1年目8月「鬼の目にも」
真っ黒な波が海岸に押し寄せていた。
夜の海は不気味だ。
波打ち際に座り込んでこうして眺めていると、なにか見えない力が自分をその中に引きずり込もうとしているかのような、そんな錯覚を覚えてしまう。
こういうのを見ると、昔の人間が海に魔物が棲んでいると考えてしまったのもわかるような気がした。
「ふぅ……」
ため息ひとつ。
昔からたくさんの人間たちがこの海で漁をして、あるいはこの海を渡ろうとして、幾人もが引き込まれていったのだろう。まだまともな船も造れないような時代。この広い海に投げ出されてしまえば、ちっぽけな人間など助かろうはずもない。
あるいは俺が感じる見えない力は、そうして散っていった人間たちが自分を誘おうとする声なのかもしれなかった。
「瑞希……」
ポツリ、と、俺はその名をつぶやいた。
あいつはいったいどこに行ってしまったのだろう。
まさかこの暗い海に飲み込まれてしまったのだろうか。
俺は足元に転がっていた白い貝殻を手にとった。
……もしそうだったとしたなら。
それは、まだ経験の浅い瑞希をひとりで泳がせるようなことをした俺の責任だ。
「……瑞希」
胸を満たす無力感。
俺は悔しさに貝殻を力いっぱり握り締めた。
手のひらの痛みはほとんど気にならなかった。
頭に浮かぶのはただ、在りし日の瑞希の笑顔ばかり。
「すまない、瑞希……」
そして俺の目から一筋の涙がこぼれ落ち――
……ゴツンッ!!
「イテぇ!」
後頭部を襲った痛みが俺を現実に引き戻す。
「だ、誰だ!? 人がせっかく悲しみに浸っているとこに!」
「悲しみに浸るのは勝手よ。……でもね」
と、そこには。
怒りにこぶしを震わせる浴衣姿の瑞希がいた。
「人を勝手に死んだことにすんなッ!」
ゴキィ!
「超イテぇ!!」
首の骨からなにやら不吉な音がした。
「……ったく」
2発お見舞いして満足したのか瑞希が腰に手を当てる。
「なにが"在りし日の笑顔"よ。あんたに見せる笑顔なんてこれっぽっちもないっての」
迫る瑞希の顔。
俺は視線を泳がせて、
「い、いや、だってお前、泳ぎを覚えたばかりのやつが調子こいてひとりで泳いでて帰ってこなかったっていったら、そりゃあもう海の魔物に魅入られてしまったというのが定番で――いや、ごめんなさい。俺が悪かったです」
人を殺せそうな瑞希の視線に、俺は自分の非を認めざるを得なかった。
それで瑞希はようやく俺から離れる。
「海を見てボーっとしてるからどうしたのかと思って来てみれば……まったく」
と、ブツブツ言いながら去っていく。
俺はそんな瑞希の後ろ姿を見送りながら腕時計を見た。
時間は夜の9時半。
……あの戦いの後、10分ほどして姿を見せた楓にふたりの夜魔を引き渡した俺は、楓の口から瑞希が無事だったことを聞くと、すぐにみんなの待つ旅館へと戻った。
俺が旅館に着いたのが8時半を少し回った頃。
楓の言葉どおり瑞希もすでに旅館に戻っていたが、あいつは自分がどういう状況だったのかをみんなには話さなかったらしい。
みんなはそれこそ瑞希が溺れたんじゃないかと心配していたようだが、直後に俺が旅館に戻ると、今度は"ふたりで抜け出してどこかに行っていたんじゃないか"なんてあらぬ(ありえない)疑いをかけられることになってしまった。
まあ、そこは俺たちを探しに外に出ていた雪と直斗がタイミングよく戻ってきてくれて、ひとまず曖昧なままに誤魔化すことができたのだが。
それで、ひとまず事件は一件落着。
(……とはいえ)
晴れ晴れという気分にはほど遠かった。
瑞希が狙われたという事実が、俺の胸に暗い影を落としていたのだ。
俺と雪が力に目覚め、暴走した悪魔たちを退治するようになって1年余り。今年の春まではずっと、"日常"と"非日常"の境界ははっきりとしていた。
昼間は他の連中となにも変わらないただの学生として気兼ねなく過ごすことができていたし、夜になって暴走悪魔を退治するときも、雪以外の周りの人間を気にかける必要はなかった。
今回の件がたまたまなら、それはそれでいい。
しかし――ついに"非日常"が"日常"側へと手をかけつつある。
