1年目1月「病室の少年」
冬休みも残り3日を残すのみとなっていた。
そのころになってもまだ正月ボケを引きずっていた俺は、11時過ぎにようやくパジャマを着替え、あくびをしながら階段を下りていった。
するとその途中、
「ん? おい、歩。どこ行くんだ?」
玄関で靴を履こうとしている歩に出くわした。
「あ、お兄ちゃん、おはよー。私はこれから病院だよー」
「病院? 具合でも悪いのか?」
そう言って歩の様子を観察してみたが、調子が悪そうな素振りはない。
「ううん。定期検査なの」
「定期検査? そんなのあったのか」
すると歩は不満そうに口を尖らせた。
「ここに来てすぐみんなに説明したよー? 月に2回あるからーって」
「ああ、そうか。わりぃ。ちゃんと聞いてなかったわ」
「ひどいなー、もう。……でも優希お兄ちゃんらしいかな、そういうとこ」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「褒めてないよー」
笑いながら、歩はトントンと履いた靴のつま先で床を蹴る。
「あ、そうだ。今日はちょっと遅くなるかもしれないから、雪お姉ちゃんに伝えておいて」
「あ? 雪のやついないのか?」
「お友だちと出かけたよ。帰りに買い物してくるって」
「ふーん。で、お前は何時ごろになりそうなんだ?」
歩は玄関の壁時計をちらっと見て、
「今からだと夕方過ぎとか、暗くなってからになっちゃうかも」
「定期検査でそんなにかかるのか?」
「うん。私もよくわかんないけど、私がいっつも貧血になったりするのは病気のせいなんだって。珍しい病気だって言ってたよ。……あ、で、でもそんな深刻なものじゃないって」
歩が俺の顔を見て慌てて付け足す。
どうやら表情の動きを見られていたようだ。
こいつに気を遣われるようじゃ、俺もまだまだである。
「別に心配はしてねーけどさ」
そう言いながらも、俺は念のためもう一度歩の様子を確認した。
(……大丈夫、だよな)
俺と会う前からそうだったが、こいつは変なところで虚勢を張ったり無茶をしたりすることが多い。
体が弱いくせに中身は辛抱強かったりするから、それが逆に厄介なのだ。
もちろん本人には無理をするなと言っているが、そういう性質ってのは急に直るものではない。
周りが注意して見てやる必要がある。
こいつと初めて会ってから約4ヶ月。
正直なところ、顔を見ただけで無理をしているかどうかを察するのはまだまだ難しいが、こいつの家族――保護者になると誓った以上は、そんな言い訳をしているわけにもいかない。
だから俺はこうして、他の人間の何倍も注意を向けるようにしているのだ。
一緒にいた時間の短さという不利を、少しでもカバーできるように。
俺は言った。
「あんまり遅くなるようだったら連絡しろよ。今日はずっと暇だし迎えに行くから」
「え? あ、いいよー。そんなに遠いわけじゃないし」
歩が遠慮するのは予想通りだったので、俺はすぐに言いなおした。
「よし、じゃあ命令だ。時間関係なく絶対に連絡すること。しなかったら罰ゲームってことで」
「えっ……じゃ、じゃあ7時過ぎたらということでー」
「4時だ」
「……うん。じゃあ終わったあとで電話するね。行ってきまーす」
「おー、気をつけてな」
そうして歩は小さく手を振りながら病院に出かけていった。
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(珍しい病気だなんて言ったから、また心配させちゃったのかなぁ……)
病院までのおよそ15分ほどの道をてくてくと歩きながら、歩は先ほどの優希とのやり取りを後悔していた。
優希が日ごろから自分を気にかけてくれているということは歩もよくわかっている。
