1年目8月「弱者の戦略」
「……来たか」
俺が足を踏み入れた倉庫の中にはわずかな明かりが灯っていた。
中には見覚えのある男がふたり。
「お前ら、昨日の……」
そこにいたのは、雪と瑞希をナンパしていた大学生風の男たちだった。
一歩だけ足を踏み入れたところで、まずは罠を警戒して慎重に倉庫の中を見回す。
広さは学校の体育館ぐらいだろうか。隅っこのほうにポツンと木箱が積まれている以外はなにもない。
鼻をつくのは染み付いた魚介類の匂いだ。
後ろ手にゆっくりと扉を閉める。
「瑞希はどこにいる?」
少し声を張り上げて中央にいるふたりに問いかけた。
「ここにはいない。が、心配するな。危害は加えていないし、いずれ解放されるだろう」
答えたのは眼鏡の男だった。
それが本当かどうかを確かめる術はない。が、今はそれを問い詰めても仕方ないだろう。
俺はもう一度倉庫の隅の木箱に視線を向けた。
大人が隠れるには少し小さい。
とすると、敵は目の前にいるふたりだけと考えてよさそうだ。
「で、俺になんの用だ? ナンパの邪魔をした仕返しでもしようってのか?」
とりあえず軽い口調で探りを入れてみる。
"眼鏡"は鼻で笑った。
「俺たちが普通の人間で、お前も普通の人間だったらあり得なくもない話だな。それぐらいイイ女だった」
「眼科に行くことをオススメするぜ。いや、どっちかっつーと精神科のほうかな」
軽口を返す。
しかしこれではっきりした。このふたりは俺が普通の人間でないことを知っていて、そして向こうも普通の人間ではない。
つまり悪魔。
おそらくは神村さんが忠告してくれた脱走した悪魔たちの一部だろう。
「おい、おしゃべりはいいだろ。さっさとやっちまおうぜ」
と、もう片方の短髪男がそう言った。
「俺を呼び出した理由は?」
「聞く必要はねぇさ」
"短髪"が好戦的な笑みを浮かべてじりっと歩み寄ってくる。
「どうせすぐに考える必要もなくなるんだからよ!」
「!?」
男たちの風貌が変わっていく。
瞳が深紅に染まり、耳が大きく尖った。
周囲の空気がざわめく。
(……夜魔か)
空間を操る力を持つ夜の一族。
その名のとおり、日が沈んだ後の時間帯にもっとも力を発揮する種類の悪魔だ。
そして"短髪"の目が赤く光った。
「ちっ……!」
とっさに飛びのくと、俺が立っていた足元のコンクリートが派手に砕けた。
「……お返しだッ!」
俺の手に生まれた炎の塊が"短髪"に向かって飛ぶ。
「ふん……!」
"短髪"が床を蹴って回避する。
と、同時にその目が再び赤く光った。
「ッ!」
避ける。今度は鉄製の倉庫の壁が大きくへこんだ。
衝撃波。
空間を歪めて放つ、夜魔がもっとも得意とする攻撃方法だ。
特徴としては威力が高く、速度は遅い。
目が赤く光るので打ってくるタイミングはわかるが、無色透明の力は凝視するとようやく空間の歪みが見える程度で目視するのが難しく、戦うときには相手の目の動きをしっかりと追う必要がある。
そしてそのセオリーから言うと、俺の今の状況はあまり歓迎すべきものではなかった。
「……!?」
左側面から感じた悪寒に、迷わず身を伏せる。
ゴォッ……と、音がして、頭の上を"なにか"が通り過ぎ、少し間があって倉庫の隅にあった木箱が砕け散った。
「避けたか。いい勘をしているな」
「ちっ……」
眼鏡の奥の赤い瞳。
もうひとりの男もその身を夜魔のものに変貌させていた。
(まずいな……)
複数の夜魔と戦うのは賢いことではない。
残念なことに俺の目は顔の正面にしか備わっておらず、ふたり分の目の動きを完全に追うことは不可能だからだ。
加えて運の悪いことに――
「いいのか、その姿のままで」
"眼鏡"がそう言った。
その姿のままというのは、俺が悪魔本来の姿を見せていないことを言っているのだ。
「……お前ら相手にゃ勿体ないからな」
その強がりはこの状況ではかなり空しく聞こえただろう。
俺が悪魔の姿にならないのは、別に誰かに見られたら困るとかそういう理由ではない。
単純にできなかったのだ。
