3年目5月「恩義と平穏」
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近くで大きな事件が起こったといっても、それが町の風景に与える影響は限定的なものである。
謎の大量失踪事件が報じられた後、周辺の町における夜間の往来は間違いなく減ったが、日が出ている時間帯については半月も経たないうちに元通り、その名残が残っているのは小学校での集団登下校が続いていることぐらいだ。
そんな、ゴールデンウィークも明けて梅雨の季節が近づきつつある5月中旬の日曜日の早朝。
とあるアパートの一室では、3人の少女たちが口論を繰り広げていた。
「絶対遊園地! ここは譲れない!」
「見たい映画があるのよ。ほら、あなたも見てたでしょ、このアニメ。劇場版が今週から公開になってるからみんなで見に行きましょ」
「天気もいいですし、ピクニックなんてどうです? 昨日犬用のフリスビーを衝動買いしましたので、これで遊んで差し上げたいのですが」
そんな3人のやり取りを横目で見ながら、唯依はひとりだけ遅めの朝食を取っていた。
ふわぁ、とあくびをひとつ。
食卓に置かれた納豆を手に取ってかき混ぜる。
そうしていると、ワイワイやっていた3人から急に水を向けられた。
「ねえねえ、唯依くん。唯依くんはどこがいいと思う? やっぱ遊園地でしょ?」
「え?」
そんな真柚の言葉を聞いて、唯依はぴたりと手を止める。
「どういう意味? それってもしかして僕も行くやつなの?」
3人が今日の遊びの計画を昨晩から話し合っていたのは、唯依ももちろん知っていた。
ただ、その内容について直接聞かされたのは今が初めてだったし、今日の予定を聞かれるようなこともなかったので、てっきり自分には関係のないことだと思っていたのである。
「あら、当然よ。ねえ?」
と、亜矢。
真柚が力強くうなずく。
「真柚おねーちゃんがカワイイカワイイ唯依くんを置いてけぼりにするわけないじゃない! ……ってことで、ねぇ、唯依くぅ~ん。唯依くんはおねーちゃんと遊園地に行きたいよねぇ~?」
なまめかしい仕草をしながら、唯依の背中にしなだれかかる。
が、次の瞬間、鼻をつまみながらパッと離れて、
「うぇぇ、納豆のにおい~……」
顔をしかめながら離れる真柚に、亜矢がクスクスと笑いながら、
「あらあら。真柚お嬢ちゃんに色仕掛け戦法は10年早かったみたいね」
「ちょっと亜矢ちゃん! こう見えても長女よ、私!」
心外とばかりに抗議の声をあげる真柚。
舞以が真剣な顔で言う。
「そうですよ、亜矢さん。長女の真柚さんは成長しきってこの程度の色気なんですから、もうそれ以上は触れないであげてください」
「おぉい! フォローになってないよ、舞以ちゃん!」
(元気だなぁ……)
この3人と同居するようになって早1年強。
ある程度慣れたつもりではいても、時折圧倒されてしまうのは唯依が控えめな性格だから、というだけではないだろう。
「で、唯依? あんたはどこがいいの? 時間ももったいないし、あんたが行き先決めちゃっていいわよ」
と、亜矢。
唯依は少し不安そうな顔になって、
「えー……僕が決めたらみんな絶対文句言うでしょ」
「言わない言わない。約束するわ」
「ん、じゃあ……」
と、唯依は3人を順番に見る。
祈るように手を組んで見つめてくる真柚。
少し悪戯っぽい笑みを浮かべている亜矢。
フリスビーを手に上品に微笑んでいる舞以。
「……ねえ、舞以。一応聞くけど、そのフリスビーで誰と遊ぶつもり?」
「もちろん唯依さんと、ですよ。あ、もちろん両手は使用禁止ですからね?」
「……」
その一言で、本日の行き先は決定した。
「うぅぅ、よかった、感動したぁ~……」
映画館に入る前は遊園地を諦めきれずにブツブツ言っていた真柚だったが、いざ上映が始まると一番のめり込んでしまったようで、泣いたり笑ったり泣き笑いしたりと百面相状態だった。
「正解だったでしょ? 唯依もいい選択をしたわね」
映画館で購入したいくつかのグッズを手に、亜矢も上機嫌だ。
「まぁね。あはは……」
唯依としては、遊園地にこの4人で行くのは気恥ずかしいし、ピクニックでディスクドッグをやらされるのは論外、という消去法に基づいて映画を選択しただけだったのだが、それが奏功したようだ。