そして、それ自体はもちろん嬉しいことだった。
ただ、そうやって守られてばかりいるのは歩の本意ではない。
(もっとしっかりしないとなあ……)
守られるだけじゃなく、自分も役に立ちたい。
なにか恩返しをしたいし、なるべくなら負担をかけたくない。
いつもそう思っていた。
だから歩は、なるべく優希を心配させないようにと多少の調子の悪さは我慢するようにしているのだ。
その食い違いが、むしろ悪循環となってしまっていることには気づかずに。
……そうして悶々としながらも、歩は病院に到着した。
まずはまっすぐに受付へ。
顔見知りの事務職員に挨拶して、受け取った体温計を脇に挟み、待合室の椅子に座って大人しく待つ。
ピピピ、と音がして、体温計を取り出して見ると平熱だった。
体温計を受付に返し、さらに15分ほど待つと名前を呼ばれて診察室へ向かうことになる。
「いらっしゃい。最近の調子はどう?」
担当の医者はいつも同じ、メガネをかけた30代半ばの女医だ。
見た目がどことなく学校の養護教諭と似ていて、歩はこの先生が結構好きだった。
「最近はずっと絶好調です」
歩がそう答えると、女医は優しげな笑みを浮かべていつもどおりの検査が始まった。
この"いつもどおり"が結構長い。
歩自身なにを調べられているのかわからないような機械で、頭の中身から足の爪先まであちこちを調べられるのだ。
その検査だけで3~4時間が経ち、ひと息ついたところで時計を見るとすでに午後4時近くになっていた。
(あちゃぁ……やっぱりかかっちゃった)
これからもう一度診察室に呼ばれ、おそらくは異常なしという説明を受け、薬を受け取るころには間違いなく午後4時を回っているだろう。
(……先に電話かけてこようかな)
出かける前の優希の言葉を思い出し、歩は椅子から腰を上げた。
呼ばれるまでにはおそらくまだ少し時間がある。迎えに来てもらうかどうかは別として、とりあえず連絡はしておかないと罰ゲームが怖い。
(電話、確かこっちにあったはず……)
病院の中を少し動き回る。
ただ、ようやく見つけた公衆電話には"故障中"の張り紙がしてあった。
(どうしよ。事務のお姉さんにお願いして……あ、そうだ)
歩はそこで、自分が一時期ここに入院していたときのことを思い出した。
さっそくエレベータへ向かい、入院病棟のある3階のボタンを押す。
降りてナースセンターのほうへ足を向けると、その入り口の近くに電話があった。
硬貨を入れて家の電話番号を押す。
「……はい。不知火です」
電話口から聞こえてきた声は瑞希のものだった。
心なしか不機嫌そうだ。
「あ、瑞希お姉ちゃん? 私、歩だよ」
「歩? あ、そうか。今病院なのね?」
と、瑞希の声色が元に戻る。
(……また優希さんとケンカしてたのかな)
その光景が即座に頭に浮かび、歩は思わず苦笑した。
電話のそばで優希が不機嫌そうにしているところまで容易に想像できる。
「優希お兄ちゃんいます? 病院が終わったら電話しろって」
「え? ……ああ、なるほど。わかった、じゃあ私が迎えに行くから」
「あ、うん」
電話の向こうでは、優希の抗議の声が上がっていた。
俺が行く、いいや私が行く、という言い合いの途中で電話が切れる。
(……これ、きっとふたりで来るパターンだなあ)
そんなことを考えると妙におかしくなってしまって、歩は笑いをこらえながら受話器を置いた。
あとは下で診察結果を聞いて、迎えを待つだけだ。
きびすを返し、エレベータへと向かう。
と、そのときだった。
『……ロ……ヤ――!』
(……えっ?)
突然、頭の中に誰かの声が響く。
……いや、正確に言うと"声"ではない。
それはイメージ。
歩が持つ精神感応力が、近くにいる誰かの強烈な思念を受信したのだ。
(なに、今の……?)