運の悪いことに、先ほど日が変わって俺は絶不調になっていた。
悪魔の姿に戻ることもできないほど。割合にすれば1割未満。
先ほど"短髪"に放った、牽制のような小さな炎の塊が今の全力である。
(どうしたもんかな……)
もちろん俺だってバカじゃない。自分の力の特性は理解しているし、こういうときのために一応準備はしてある。
ここに来る前には神村さんを通して楓に連絡を取り協力を依頼していた。
ただ、この他に仲間がいる可能性を考えて、楓には瑞希の身の確保を最優先してもらうことにしている。瑞希が別の場所に監禁されているとすると、すぐに助けが来ることは期待はしないほうがいいだろう。
ここは自分だけの力でなんとかしなければならない。
となると――
(やるしかない、か……)
右手に力を込めると、こぶしが炎に包まれた。
炎の力と違い、身体能力は調子による影響が小さい。悪魔の姿になったときに比べると能力は落ちるが、人間の姿での最高の動きはいつでも出すことができる。
とすると、肉弾戦かつ短期決戦が最良の選択だろう。
「行くぞッ!」
床を蹴って突進する。
男たちは牽制に衝撃波を放ち、俺の死角を取ろうと左右に分かれた。
俺は横にステップして衝撃波をやり過ごすと、右に動いてまずは"短髪"を追った。
理由は簡単。
先ほどの攻撃を比べて、"短髪"のほうが"眼鏡"よりも衝撃波の力が強かったからだ。
「っ……速い!?」
"短髪"が驚きの声を発する。
どうやら人間の姿でも身体能力のベースはこっちが上のようだ。
再び放たれた衝撃波をやはり横へのワンステップで避け、一気に"短髪"へと肉薄する。
「はぁ……ッ!」
炎をまとった右こぶしを"短髪"に叩き込む。
「くっ!」
"短髪"は足を止め、ガードの姿勢を取った。
だが、
「っ……!?」
再び側面から迫ってくる悪寒。
俺の足は反射的にブレーキを踏み、バックステップした。
直後、眼前を衝撃波の歪みが通過していく。
「……ちっ」
舌打ちして"眼鏡"をにらみつけた。
(……まともにいくとやっぱ厳しいな)
"眼鏡"が攻撃しづらくなるよう、なるべく自分と"短髪"が射線上に並ぶように動いたつもりだったが、気配だけで"眼鏡"の動きを探って位置を調整するのは無理がある。
「……わりぃ。こいつ、案外いい動きしやがる」
「油断するな。楓のヤツほどじゃないが、連中が危険視するぐらいだ。甘い相手じゃない」
男たちは俺を挟み込むようにして体勢を整えた。
(……連携も悪くない。きついな)
ふたりで戦うことに慣れているようだし、当然自分たち夜魔の特性もよく理解している。
これだと隙を突くのも簡単じゃない。
とにかくひとり。
どうにかして戦闘不能にできれば――
俺はチラッと倉庫の中央を見た。
倉庫の天井にはそれこそ学校の体育館のような照明が備わっていたが、今は電気自体が通っていないのか明かりは点いておらず、倉庫内を照らしているのは中央にぶら下げられたランプだけだ。
(一か八か、やってみるか)
俺は後ずさるようにして中央へ移動する。
そうしながら言った。
「なぁ。お前らって夜魔だよな? 夜の一族ってのはやっぱアレか? 夜目も効くもんなのか?」
「なんの話だ?」
男たちは俺の突然の問いかけに怪訝そうな顔をした。
俺は続ける。
「俺はどっちかっつーと鳥目なんだ。夜に便所に起きたときなんか、電気点けるの面倒くさがると大体ロクなことにならねぇ。なにかにつまづいたり、ドアの角に足の指ぶつけたりしてさ。……あんたらはどうなんだ?」
俺の体がランプの真下へと至る。
"眼鏡"が俺の意図を察したようだった。
「明かりを消してどうする気だ?」
「いや。あんたらのその赤い瞳、やっぱ力を使うときは暗闇の中でも光るのかと思ってさ」
「バカな。お前の炎こそ、暗闇で有利に働くとは思えんぞ」
"眼鏡"はしごくまっとうな意見を口にした。
「どうかな。やってみなくちゃわかんねーだろ?」
そう言って、俺は頭上に手の平を向けた。
放たれた炎が、ランプを吊るしていたロープを一瞬で焼き切る。
……ガシャン!
