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双子兄妹の悪魔学園記  作者: 黒雨みつき
 第4章 海に行こう
28/239

1年目8月「ナンパ・リベンジ」


 海水浴2日目は天気予報どおり晴天となった。

 2泊3日の予定だが、最終日は午前中でこちらを引き払うことになるので、思う存分遊べるのは今日が最後といってもいいだろう。


「……なのに、なんで俺がこんなことをせにゃならんのだ」

「だから頼んでないって言ってるでしょ」


 昨日雪に言われたとおり、俺は瑞希の泳ぎの練習に付き合うハメになっていたのである。


 俺はやる気なし。

 瑞希も文句ばかり言っている。


 そうして憎まれ口ばかり叩き合いながらも練習が一応成立していたのは、俺と瑞希が実は仲良しだからとかそういうことではなく、おそらくは雪の力だ。あいつの持つ得体の知れないなにかが、俺と瑞希の行動を縛っているのである。


 たぶん。


「つか、お前やりゃあできるんじゃねえか」


 ゆっくりながらも水面をすいすい進んでいる瑞希を振り返って俺はそう言った。


 今はまだ昼前で、練習を始めてからは2時間足らず。

 にもかかわらず瑞希はすっかり普通に泳げるようになっていた。


「水に顔をつけるのが苦手だっただけだもの。できないわけないじゃない」

「へーへー、そうですか」


 確かにこいつはどんな武術でもこなすような運動神経の持ち主だ。

 できて当然なのかもしれない。


 そうして沖合いに50メートルほど来たあたりで、海面に頭を出している岩場を見つけた。


「おい瑞希。ちょっと休憩しよーぜ」


 そこに上がって腰を下ろすと、瑞希はそんな俺を見上げて、


「もう疲れたの? 私はまだ大丈夫よ?」

「調子に乗んなって。それに別に遠泳の大会に出るわけじゃねーんだ。疲れるまで泳ぐ必要ねーだろ」

「まあ……そうだけど」


 そう言いながらも瑞希は岩場に手をついただけで上がろうとはしなかった。

 今のうちにできるだけ水に浸かって恐怖心を完全になくしたいのかもしれない。


(こういうとこ、根が真面目っつーか負けず嫌いっつーか……)


 外見は大人びたクールビューティなのに、中身はまるっきり熱血スポコンキャラなのである。


「そういえばさ。……昨日は悪かったわね」

「あん?」


 見ると、瑞希が目を伏せて少し神妙な顔をしていた。


「頭まで下げてくれたのに、私、不満みたいな態度とっちゃったじゃない? ……確かにあんたの言うとおりだったわ。あそこで変に揉めたら海水浴が台無しになる可能性があったのよね。私、あのときはそこまで頭回ってなくて」


