1年目7月「暗躍するもの」
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ガサ……ガサガサガサ!
木の葉の隙間から差し込む月光。
しんと静まり返った閑静な森林の中をひとつの影が動いていた。
その影はどこかに向かって移動しようとするでもなく、ただある一点の周囲をしきりに動き回っている。
「……」
その中心には楓が立っていた。
風が吹く。
次第に茂みを揺らす音が複雑に絡み合い、影の居場所がつかめなくなった。
風。
それは一方から吹き付けるだけではなく、強さを増しながら意思を持っているかのように楓の周囲を縦横無尽に吹き抜けるようになっていた。
「ふん……」
しかし楓は動じることなく正面を向いたまま、ただ視線だけを左右に動かす。
風が一段と強くなった。
枝葉同士がこすれ合い、不吉な音色を奏でる。
パン!
何かの破裂音が聞こえた。
楓の足下の地面に、鋭利な刃物で切りつけたような複数の跡が刻まれる。
さらに風が強くなった。
パン! パン!
楓の周りで発生する破裂音、地面や周囲の樹木に刻まれる裂傷はその数をどんどん増やしていったが、楓自身の体には傷ひとつつくことはなかった。
それどころか、その金色の髪が風に揺れることさえ――
「子どもだましだな、本当に」
楓は鼻で笑った。
目を凝らしてみると、そんな楓の周囲には薄っすらと黒いモヤがかかっているのがわかる。
地面や樹木に傷をつけている"なにか"は、その黒い靄と衝突してパンパンという破裂音を発しているようだった。
そんな目に見えない攻防が5分ほども続いたころだろうか。
ついに動きがあった。
「!」
なんの気配もなく、楓の背後の茂みからひとつの影が飛び出してきたのだ。
影は右手に鋭利な刃物を持っていた。刀身には呪文のようなものが刻まれ、微かに青白い光を帯びている。
それが楓の首筋へと向けられていた。
が、
「ようやく出てきたか」
楓は男がそこから飛び出してくるのがわかっていたかのように、振り返りざま刃物を持った男の右手首をつかんだ。
「っ!?」
男の手からナイフが落ちる。
刀身がまとっていた青白い光は地面に到達する前に輝きを失った。
「下級風魔ごときが、そのナイフひとつで俺を殺せると思ったのか?」
楓は薄い笑みを浮かべながら男の首を鷲づかみにすると、片手で持ち上げていく。
「がッ……ぐぐぐ……ッ!!」
男が苦しそうなうめき声を上げた。
両手で楓の手首をつかみ懸命に引き剥がそうとしたが、楓の腕はびくともしない。
楓はさらに冷酷に口元をゆがめた。
「後悔しな。お前の選択がどれだけ愚かしいものか。おとなしくやつらに捕まったままでいれば死なずに済んだかもしれんのに」
男を締め上げる手が黒い光を放ち始める。
「ま、待て……」
その黒い光を見て青白い顔を恐怖に歪めた男は、締められている喉を懸命に開いて苦しそうに言った。
「お、俺が悪かった。だから、殺さないでくれ……」
「殺さないでくれ?」
楓は鼻を鳴らして、
「お前が殺してきた人間たちも同じことを言わなかったか?」
「っ……!」
楓が再び手に力を込めた。
男の顔がさらに大きく歪む。
目を閉じ、死を覚悟する。
「だが、お前は運がいい」
「……?」
楓の力が急に抜けて男の体は地面に落ちた。
「っ……げほっ! げほっ!」
男は咳き込み、涙ぐみながら楓を見上げる。
しかし楓はすでに男を見ていなかった。
その視線は自分の背後へと向けられていて、
「青刃。お前だろ。いいかげん出てきな」
木陰に向かってそう言い放つ。
そこに急に気配が生まれた。
「おや、気付いていたか」
出てきたのは背の高い男だった。
年齢は20代半ばほどだろうか。少し日焼けしていて整った顔立ちをしているが、どこか軽薄そうな印象を受ける。格好は特徴的な黒ずくめで、ひと目で悪魔狩りであることがわかった。
「俺がこいつを殺さないかどうか見張ってたのか?」
楓は黒いジーパンのポケットに手を突っ込み、半身で青刃を振り返った。
青刃はその言葉に少し笑みを浮かべて、
「そんなとこだ。そこの風魔はとっくに戦意を喪失しているようだし、光刃様は無駄な殺生がお嫌いであらせられる」
「ふん……」
楓はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、
「好きにしろ。……それと紫喉のヤツに言っておけ。"偶然"俺の命を狙う悪魔ばかりが脱獄するような失敗は今回だけにしておけよ、ってな」
「偶然ね。お前のその態度じゃ、今後も"偶然"があっておかしくないかもな」
「……」
楓はその言葉にはなにも答えず、青刃とすれ違うようにして森の中へと消えていった。
「……無愛想なことで」
そんな楓を見送ると、青刃は地面に尻餅をついたままの下級風魔へ歩み寄っていく。
「さて、と。じゃあお前には、脱走した残るふたりの仲間について知っていることを語ってもらうとするか。……なぁ?」
少しだけ冷たい印象の笑みを浮かべて、そう言ったのだった。
――そこから少し離れた場所。
「あれが、楓か」
ふたりの男が楓と下級風魔の戦いぶりをずっと眺めていた。
片方は縁なしの眼鏡をかけた背の高い男。
もう片方は短髪で背の低い男。
どちらも年齢は20歳前後だろうか。
服装は一般人と変わらずまるで大学生のような出で立ちだが、赤い瞳と尖った大きな耳が、彼らが悪魔、おそらくは夜魔であることを主張していた。
「あれは力押しじゃ厳しいかもしれないな」
ひとり言のようにそうつぶやいたのは、眼鏡をかけた長身の夜魔だ。
「そうか? たかが下級風魔だろ?」
短髪の背の低い夜魔がそれに疑問を投げかける。
眼鏡の夜魔が答えた。
「いや。下級とはいえアイツは戦い慣れしていて力も強いほうだった。それがああも赤子の手をひねるようにやられるなら……」
「上級悪魔でもないと相手にならないってことか?」
「いや。あいつが上級風魔だったとしても、結果は同じかもしれないな」
眼鏡の夜魔は小さくため息を吐いた。
「とにかくもう少し考える必要がある。……正直俺たちの力じゃ楓にはたちうちできない。向こうもそのぐらいはわかっているはずだし、別のターゲットに変えてもらえないかダメもとで交渉してみよう」
「……ああ、そうだな」
そうしてふたりの夜魔は、夜の闇に溶け込むようにその場から姿を消したのだった。