軽いめまいを覚え、歩は頭を押さえながら壁に手をついた。
そして辺りを見回す、が、特に変わったところはない。
だが、が、
『……ユルサナイ……ユルサナイ……!』
「っ……!」
今度はさらにはっきりしていた。
強烈な感情のイメージが断続的に流れ込み、怒りと憎しみの言葉に変換されて頭の中に反響する。
『ユルサナイ……コロシテヤルッ!』
「……やだッ! やめて!」
歩は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
と同時に、流れ込んでくる思念の通り道を意識的に遮断しようと試みる。
『……! ……!』
甲斐あって、イメージの輪郭はぼんやりと薄くなった。
が、それでもなお思念は流れ込んできている。
(……こんな強力な思念、いったい誰が)
歩はゆっくりとその場に立ち上がって、再び周囲を見回した。
確かに歩は生まれつきの精神感応能力者だが、力そのものはそれほど強いものではなく、基本的には相手と肌を合わせることでようやく発動するレベルだ。
にも関わらず、こうして感情のイメージが流れ込んできたということは、発信者の放つ思念が特別に強烈だということだろう。
(誰、だろう……)
気になった。
遮断したまま、それでもなお流れ込んでくる思念の元をたどる。
いくら強烈とはいえ、さすがに遠く離れているとは考えにくい。
つまり発信者はこの病院内、それもおそらくは近くにいるはずだった。
(……あれ)
やがて歩は、ナースセンターが慌しくなっていることに気づいた。
何人かの看護師たちがそこを出て、入院患者の病室へ向かっていくのが見える。
「……」
一瞬のためらい。
そして歩は看護師たちの後を追うことにした。
……怒りと憎しみに満ちた思念。
歩には、それが助けを求める叫び声のように感じられたのである。
『……! !!』
看護師たちの後を追っていくと、案の定、思念は強さを増していった。
確実に発生源に近付いている。
そして――
「え……?」
大きな金切り声が鼓膜に響いた。
今度は思念ではない。
看護師たちの向かった病室をのぞき込んで、歩はあぜんとした。
「……落ち着いて! 真くん!」
病室の中では数人の看護師たちがベッドの上で暴れる患者を押さえつけ、懸命に呼びかけている。
そして、
(子ども……?)
そんな看護師たちの中心にいたのは、男か女かすら判断に迷う年齢の子どもだった。
幼稚園児か、あるいはせいぜい小学1年生といったところだろう。
ただ、看護師たちが『真くん』と呼びかけているので、どうやら男の子らしいということがわかった。
(……こんな子が、あんな思念を?)
「うわぁぁぁぁッ!」
「!」
歩はその少年の叫びで我に返った。
そして迷わずに病室の中に飛び込んでいく。
「こら! 入ってきちゃダメ!」
途中で制止されたが、その看護師は歩の顔を見てすぐに目を見開いた。
「え? もしかして歩ちゃん?」
「婦長さん、ごめんなさい。私に話をさせてください」
歩はそう言ってぺこりと頭を下げる。
その看護師長は入院中に世話になった顔見知りで、歩の不思議な力を知っている数少ないひとりだった。
「やだッ! やだぁぁぁぁぁ――ッ!!」
少年は子どもとは思えないような力で、体を押さえつけるふたりの看護師を振り払おうとしている。
そんな少年の様子を見て、看護師長は一瞬ためらった後、
「わかったわ。歩ちゃん、お願い」
「はい」
彼女の決断に感謝して、歩はすぐに少年へと駆け寄った。
意識して遮断しているにも関わらず、歩の頭の中には立て続けに強烈な思念が流れ込んできている。
(取り込まれないように気をつけないと……)
歩はぐっとこぶしを握って気合を入れると、右手でその少年の首筋に触れた。
「ッ……!」
途端、濁流のような感情の波が歩を襲う。
揺さぶられた。
気を抜けば飲み込まれてしまいそうなほど強烈な思念だ。
(……落ち着いて)
歩はその波に飲まれぬよう、向こうからの思念を遮断しながら、逆に自分側の意識を少年に流し込んでいく。
まずは自分の心を落ち着ける。
その静かな感覚を相手に流し込み、優しく呼びかけるのだ。
(落ち着いて……落ち着いて……)
それを繰り返す。
少年の心の波が収まるまで、何度も、何度も。
……そうして、どのぐらいそれを続けていただろうか。