 そう言って上目づかいにこちらを見つめてくる。


「あー……なんだよ、急に」


 調子が狂う。

 こいつはごく稀にこういう殊勝なことを言うから厄介なのだ。


 俺はそんな瑞希の視線から逃げるように顔をそらして、


「あんなの後付けだって、後付け。どーせお前なら相手の心が折れるまでボコるんだろうから、どっちにしても報復とかしてこねーよ、絶対」

「……あのねえ。あんた私をなんだと思ってんの?」


 瑞希は眉をひそめる。らしくない表情はあっという間に隠れた。

 ……そう。それでいいのだ。


「……おっと。そういやそろそろ昼メシの時間じゃねーか?」

「あら? もうそんな時間?」


 瑞希は岩場に少しだけ身を乗り出し、俺の防水の腕時計をのぞきこんだ。

 11時50分。今からゆっくり戻ればちょうどいい時間だろう。


「じゃ、戻るか」


 俺は腰を上げて、勢いよく海の中に飛び込んだ。

 ザバッと大きな水しぶきが上がる。


「……ちょっと! なにすんのよ!」


 瑞希がモロに海水をかぶってしまったようだ。

 もちろんわざとである。


 俺は岸に向かって泳ぎながら振り返って言った。


「午前中の授業料だ。安いもんだろ?」

「この!」


 瑞希の頭が海面から消える。

 どうやら潜って俺を追いかけるつもりらしい。


「愚かな。ようやく泳げるようになっただけのお前が、この俺に追いつけるはずが――」


 なんて余裕をかましていると、急に足首をつかまれた。


「え? ……げ、ちょ、ちょっと、わ、うぷっ!」


 足を引っ張られて海中に引きずり込まれる。

 突然のことに、海水を思いっきり鼻の中に吸い込んでしまった。


「ぐへっ……げほっ、げほっ……てめぇ! 殺す気か!」

「あら。あんた流の授業料を払ってあげただけじゃない」


 海面から顔を出した瑞希が得意げな顔をする。

 妙に楽しそうだ。


「このヤロウ……」


 俺の心の安定のため、この女はここで駆逐しておくべきかもしれない。

 幸い今は水の中。陸上ほどの戦力差はない。


「やり返す!」

「受けて立つわ。やれるものならやってみなさい」


 瑞希はそう言って平然と海の中へ潜った。

 昨日まで泳ぐのが苦手だったやつとはとても思えないほど自然に、すいーっと岸のほうへ泳いでいってしまう。


(……ったく。だから嫌だったんだ)


 俺はそんな瑞希の背中を眺めながら、雪の申し出を受けたことを今さらながらに後悔したのであった。






 全員でいったん集結し、昼食を食べ終えた後。


「あれ、ユウちゃん?」

「ん? ああ、お前か」


 太陽のまぶしさに薄っすらと目を開ける。

 ビーチパラソルの下に寝転がっていた俺のところへやってきたのは雪だった。


「どうしたの、こんなところで?」

「なんだ? 俺が寝ているのがそんなに不思議か?」


 雪は小さく首を振って、


「そんなことないけど、瑞希ちゃんと一緒だと思ってたから」

「もう必要ねーよ。泳げるようになったみたいだしな」

「あ、やっぱりそうなんだ」

「やっぱり?」

「うん。だって――」


 そう言いながら俺の隣に腰を下ろそうとしたが、そこへ雪を呼ぶ能天気な声がした。


「ゆっきちゃ~ん! ちょっとちょっと来て~! ここに変なのいるよ~!」


 藍原の声だ。

 なにか面白い生き物でも見つけたのだろうか。


「あ、うん! ちょっと待ってねー!」


 再び立ち上がって、雪は振り返りざま言った。


「瑞希ちゃん、嬉しそうだったよ」

「つか、俺はほとんどなにもしてないんだが……」


 事実である。溺れないよう見守っていただけで、あとは瑞希のやつが勝手に練習して勝手に泳げるようになったのだ。


「ユウちゃんが一緒にいたことが大事なんだよ」

「なんだそりゃ」


 まったく意味がわからなかったが、雪はそれ以上説明せずに行ってしまった。


 ごろりと寝返りを打ってうつ伏せになる。

 が、その拍子に右腕がシートからはみ出して砂まみれになってしまった。


(ちぇっ……)


 起き上がって腕についた砂を払う。が、汗をかいているせいでなかなか綺麗にならない。


「あれ。どうしたの」


 濡れた髪の水を落としながら、今度は直斗が戻ってきた。


「おぅ。泳いでたのか」

「うん。こういう機会でもないと海に来ることなんて滅多にないしね」

「あー、桜さんは海に遊びに来るイメージじゃないもんなぁ」


 直斗は苦笑して、


「それ以前に、母親とふたりで海に遊びに行く人ってあんまりいないんじゃない?」

「桜さんならまだ高校生同士で通用するんじゃないか?」

「さすがに無理だし、そういう問題でもないよ」


 直斗と適当な話をしながら辺りを見回すと、相変わらず砂浜を駆け回っている将太の姿が見えた。

 あれだけ節操なく動き回って誰かに絡まれでもしなければいいが……とは思ったが、まあ、あいつは自力でボコボコにするそうだから気にすることもないだろう。


 姿の見えない瑞希は、おそらくひと気のない入江で泳いでいるのだろう。

 機嫌がよさそうだったという雪の言葉が本当なら、泳ぎの楽しさに目覚めでもしたのかもしれない。


「……んじゃ、俺もちょっと海に入ってくるから」

「行ってらっしゃい。疲れたから僕はしばらく荷物番してるよ」


 頼む、と直斗に言い残し、俺は海へ向かった。




-----




(泳ぐのがこんなに楽しいとはね……)


 優希の予想どおり、瑞希は人の少ない入江を泳いでいた。

 砂浜はそれなりに遠くなっている。昨日までなら怖くてこんなところまで泳いでくることはできなかったが、今はなんの問題もなく行き来できる自信があった。


(……これも優希のおかげかしら)