「!?」
本当にやるとは思っていなかったのだろう。
男たちは急に訪れた暗闇に驚きの表情で固まっていた。
しかし――
(……なんも見えねぇ)
当然ながら俺もなにも見えなくなっていた。
夜魔の赤い瞳が輝くのは力を放つときだけである。それも別にカメラのフラッシュのように派手に光るわけじゃない。
暗いほうが認識しやすくなるのは確かだが、視界に入っていないとタイミングが計れないのは暗くても明るくても同じである。
ただ、もちろんそんなことは承知の上だった。
意図は別にある。
右こぶしに炎を灯す。
視界が広がって、薄い暗闇の中ふたつの影が動くのがわかった。
まっすぐには仕掛けてこない。
おそらくはなにか罠があると考えているのだろう。
(……そんじゃ、やるか)
俺はポケットに突っ込んでいた左手を出す。
そうしながら、薄闇の中で動くふたつの気配に集中した。
……チャンスは一度きりだ。
敵を牽制するために少し動く。
と。
(……来る!)
薄闇の中で赤い瞳が小さく輝いた。
位置からすると"短髪"のほうだろう。
俺は横にステップしてそれを避けると、回り込むようにその相手に向かっていく。
そして左のこぶしに力を込めた。
……気配を感じる。
ふたりの男たちが、俺の動きを――俺のこぶしに宿った炎の動きを懸命に追ってくる気配を。
(……さぁ。食らいやがれ!)
ぐっと目を閉じ、左こぶしに炎を灯す。
その瞬間。
俺の左こぶしから大量のまばゆい閃光があふれ出した。
「な――ッ!?」
男たちの驚愕の声。
それは俺が左手に握りこんだマグネシウム粉末が発した光だった。
午後7時という時間指定から相手が夜魔である可能性を考慮し、この状況を想定して近隣の高校から(かなり強引な手段で)臨時調達したものだ。
暗闇の中で俺の動きを追っていた男たちに、それを回避する術はない。
(……ここしかない!)
俺は閉じていた目を開き、一時的に視界を奪われ苦悶の声を上げる"短髪"に一直線に迫った。
「くっ……!」
"短髪"が気配を感じて衝撃波を放ったが、まるで見当違いの方向だ。
肉薄する。
「くらいやがれぇぇぇぇッ!!」
右下から突き上げるように繰り出した右こぶしが"短髪"の脇腹にめり込む。
「ぐ、ほっ……!」
"短髪"が苦痛の声を上げる。
だが、それだけじゃ終わらない。
「ぉぉぉぉぉぉ――!」
こぶしの炎がうなりを上げ、男の右半身が炎に包まれた。
「ぐぁぁぁぁぁぁッ!」
"短髪"が床に転がり苦悶の声をあげる。
「……貴様ッ!」
振り返ると、視力を回復させた"眼鏡"が"短髪"を助けようと向かってくるのが見えた。
俺は"眼鏡"の放った衝撃波を横に動いて軽く避けると、続いて襲ってきた蹴りも冷静に捌く。
「く……ッ!」
俺の目の前わずか数センチの距離に、体勢を崩した"眼鏡"の無防備な胴体があった。
右のこぶしに再び力を込める。
そこに宿るのは凝縮された熱の塊――"太陽の拳"。
「これで終わりだぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!!」
雄たけびとともに俺の右こぶしは"眼鏡"の胴体を確実に捉え、暗闇に包まれていた空間は炎の色で真っ赤に照らされたのだった。