兄ちゃんに来てもらおっか? 真くん、確かまた会いたいって――」
「だけど」
歩の言葉を遮るように真は言った。
いや、遮るつもりはなかったのかもしれない。
「だけど、おねえちゃんが」
「っ……!?」
聞こえていない。
まるで歩の言葉が届いていないかのようだった。
……脳裏にフラッシュバックする、真と出会った日の記憶。
「そのわるい人たちに、おねえちゃんが。おねえちゃんが――」
ポタッ、と。
布団の上に雫が落ちた。
「真くん!」
歩は手にしていた花瓶を乱暴に棚に戻し、ベッドに近づいて真の肩をつかむ。
「……」
瞳がゆっくりと動いた。
「おねえちゃん……?」
「真くん……」
反応を見せた真にホッとして、歩は肩をつかんでいた手の力を緩めた。
……その瞬間。
「ちがう、おかあ、さん……?」
「え? ……きゃっ!」
ビクン、と、真の体が震え、歩は驚いてその場に尻餅をつく。
「ま、まことくん――」
「おかあさん……おかあさんが――ッ!」
渦巻く。
「えっ……!?」
風。
(窓、開いてないのに……!?)
カーテンがゆっくりと踊っていた。
ゆるやかな風が、真を取り囲むように渦を巻いている。
「……ま、真くん! しっかりして!」
なにが起きたのかとっさに理解することはできなかったが、考えるよりも先に歩は動いていた。
立ち上がって真の肩をつかみ、力を込めて揺さぶる。
「真くん!」
「おかあさん……ッ! おかあさん!」
言葉が届いていない。
その様はまるで、初めて真を見たあの日と同じ――
……いや。
バタバタとカーテンが大きく揺れている。
それはあの日には見られなかった現象だった。
「おかあさん……おかあさんッ!」
まるでヒステリーを起こした子どものように同じ言葉を繰り返し、その声は徐々に大きくなっていく。
その叫びが大きくなるほど、病室に渦巻く風は強さを増していった。
やがて。
「!」
歩は驚きに目を見開いた。
真の髪の色がぼんやりと、薄緑に変色し始めていたのだ。
(これって確か……悪魔の……?)
薄緑色の髪。
大きく尖った耳。
真はいつの間にか、風の力を持つ悪魔の特徴をその身に備えつつあった。
(じゃあこれって、まさか……)
血の暴走。
悪魔や悪魔狩りにそれほど深く関わっていない歩ではあったが、その現象については聞いたことがあった。
「……真くんッ!」
ふいにあふれそうになった涙をこらえ、歩は力の限りに呼びかけた。
(だとしても、きっとまだ間に合う!)
真の体はまだ変化を始めたばかりだった。
彼を暴走へと駆り立てたのは、おそらくは昨晩見たという夢だろう。
それがきっかけとなって悲しみと怒りがよみがえったのだ。
(それを取り除いてあげられれば、きっと)
歩はそのための力持っていた。
今こそ、その力を役立てるときだと思った。
初めて会ったあの日のように。
(真くん、真くん……落ち着いて……)
肩をつかんだ手の平から、自分の思念を真の心に送り込む。
『……コロシテヤル……!』
「!」
憎しみの思念が逆流してきた。
真の体が、大きくけいれんする。
飲み込まれてしまいそうなほどに強烈な感情の波。
(……真くん、しっかり!)
激しさを増す風と、津波のような思念に逆らいながら。
歩は手の平に意識を集中し続けた。
真の発する風はすでに病室中を吹き荒れ、辺りは滅茶苦茶になっている。
騒ぎに気づいて誰かが駆けつけてくるのも時間の問題だろう。
だが、今の歩にそんなことを気にしている余裕はなかった。
(落ち着いて! お願いだから、落ち着いて!)
こみ上げてくる不安を胸のうちに閉じ込めて、祈るように思念を送り続けた。
心を落ち着かせ、そのイメージを送り込む。
それを何度も何度も繰り返すのだ。
風に飛ばされたメモ帳が頬をかすめても。
背後で床に落ちた花瓶が派手な音を立てて砕け散っても。
緊張の糸を切らすことなく続ける。
(飲み込まれたら……諦めたら、真くんは二度と戻ってこなくなる!)
それだけを強く自分に言い聞かせて。
(お願い! お願い――ッ!)
そして――
どのぐらいの時間が経っただろうか。
それは歩にとってはとてつもなく長い時間に思えたが、まだ誰も駆けつけてこないことを考えれば、実際にはほんの1~2分のことだろう。
『……』
一瞬だけ、真の放つ思念の波動が弱まった。
(……真くん!)
その機を逃さない。
歩は精一杯の力を振り絞って呼びかけた。
(真くん! しっかりして!)
『……あ』
歩の思念が届いたのか、波動がさらに弱くなった。
部屋の中を吹き荒れていた風が、少しずつその力を収めていく。
そして、
「……おねえちゃん……?」
真の口が動いた。
「真くん!」
実際に口に出して大声で呼びかけると、
「あ……あゆみ……おねえちゃん……」
焦点が定まる。
風が止む。
と同時に、真の体に出ていた悪魔の特徴も急激に消えていった。
「あゆみ……おねえ、ちゃん……?」
なにが起きたのかわからないといった様子で、真は不思議そうにしている。
どうやら発作はおさまったようだ。
「真、くん……よかったぁ……」
安心して急に体の力が抜け、歩は床の上に座りこんでしまった。
病室の外から足音が響いてきた。
騒ぎに気づいた看護師たちが駆けつけてきたようだ。
(大丈夫、だよね……)
幸いにして真の姿はもう元に戻っている。
あとは風で滅茶苦茶になってしまったこの状況の言いわけを考えるだけだ。
……と。
歩は後悔する。
気を抜いてしまったこと。
予想できたかもしれない"その事態"に対処することができなかったということに――
「お、おい、大丈夫か、君たち!」
病室のドアを開け、ひとりの男性が血相を変えて飛び込んできた。
「あ、ええっと、これはー……」
歩が言い訳をしようと振り返った、そのとき。
「……!」
ひときわ大きな波動が、歩の全身を貫いた。
「え……?」
そして歩は、瞬時にその正体を理解する。
『……オマエガ……オカアサンヲ――!』
「!」
それは、さっきまでの何倍もの大きさにふくれ上がった憎しみの思念。
その向かう先。
「おい、どうした! なにがあった!?」
騒ぎを聞きつけ、おそらくは真たちの身を心配して真っ先に飛び込んできたのは――
「だめ……」
真の母親をはねた車に乗っていた、あの青年。
「……だめぇぇぇぇ――ッ!」
いったいそれは、誰に向けて発した叫びだったのか。
次の瞬間。
爆音と衝撃が、病院の一角を襲った――。