 瑞希がそう思ったのは、別に優希のコーチがよかったという意味ではない。

 彼に対し、泳げない姿をいつまでもさらしておけないという意地が、水に対する恐怖心を上回った。それが急な上達につながったのだと自覚していたからである。


 さらには、雪がそれを見越して優希をコーチにつけたのだということも、瑞希は薄々感づいていた。

 あのほんわかとした雰囲気の従妹は、あまり積極的に表には出さないものの、とにかくそういう人の心の動きを悟るのが得意なのである。


(……さて、と。そろそろみんなのところに戻るかな)


 ひとしきり泳ぎを楽しみ、瑞希は砂浜へ戻ってきた。

 せっかく大勢で海に来たのだ。いつまでも単独行動というわけにはいかないだろう。


 熱くなった砂の上を歩く。

 首筋が少しひりひりと痛んだ。

 今日は日差しが強いから、日に焼けてしまったのかもしれない。


 ざざざ……、という波の音。

 こちらの入り江は人がほとんどいないせいか、海辺の自然をより強く感じることができた。


 と。


「……?」


 初めは正面から誰かが歩いてきたな、ぐらいの認識だった。

 が、近づいてその男の顔を確認し、瑞希は眉をひそめる。


 見覚えのある顔だった。


「よぅ。今日はひとりかい?」


 昨日彼女たちをナンパした大学生風の男の片割れだった。

 瑞希に投げ飛ばされた短髪の男ではなく、後ろにいた眼鏡の男だ。


 今日は水着ではなく普通の服を着ている。


「……」


 瑞希はなにも答えずに通り過ぎようとした。


「無視か。けどま、ひとりなのは好都合だ。今日こそちょっと付き合ってもらうよ」

「……」


 瑞希はさらに無視する。

 しかし男はすれ違いざまに言った。


「……無理やりにでも」

「!」


 ヒュッ、と風を切る音。

 瑞希はとっさに後ろにステップした。


「! よけた……?」


 体のすれすれのところを男の足が横切っていく。

 瑞希はさらに男から離れると、頭につけていたゴーグルを外して構えた。


「……なんのつもり?」


 鋭い蹴りだった。

 冗談や脅しではない。明らかに瑞希の体に当てる目的で放たれた蹴りだ。


 しかし驚いたのは瑞希のほうだけではなかった。


「たまたまって感じじゃないな……お前」

「もう一度聞くわ。なんのつもり?」

「……」


 男が眉間に皺を寄せる。

 質問に対する答えは返ってきそうになかった。


(……力ずくでってこと? でも昨日となんだか雰囲気が違うわね……)


 なぜそんな風に思ったのか瑞希自身うまく説明はできない。

 目の前にいるのは紛れもなく昨日の男だった。


 にもかかわらず。

 まるで別人のようだと、瑞希は感じていたのである。


(……リーチは向こうが上ね)


 大声を出して助けを呼ぶという考えは頭になかった。

 彼女の頭にあったのは、人を呼ぶのは相手を動けなくしてからでも遅くはない――という、なんとも女子高生らしくない考えだったのである。


 もちろんそれは実力に裏付けされた自信でもあった。


 ――ヒュッ!


 男の左足が前にステップし、少し遅れて右こぶしが動く。


(遅い。フェイントね……)


