3年目6月「思いがけぬ罠」
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優希たちが敵の妨害を受けることなくスムーズに孤守の結界に突入したのとは対照的に、雪と瑞希のチームは予想外の事態に見舞われていた。
「……おふたりとも。こっち側もどうやら10名前後の敵が待ち伏せしているようです。戦闘を避けるにはさらに迂回したほうがいいかもしれません」
そう言ったのは、彼女たちと行動している見崎の若い悪魔狩りのひとり、石英という青年だった。
「10名……か」
瑞希は石英の言葉を聞いて眉をひそめた。
南西の"要"。
そこは楓が向かった南東と同じく、雅司たちの戦場に比較的近い場所だ。
もちろん多少の敵の妨害は想定していたものの、これで敵の待ち伏せに遭遇するのは3回目のこと。予想よりもかなりの敵が潜伏しているようだった。
「石英さん。その人たちは御烏とかの悪魔狩りなの?」
瑞希の問いかけに、石英は少し腑に落ちない顔をして、
「いえ……どうも御烏ではなく水守の悪魔狩りのようです。もしかすると御烏と水守は別行動をしているのかもしれません」
「……」
瑞希は思案する。
陽動が失敗したのか。
あるいはたまたま、ごく一部の部隊だけがこの近辺に配置されていたのか。
(どうしたものかしら……)
考えながら、瑞希はすぐ隣の雪を見る。
瑞希の役目は彼女をサポートし、無事に孤守の結界までたどり着かせることだ。包囲網を強引に突破することも可能だろうが、なるべくであれば戦って消耗することは避けたい。
ただ、そうはいっても。
時計を見る。
想定どおりであれば、優希と楓はすでに孤守の結界に突入していてもおかしくない時間だった。彼女たちだけ大幅に遅れるわけにもいかない。
少し考えたのち、
「じゃあ、もう一度だけ迂回できるルートを探して、それでダメなら諦めて突破を考えることにしましょう」
結局、瑞希はそう言った。
雪には可能な限り、万全な状態で孤守の結界に入ってもらいたい。それは瑞希の強い希望だった。
「雪ちゃんもそれでいいわよね?」
「うん。ありがとう、瑞希ちゃん」
雪も、そして石英たちサポートメンバーも瑞希の提案に異論をはさむことはなく、彼らは本日3度目の進路変更を行った。
待ち伏せしている水守の悪魔狩りたちに気づかれぬよう大きく迂回し、進路を探す。
やがて彼らは、敵の部隊が展開していない一角を発見した。
そこを抜けて"要"のある場所へと抜ける。
だが――結果としてそれが、最悪の選択となった。
「……?」
その異変に最初に気づいたのは瑞希だった。
一瞬感じた、不自然な空気の振動。
気を張っていた瑞希はその違和感にも敏感に反応し、ハンドシグナルでそれを石英たちに伝えた。
全員がいったん足を止め。
周囲に異常がないかを確認する。
そして――
「……え?」
気づいた。
距離にしてわずか3メートルほど。
瑞希の左横を歩いていたはずの雪の姿が、いつの間にか見えなくなっていたのである。
「……雪ちゃん?」
後ろに下がったのだろうか、と、振り返る。
と、同時に石英が声を張り上げた。
「瑞希さん! 結界です!」
「えっ?」
一瞬、なんのことかわからなかった。
瑞希たちが目指している"要"、そこに用意されているであろう孤守の結界まではまだかなりの距離があるはずだった。
だが――
石英が腰の刀を抜く。
その刀身はわずかに赤銅色に輝いていて、なんらかの力を秘めているであろうことは瑞希にもわかった。
そのまま石英が瑞希の左手側――雪が歩いていたはずの、なにもない空間に向けて切り込む。
だが――
「くっ……!」
なにもない空間を、一瞬波紋のようなものが走って。
石英の刃はそれ以上先へ進まなかった。
「……石英さん、まさか結界って」
それで瑞希も気づく。
石英がくちびるを噛んだ。
「孤守の結界です。もしかすると我々は敵の思惑どおりに誘い込まれたのかもしれません」
「……」
瑞希は石英が切りつけた場所に手を伸ばした。
一見なにもなさそうに見える空間。
しかしそこには明らかに壁のようなものがある。
(どうしてこんなところに……?)