『……! ……』
少しずつ弱まっていく少年の思念。
と同時に、その口から漏れていた叫び声も徐々に小さくなっていった。
看護師たちは後ろで黙ってその様子を見守っている。
やがて――
「……大丈夫?」
歩の目の前には、ぽかんとした顔の少年がいた。
「あ……おねえちゃん……だれ……?」
少年は目尻に涙の跡を残したまま、不思議そうに見上げている。
先ほどまでの記憶がないのか、歩の存在に初めて気づいたという表情だった。
そんな少年に、歩はにっこりと微笑んでみせて、
「突然ごめんね。私、歩っていうの」
「あゆみ……おねえちゃん……?」
「うん。君は?」
「……ぼくは、えっと……まこと……」
「真くんだね。じゃあ真くん」
歩はサイドテーブルにあった手ぬぐいを取って、汗に濡れた少年の額を軽く拭ってあげた。
「なにがあったの? ね。なにかあったんなら私が聞くから。よかったら話してみて?」
「え……」
そんな歩の言葉に少年はきょとんとした顔をしていたが、やがて、
「うぐ……っ」
急にその顔を歪ませる。
「……おかあさん……。……おかあさんが――ッ!」
「お母さん?」
抱きついてきた少年の頭を撫でながら、歩は後ろで見守っている看護師たちを振り返った。
「……」
看護師長が黙ってうなずく。
(……そっか)
詳しい事情はわからなかったが、どうやらこの少年は母親を亡くしてしまったらしい。
(……可愛そうに)
この世の右も左もわからない年齢の少年にとって、突然母親を失ってしまった悲しみはいかほどのものか。それはかつて同じ境遇にあった歩には痛いほどに理解できたし、その深さは先ほどの思念の強さからも明らかで。
結局その日、歩は少年が泣き疲れて眠るまでずっとその頭を撫で続けていたのだった。
「……半月ぐらい前かしら。近くで死亡事故があったのを覚えてる?」
少年が眠った後、歩はナースセンターに招かれて看護師長から事情を聞いていた。
「あ、はい。みぞれの降ってた日ですね」
歩はうなずいて、出されたオレンジジュースのストローに口を付ける。
それは年末に隣町で起きた交通事故で、新聞の地方欄ではそこそこ大きな記事になっていたので歩はよく知っていた。
「確か歩道を歩いていた親子が車にはねられたんですよね。じゃあ真くんが、その?」
聞くと、看護師長は沈痛な面持ちになった。
「本当に運が悪かったの。車を運転してたのは免許取りたての若い男の子だったんだけど、中央線をはみ出してきた対向車を避けようとしたみたいでね。急ハンドルを切ったらスリップして歩道に乗り上げてしまって、そこをちょうどあの子とお母さんが歩いてたのよ。……あの子は幸いかすり傷程度で済んだんだけど、お母さんの方はまともにはね飛ばされちゃって、ここに運ばれてきたときは、もう」
「……じゃあ、目の前で?」
それで歩は納得する。
先ほどの思念は母親を失った悲しみより、誰かに対する憎しみにあふれていた。
つまり少年の怒りは、母親を奪った自動車の運転手に向けられたものだったのだろう。
(……でも、あんな小さな子があれだけの思念を出すなんて)
それについては少し疑問も残る。
少年の思念は、下手をすれば精神感応力を持たない人間にも影響を与えてしまいかねないほど強力だった。
「それにね。これもショックが強すぎたせいだと思うんだけど」
看護師長が付け加える。
「ああやって発作を起こしているとき以外、あの子、お母さんが死んだことを忘れているみたいなの」
「え……忘れてる?」
記憶障害、だろうか。
それとも――
眉を曇らせた歩に、看護師長はパッと口調を変えた。
「あ、なんか変な雰囲気になったわね、ごめんなさい。……さ、歩ちゃんもそろそろ帰りなさい。もう時間も遅いでしょ」
「え……あっ!」
歩はハッと立ち上がる。
時計は午後5時を回っていた。歩が家に電話したのが4時ちょうどぐらいだから、迎えがとっくに到着しているはずだ。
「あ、それじゃあ、ごちそうさまでした!」
空になったジュースのコップを置いて頭を下げ、歩は慌ててナースセンターを飛び出していく。
いや、飛び出す前に、
「……あ、婦長さん。あの男の子、昼間って面会できます?」
「え? ええ、できるけど……」
「じゃあ明日、また来ますからー」
歩はそう言って、改めてナースセンターを飛び出したのだった。