 軽く体をかたむけて避ける体勢を整える。

 が、予想通り右こぶしは瑞希の体まで飛んでこなかった。


「左!」


 あらかじめ注意を向けていた左のこぶしが飛んでくる。

 瑞希は素早く右足を前にステップさせ、右腕を立てて男の左腕を内側から弾く。


「!?」


 男が驚きの表情を浮かべた。

 瑞希の体はそのまま前にスライドする。


「はッ!」


 瑞希の左こぶしが男のみぞおちに吸い込まれていった。


「ごふ……ッ!」


 確かな感触があり、男の体は数センチ宙に浮くと1メートルほど後ろに吹っ飛んだ。


 これ以上ないほどのクリーンヒット。

 普通の人間なら悶絶して動けなくなるだろう。


 しかし。


「……」


 瑞希はしばらく構えを解かずに男の動きを注視していた。


 彼女の脳裏によぎっていたのは、先ほど感じた"昨日とは違う得体の知れない雰囲気"。

 この一撃で終わらないかもしれないという懸念を感じていたのだ。


 ただ、それから数秒間。

 男が動き出す気配はなかった。


「……見かけ倒しか」


 気のせいだったのかもしれない、と、瑞希は思った。


 最初の蹴りの速さはかなり鍛えられたもののように思えたが、技に関してはまったくの素人だ。

 見え見えのフェイントや大振りのパンチは、少なくとも武道に携わる者の動きではない。


 構えを解いて、手を払う。

 緊張の糸が緩んだ。


「これって警察を呼ぶべきなのかしら。救急車を呼ぶほどじゃないはずだけど……」


 ピクリとも動かない男を見下ろしながらつぶやく。


「……まさか過剰防衛だなんて言われないわよね?」


 冗談まじりにつぶやきながら、とりあえず男から離れて放り投げたゴーグルを拾いにいく。


 ……と、そのときだった。


「そんな心配は……必要ない」

「え……?」

「念のため、結界を張っておいて正解だった……な」


 振り返る。

 と。


「ッ……!??」


 ごりっ、と。お腹の辺りに激痛が走った。

 なにか重いかたまり――鉄球でもぶつけられたかのような衝撃が走り、体が宙に浮く。


「ぁ……」


 一瞬にして意識が遠のいていく。


(な、に……?)


 霞んでいく視界の中では、立ち上がろうとしている男の姿が見えた。

 が、しかし。


(どう、やって……)


 瑞希と男の間には3メートルほどの距離があった。

 男は彼女を見つめているだけで、手に凶器らしきものは持っていない。


 男がどうやって攻撃してきたのか、瑞希には理解することができなかったのだ。

 ただ――


(赤い、目……)


 真っ赤に輝く男の目が脳裏に焼きついて、


「ゆ……き……」


 助けを呼ぼうとした声は言葉にならず、彼女の意識はそこで途切れた。




-----




 泳ぐのに飽きてしまい、水着を着替えて俺がいったん旅館に戻ったのは午後4時を過ぎたころだった。


「不知火様ですか? お手紙を預かっています」

「え? 手紙?」


 旅館の受付で突然封筒に入った手紙を差し出され、俺は戸惑いながら目の前の40代後半と思しき女性を見つめてしまう。


「はい。不知火様の知人の、牧原様という方からお預かりしました」

「牧原?」

「男性の方でしたが、不知火様のお知り合いではなかったですか?」

「あ、いえ。知り合いです」


 俺はそう答えて手紙を受け取ることにした。


(牧原って……)


 "牧原"は言うまでもなく瑞希の名字である。


 受付の女性が瑞希のことを男と勘違いした、なんて面白い仮説も一瞬脳裏を過ぎったが、あいつは性格はともかく見た目はどう見ても女だし、しかも水着姿で男と勘違いされることはないだろう。

 それにあいつが俺宛ての手紙をここに預けるなんてことをするはずがない。


 他にその名字で俺の知り合いの男性というと、思いつくのは瑞希の父親ぐらいだった。


(あの人ならこういう意味不明なことをやってもおかしかないが……)


 部屋に戻って座布団に腰を下ろし、封を切って折りたたまれたメモ紙を取り出す。


「……!」


 開いた瞬間、嫌な感覚が背筋を駆け上った。


(これは……)


 雑誌や新聞の切り抜きをツギハギして作られたメッセージ。

 刑事ドラマなんかでよく目にする脅迫状のようなそれは、こんな文面になっていた。


『女は預かっている。午後7時に下の地図の倉庫までひとりで来い』


 脅迫状のよう、ではない。

 そのものだ。


(どういうことだ? いったい誰がこんなもの……)


 将太の悪戯という可能性も脳裏を過ぎったが、悪戯にしては悪趣味すぎるし、将太は今日もずっと砂浜で生産性のない不毛な行為にふけっている。可能性は低い。


 悪戯ではない。

 と、すると――


 俺はもう一度その文面に視線を落とす。


『女は預かっている』


 女。

 この状況で思いつくのは雪、瑞希、藍原の3人しかいない。


(……そういや午後はずっとあいつの姿を見てない)