瑞希は事態を把握しようと頭を回転させた。
敵にはこちらの目標が"要"であることはわかっていたはずで、そこにこちらの主力を誘い込んで確実に倒すという作戦だったはずだ。
にもかかわらず、それと大きく離れたこの場所に結界が用意されていたということは、竜夜たちとは別の思惑で動いている部隊という可能性が高いだろうか。
そして石英の言葉どおり誘いこまれたのだとすれば、そうなるように仕向けたのは水守の悪魔狩りということになる。
つまり――
「……石英さん。辺りに他の敵が潜んでいないか確認をお願いします。それと――」
瑞希は初陣にして、いきなり困難な選択を迫られることになってしまったようだった。
一方。
「瑞希ちゃん……」
急に瑞希たちと切り離されてしまった雪もまた、予期せぬ事態に困惑と危機感を覚えていた。
自分たちを分断したその見えない壁が、かねてより聞いていた"孤守の結界"であろうことはもちろんわかっている。
それがおそらく、彼女たちをこの地帯に誘い込んだ敵の思惑どおりだったであろうことも。
そして――
「誰かひとりでも引っかかってくれればと思っていたが」
その首謀者は、それほど時を置かずに雪の前にその姿を現した。
「まさかお前が引っかかってくれるとは、願ったり叶ったりだ。やはり御烏の連中の言うことを無視して正解だったな」
朝もやに煙る木々の隙間から現れたひとりの男。
湿り気を帯びた風に頭のバンダナが揺れ、半分隠れた目が喜びと狂気の色で雪を見つめている。
「御門で最強と名高い空刃の一族か、あるいはお前のどちらかと戦いたかったんだ。上級氷魔の娘」
口元がゆがむと、そこから少しだけ牙のような八重歯がのぞいた。右手には水晶のようなものを手にしていたが、それが"泡影"という、自由に形を変える攻防一体の魔装であることを雪はすでに知っている。
水守の雨海桐生。
1ヵ月前、史恩とともに彼女の自宅を襲撃し、優希と雪の2人に重傷を負わせた人物だ。
雪の脳裏に、その日の映像がよみがえる。
それに対するいくつかの感情も同時に胸をよぎったが、今はそれよりも気になることがあった。
(……瑞希ちゃん)
雪は桐生から目を離さないまま、瑞希たちがいたはずの場所に向かってもう一度手を伸ばす。
少し弾力のある、見えない壁のようなものに触れた。
それを解除するためには、目の前のこの男を倒さなければならない。
「竜夜のやつ、こんな楽しそうなことをひとり占めしようってんだからな。ホント気にいらんやつだ」
「……」
雪は無言で桐生を見つめる。
その男がどんな性質の持ち主であるかを、彼女はとっくに知っていた。
一言でいえば、戦闘狂。
人を救う悪魔狩りとしての素養をあまり感じさせない、強い悪魔と戦いたいという欲求に支配された戦闘狂だ。
だから、彼がこうして待ち伏せしていたのが、この戦いの大局とさほど関係のない、私欲によるものだろうということも察しがついた。
だからこそ、雪はその状況に焦りを感じていたのである。
桐生のこの行動が単独であるとすれば、要にはまた別の守護者がいるということになる。雪が心配していたのは、それを察した瑞希がどうするか、ということであった。
この戦いが終わるまで結界の外で待っていてくれるのなら、なんの問題もない。
だが、もしも。
自分の力で"要"を止めようと動いてしまったとしたら。
責任感の強い瑞希の性格を考えると、その可能性は決して小さくないように雪には思えた。
(……はやまらないで、瑞希ちゃん)
その心配を外に伝える手段はない。
この桐生を倒さない限りは、それすらも叶わないのだ。
(それなら……)
倒すしかない。
可能な限り、短時間で。
迷うことなく、雪は力を解放した。
耳が大きくとがり、髪が白銀へと染まる。
全身が冷気の渦に包まれ、視線は氷の冷たさをまとった。
桐生が満足そうに笑う。
「いいねえ。今回は水を差してくる間抜けな兄貴もいないし、1対1の戦いを楽しもうじゃないか、なあ?」
「……楽しもう、だなんて」
雪には、この桐生という男の行動原理を理解することはできなかったし、それに対して強い嫌悪感を覚えてもいる。もちろん先日の襲撃に対する怒りもある。
彼女にしては珍しく、戦うことへのためらいはみじんも感じていなかった。
そしてその感情を、そのまま言葉に乗せる。
「きっと楽しくなんかないよ。だってわかってる。まともに戦えば、あなたが私よりはるかに弱いってことぐらい」
「……」
桐生は驚いたように大きく目を見開いていた。
雪の挑発に怒ったのかと思えば、どうやらそうではない。
「……ははっ、おもしれぇ! 歪め"泡影"ぇ!」
それは彼の闘争心に火をつけたようだった。
手にした"泡影"がその姿を変える。
「家をぶっ壊されて怒ったのか? それとも兄貴を馬鹿にされたのが気にくわなかったか? いや、どっちでもいいさ、そうこなくっちゃなぁ!」
雪はなにも答えず、ただ目を細めつぶやいた。
「"銀白の世界"――」
雪を中心に魔力が広がっていく。
それは桐生の周囲をも、あっという間に飲み込んでいった。
足もとからは何本もの鋭い氷の槍が生え、まるで馬防柵のようにその切っ先を桐生に向ける。周囲の木々に生まれた大量のつららもまた、まるで意志をもっているかのようにその先端を桐生へと向けた。
半径約15メートル。
"銀白の世界"によって作られるその領域の中では、雪は四方八方どこでも好きなところから敵を攻撃することが可能だ。
それはもちろん、雪が持つ膨大な魔力のなせる業である。
「……」
桐生はそんな彼女の力を一度体験しており、その能力の性質を理解しているようだった。油断なく左右に視線を送り、どこから来るかわからない攻撃に備えている。
右手の"泡影"は、ぐにゃぐにゃと落ち着きなくその形を変えていた。
「準備はいいぜ。……かかってきな、雪女」
「……」
虚勢か、あるいは自信の表れか。
桐生は戦いを楽しもうとする態度を変えることはなく。
いずれにしろ、彼に対して手加減する理由はひとつもなかった。
「安心して。もう二度と人を傷つけられない体にしてあげる」
こうして。
不測の事態ながらも、雪もまた孤守の結界内での戦端を開くこととなったのだった。