そんな悪い予感がしてならなかったのだ。
「ユウちゃん」
いつの間にか雪がすぐ後ろまで来ていた。
「ん」
なんの用だ、という意味の擬音を返すと、雪はそっと俺の両肩に手を置いて言った。
「お疲れ様、ユウちゃん」
「なんだ突然?」
「よくわからないけど、瑞希ちゃんのピンチを助けてくれたんだよね?」
「……まーな」
非日常側を知っているこいつなら想像できて当然か。
ただ、雪はそれ以上詳しいことを聞こうとはせず、両手に持ったものを俺の眼前にぶら下げてみせた。
「そろそろ準備できるよ? 花火、やろ?」
「ああ……」
今日の午後は色々あってバタバタしてしまったが、明日の午前中にはここを経つことになる。
事実上、今夜が最後だ。
「そうだな。やるか」
気持ちはすっきりしないままだったが、瑞希は怪我ひとつなかったようだし、事件はひとまず解決したのだ。
少しの間は懸念を忘れて楽しむのもいいだろう。
「お~い。おせ~ぞ!」
雪と並んでみんなの待つところへ向かうと、すでに手持ちの連発花火をいくつか抱えた将太が手を振っていた。
「おそ~い!」
藍原も将太に便乗して俺を非難する。
その少し後ろには瑞希と直斗もいて、どこで調達したのか雪をはじめとする女性陣はみんな浴衣姿だった。
「不知火、どう、どう? あたしの浴衣、可愛くない?」
と、デフォルメされた猫の柄の浴衣を着た藍原がくるっとターンしてみせる。
俺は言った。
「ああ。浴衣は可愛いな」
「よっしゃー! ……って、あれ? なんか意味合いちがくない?」
「気にすんな。ってか、なんで浴衣? 海で浴衣って違和感ないか?」
「なにを言う!」
俺のつぶやきに将太が即座に反応する。
「夏といえば花火! 花火といえば浴衣! これが定番だ! ちなみに浴衣はすべて俺が借りてきた! 自腹でな!」
「あ、そ」
すげぇどうでもいい。
「じゃあ、そろそろ始めようか」
相変わらずマイペースな直斗の一言でプチ花火大会が始まった。
最初は地面に置いて火をつけるタイプの花火。
光の玉が打ちあがるものや、色とりどりの火花が噴水のようにあふれ出してくるもの。
正直見慣れた花火ばかりなのだが、場所が違うと意外に新鮮な気持ちで楽しめる。
それらが光を発するたび、海や砂浜、そしてみんなの顔の輪郭が色とりどりに浮かび上がった。
置くタイプの花火がなくなると、今度はそれぞれが手に持つタイプの花火へと移行する。
「砂浜でねずみ花火はあんま面白くねーなー……」
砂で身動きが取れず、その場で火花を噴射するだけの哀れなねずみ花火を見下ろしながら、俺は改めてみんなを見回した。
「花火はいいねぇ。なんか青春って感じ。あれ、雪ちゃんはやんないの?」
「うん。私はこうやって見てるだけのほうが好きかな」
「ほほぅ。だったらあたしが雪ちゃんの分まで頑張っちゃうかねー」
と、藍原と雪は少し離れたところで遊んでいる。
視線を少し横に移動させると、直斗がバケツに海水を汲んできて終わった花火を片付けているところだった。
さらに視線を移動させると、
「ショルダーバズーカー発射ぁぁぁぁぁぁッ!! ふははははは!! 見たか、この火力! 貴様らごとき虫けらも同然よッ!!」
「……」
連発花火を手に、海に向かって恥ずかしい小芝居をしている可哀想な男がひとり。
昼間、女の子にフラれすぎておかしくなったか。
そして――
「優希」
「ん?」
「ちょっと隣、いい?」
そう言って俺の隣を指差す瑞希。
俺は答えた。
「ダメに決まってんだろ」
「……そう」
「こら、待て」
あっさり立ち去ろうとした瑞希を俺は慌てて引きとめた。
瑞希は不思議そうに振り返って、
「なに?」
「なに、じゃねぇだろ。どういう反応だ、それは」
「?」
「だからさ。あっさり引き下がられると俺が寒いだろうが」
瑞希は少し考えて、
「ああ。冗談だったってこと?」
「……」
なんだろうか、このいたたまれない気持ち。
俺は照れ隠しにそっぽを向いた。
「つか、なんだよ。らしくねぇな。さっきだって人の頭ポカポカ殴りやがったくせに」
「あれはあんたが変な小芝居やってるからでしょ。……そんなことより、ねぇ」