 俺はそのメモ紙をポケットに突っ込んで旅館を飛び出すと、まっすぐに俺たちが陣取っていたビーチパラソルを目指した。


「……藍原!」

「んー? あれ? 戻ってきたの?」


 砂浜に敷いたシートの上には藍原が座っていた。

 俺は内心の焦りを悟られないよう一呼吸置いて尋ねる。


「雪と瑞希を見なかったか?」

「んー? 雪ちゃんならさっきまでここにいたよ。瑞希ちゃんは……アレ? そういやずっと見てないや。あ、ほら。雪ちゃん、戻ってきた」


 俺は藍原が指差した方向には目も向けず、


「……なるほど。わかった」

「あれ? どこ行くの?」


 藍原が怪訝そうな顔をする。

 俺の足の向いた先が旅館の方向ではないことに気付いたのだろう。


 俺は答えた。


「ちょっと買い物だ。少し遅くなるかもしれないから、晩メシは先に食べててくれ」

「え? あ、ちょっと! 不知火!」


 追求されないうちにその場から離れる。

 早足に歩きながらポケットのメモ紙を取り出し、再度目を通した。


(瑞希のヤツが誘拐された……?)


 手紙の相手が"牧原"を名乗ったのだから、"女"が瑞希を指すことは疑うまでもなかったかもしれない。


 が、容易には信じられなかった。

 なにしろ相手はあの瑞希である。あいつを誘拐するってのは名のある格闘家を誘拐するのと同じようなものだ。

 もちろん拳銃かなにかを使えばできると思うが、これだけ人のいる砂浜でそれが可能だろうか。


 ……いや。

 俺は足の向きを変えた。


 手段がどうであれ、あれだけ人のいる砂浜で誘拐されたとは考えにくい。

 となると、瑞希は例の人の少ない入江で誘拐されたと考えるべきだろう。


 腕時計を見る。

 時間は午後4時20分。


 指定された地図の倉庫までは徒歩で1時間近くかかりそうだが、午後7時までにはまだ余裕がある。

 まずは少しでも状況を確認しておくべきだろう。


 俺は誘拐現場と予想される人の少ない入江へと足を伸ばした。


(……けど、やっぱ普通には難しいよな)


 到着した入江は相変わらず閑散としていたが、まったく人がいないというわけではない。

 大きな岩が散在しているので死角はたくさんあるが、ずっと拳銃を突きつけたまま誰にも見られずに移動するのはかなりリスクが高いだろう。


 一応ざっと見て回ったが、瑞希の姿はなかった。


(あそこに車を止めていたとして……)


 波打ち際から道路までの距離は100メートルぐらいだろうか。


(うまく気絶させれば、背負っていけないこともないか)


 拳銃を突きつけたまま歩くよりはよっぽど現実的だ。

 ただ、周りに気付かれないようにあの瑞希を気絶させるというのはそう簡単なことではないだろう。スタンガンあるいはそれに類するものを用いて、おそらくは不意打ち。

 一撃で彼女の意識を奪ったと考えられる。


「……」


 いや。

 それよりももっと現実的な可能性があった。


 もう一度メモ紙を取り出し、その文面に目を落とす。


『女は預かっている。午後7時に下の地図の倉庫までひとりで来い』


 ごくごく簡単な文面だが、考えるべき点がふたつある。


 まずは"倉庫までひとりで来い"という指示。それしか書かれていないという点。

 目的は金でもなければ瑞希自身でもない、つまりは俺を呼び出すことこそが目的であると推測できる。


 そしてもうひとつは"午後7時"という時間の指定だ。

 今からだと3時間近くある。指定の場所まで徒歩で1時間かかることや、俺がいつ手紙を見るかわからなかったことを考えると妥当な時間なのかもしれないが、本当にそれだけだろうか。


 海の方角へと視線を向ける。

 日はかなり傾いていた。季節的には夏真っ盛りだが、太陽の沈む時間は日ごとに早くなってきている。


(今日なら6時半過ぎには沈むな……)


 力の性質のこともあって、最近は日の入りの時刻を常に意識していた。

 午後7時なら、俺にとっては"次の日"になっている時間だ。


 メモ紙を再びポケットに入れて歩き出す。


 いずれにしても、この誘拐犯は"そっち"絡みの可能性が高いだろう。

 個人的な恨みを買うような覚えはないとは言わないが、少なくとも俺を呼び出すために白昼の砂浜から女をひとりさらっていこうとするような連中には、"日常側"では心当たりはない。


 とすると――

 こちらもそれなりの準備が必要になるだろう。


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