瑞希が俺の隣に屈み込む。
ふわっと長い髪がなびいて、潮風にシャンプーの香りが混ざった。
「優希。あなた、私がいない間どこに行ってたの?」
「……」
無言のまま横目で瑞希の顔を窺うと、真剣な目で俺を見つめていた。
予想していた質問ではある。
あのふたりの夜魔がどこまでのことを瑞希にしゃべったのかはわからないが、この様子だと俺の正体とか、悪魔のこととか、そういったことまでは聞かされていないようだ。
ただ、自分がいなくなっていた時間に俺も姿を消していたことは藍原から聞かされたらしいから、自分がさらわれたことについてなにか知っているんじゃないかと、そう疑っているのだろう。
もちろん本当の話はできない。
それに瑞希は自分がさらわれたこと自体をみんなに隠している。
なら、俺はその設定で答えるしかないだろう。
「さぁな。お前と同じで、ちょっと秘密の逃避行さ」
「……」
疑い。
戸惑い。
それらの感情が行き交って、瑞希の視線はようやく俺を離れた。
俺は安心して、ホッと息を吐く。
――直後。
「ありがと、優希」
「……へ?」
そっと頭を抱きしめられる。
シャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐった。
思わず硬直して横目で瑞希を見ると、瑞希はすぐに俺から離れた。
「……なんの礼だよ。覚えがねーぞ」
戸惑いながらそう言うと、瑞希は静かに微笑んで答える。
「昼間泳ぎを教えてくれたお礼かしら。一応ね」
「……気持ちわりぃな。なにか企んでるじゃねぇのか?」
微妙に動揺していることを悟られないように悪態をつくと、瑞希は小さく笑った。
「たまの感謝ぐらいありがたく受け取っておけばいいじゃない。普段から適当でグータラなあんたが、それなりに真面目に私のために働いてくれたんだから」
「……おい。素直に喜べねーぞ」
「あら。精一杯褒めてあげたのに」
瑞希は平然と言う。
真意が読めない。
まさか真相に気付いたということはないだろう。とすると、カマでもかけているのか。それとも俗に言う女のカンってやつなのか。
いずれにしても――
「線香花火持ってきたわ。一緒にやらない?」
「……ま、いいけどよ。たまにはな」
確証はないはずなのだ。
であれば、余計なことを口にする必要はないし、珍しく良さそうな彼女の機嫌をあえて害する必要もないだろう。
「はい。ひとつずつよ」
瑞希の手から線香花火を受け取ると、近くにあったろうそくでその先端に火を灯す。
先っぽがくるくると丸まって火玉になると、パチッ、パチッ……と小さな音を立て始めた。
最初のひとつは風に揺れてすぐに落ちてしまった。
ふたつ目は長持ちしすぎて、火玉が落ちることなくそのまま消えてしまった。
「最近の線香花火って、このパターン多いよなぁ」
昔の線香花火は、最後は必ず火玉が落ちて終了だった気がするのだが。
みっつ目。
今度は2本の線香花火を束ねて火をつけることにした。
瑞希がポツリとつぶやく。
「いつ以来かしらね。あんたと一緒に花火なんて」
「あー……」
俺は記憶を掘り起こしながら、
「10年ぐらい前じゃないか?」
記憶にはないが、おそらくは幼稚園か小学校低学年か、そんなもんだろう。
瑞希がウチに頻繁に出入りしていたのはちょうどそのころで、ほぼすべてのイベントに一緒に参加していたような記憶がある。
花火も何回かは一緒にやっているはずだ。
「……」
瑞希はなにも言わずに線香花火の火玉を見つめている。
細い明かりに照らされた彼女の横顔はどこか嬉しそうな笑顔で、俺はなんとなしにそれを見つめ、そして改めて、無事でよかった――と、胸を撫で下ろしたのであった。
と、そのとき、である。
「爆発しろぉぉぉぉぉッ!!」
「!?」
叫び声とともに響いた破裂音。
同時に光の玉が俺の足下に突き刺さった。
「な、なんだッ!?」
慌てて後ろに下がると、ポンッ、という乾いた音を立ててさらにもう一撃、俺のいたところに光の玉が突き刺さる。
「……花火?」
見ると、少し離れたところで将太が連発花火を両手に立っていた。
「ちょ、てめ! 危ねえだろ!」
抗議すると、将太は手にした花火をブンブンと振り回して、
「うるせぇ! 女の子と膝突き合わせて線香花火とかどこのラブコメ主人公だ! 貴様のような男はこの俺が成敗してくれるッ!!」
意味不明なことを叫びながら将太がにじり寄ってくる。
手には4本の連発花火。しかもそのうちのひとつは15連発だ。
「げ……」
こちらの武器は線香花火のみ。これでは勝負にならない。
「うははははッ! 圧倒的火力差だな、優希! 貴様に逃げ場はないぞ!」
勝ち誇った将太が手にしたライターで連発花火に火を付ける。
「く……ま、待て! このままじゃ瑞希も巻き添えになるぞ!」
「心配ないわ。もう離れてるから」
「え!?」
ああ、無情なるかな。
危機を察した瑞希は将太を止めるどころか、自分だけいち早く雪たちのところへ避難しているではないか。
「やれ~!」
無責任なかけ声は藍原だ。
「将太。危ないからほどほどにね」
なんて、相変わらず冷静な直斗。
ふたり揃ってどついてやろうかと思ったが、距離的に不可能だった。
「待て、将太! それはシャレにならんって!」
「問答無用! 死ねぇ!」
シュルシュル……と、音を立て、火が導火線を駆け登っていく。
そして筒の先は俺へ向けられていた。
「!」
俺は体を庇うようにして反射的に屈み込む。
シュルシュル……シュルシュル……
「……」
「……」
そして――静寂。
想像していた音も光もなく。
「あ、あれ?」
最初に声を発したのは将太だ。
導火線はとっくに花火の本体に達している。やがて不発らしいことに気付き、将太は手にした筒をのぞき込もうとした。
「あ、危ない……!」
そう言ったのは雪だったろうか。
……その後、どういう結末が訪れたかはほぼご想像のとおり。
一応人を呼ぶには至らなかった、ということだけ言っておこう。
そうして、俺たちの賑やかな2泊3日の海水浴は幕を閉じたのである。
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神社の奥。うっそうと生い茂る森の中。
ひっそりとたたずむ和式の小さな建物からは小さな灯りがこぼれていた。
「そうか。結局5匹ともダメだったか」
ろうそくの明かりが揺らめく。
部屋の中央には男が座っていた。白い法衣に身を包み、年のころは50歳前後といったところだろうか。
「紫喉様」
その初老の男の前には若い青年がひとりかしこまっていた。
「こうなっては仕方ありません。多少の犠牲は覚悟の上で、我々が自らの手で楓とその一味を――」
「バカを言うな」
紫喉が厳しく青年を叱責する。
「楓を討ち取るのにどれだけの人員が必要だ? 10人か? 20人か? しかもヤツには仲間がいる。少なくとも上級氷魔が1匹。実力は不明だが2匹の中級夜魔を退けた炎魔が1匹。それだけではない」
こけた頬の奥から鋭い眼光が青年の体を射抜く。
「組織の中にもまだ、あの連中に肩入れしようとする輩が残っているのだ。そこまで表立った行動は自らの首を絞めると気づかんのか」
「……申し訳ありません」
青年は肩を落とし、そしておずおずと質問する。
「光刃様はなんとおっしゃっておられましたか……?」
「もちろん光刃様はこの紫喉の考えを理解してくださっている。だが、ヤツはまだ表向き我々の協力者という立場だ。今のままでは全力を挙げて討つことはできん」
「……では、どうしたら」
青年が悔しそうに唇をかむのを見て、紫喉はわずかに表情を緩めた。
「急ぐことはない。今回のこととてヤツの仲間をあぶり出すための探りにすぎん。次の機会が訪れるまではしばし様子を見るとしようじゃないか。……ただし楓と、そして――不知火雪に、優希、だったか。連中の監視は怠らぬようにな」
「かしこまりました」
ろうそくの炎が揺れて――まばたきを終えたとき、青年の姿はそこから消えていた。
「……」
静寂。
虫の声。
紫喉はゆっくりと目を閉じた。
「……いまいましい」
つぶやく。
「悪魔どもの力など借りずとも、我々は十分に役目を果たせる。二翼が欠けようとも、我らは――」
見上げた紫喉のその瞳には、黒い炎が宿っていた。