「そうですね。特に女装した主人公の親友が嘘の告白をするところは、あの恥ずかし気な声優さんの演技もあいまってなんというか色々とそそられる最大の見せ場でしたね」
「え、あれってそんな大事なシーンだったっけ……」
舞以の感性だけは、いまだに唯依には理解しがたい。
そんな映画の感想をワイワイと話しつつ。
唯依は少しずつ後ろに下がって自然に会話の輪から外れる。
(に、しても……)
ひと段落して気持ちが落ち着くと、すぐに不安が首をもたげてきた。
(優希先輩たち、本当に大丈夫なんだろうか……)
ゴールデンウィーク明けに聞かされた優希たちの失踪事件の直後、御門の使いを名乗る者から簡単な状況の説明と、目立つ行動は取らないようにとの忠告があった。
そのこともあり、4人はあえて今までと変わらない生活を続けているのだが、内心は穏やかではない。
唯依たちが今こうして平穏に過ごしていられるのは、優希たちのおかげだ。
そんな彼らが大変な状況にあるのなら、ぜひとも恩返しをしたいという気持ちを唯依は強く持っていた。
とはいえ――
視線を正面に戻し、楽しそうに語り合う3人の姉の背中を見つめる。
亜矢、真柚、舞以――それぞれの中に今も残っている女皇の力。
それをおおやけにすることは、おそらく彼女たちを再び戦いの渦中に引き込むきっかけとなるだろう。
目立つことをするなという忠告は、そうしたくはないという優希たちの意思であるとも思えた。
そしてそれは、唯依自身の願いでもある。
恩義に報いるか。
今ある平穏を守るか。
(……といっても、僕の力じゃたいして役には立たないけど)
暮れの戦い以降、母の力である"狂焔"は失われている。
本来の幻魔としての力はあるが、ほとんど使ったこともないし、どうやって戦いに役立たせられるのかを考えたことすらない。
結局のところ、戦力として報いるのならば唯依自身ではなく3人の姉の力に頼るしかないのだ。
それがまた、判断を難しくしていた。
(ひとまず、今は言われたとおりおとなしくしてるしかないのかな……)
唯依がそんな考えにいたった、そのとき。
目の前を、青い何かが横切った。
「うわっ!」
突然のことに足を止めてのけぞる。
その"なにか"は目の前を通り過ぎると、アスファルトの上に落ちて弾んだ。
「……なんだ、ゴムボールか」
「すみませーん」
声がしたのはちょうど通り過ぎようとしていた公園の中からだった。
そこからひとりの女性が駆け寄ってくる。
「当たりませんでした? どうもすみません」
フチなしのメガネに深めの帽子。肩口あたりで切りそろえられた髪。わずかに日本人形を思わせる、おそらくは唯依たちとそれほど年齢の変わらない少女だった。
「あ、大丈夫です。どうぞ」
住宅の塀にぶつかって跳ね返ってきたバレーボールサイズのゴムボールを拾い、少女にそれを手渡す。
前を行く亜矢たちも気づいたらしく、足を止めてこちらを振り返っていた。
「ほんとすみません。どうも」
少女が深々と頭を下げ、そして顔を上げた。
……その瞬間。
「……!」
ぞわっと。
心臓をわしづかみにされたような感覚。
唯依の全身に鳥肌が立った。
思わず一歩、後ずさる。
「どうかしましたか?」
目の前の少女は不思議そうにしている。
「あ、いえ……」
悪寒は一瞬で消えていた。
が――
「唯依さん?」
「唯依くん、どうしたの?」
舞以と真柚が駆け寄ってくる。
駆け寄ってきた2人も平静を装ってはいたが、どうやら不穏な気配には気づいたようだ。
(今のは……いったい)
視線を正面に戻すと、少女はすでに背中を向けて公園内に戻っていた。
呼び止めようかとも考えたが、目立つことはするなという忠告が頭をよぎって思い直す。
「ちょっとどうしたの、3人とも」
最後にやってきた亜矢は、唯一今の気配に気づかなかったようだ。
ただ、
「あら? 今のおかっぱの女の子、どこかで見たことあるような……」
そんな亜矢のつぶやきに胸騒ぎを覚え、唯依は再び少女の姿を追う。
が、その背中はすでにどこにも見えなくなってしまっていた。
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「予想通りよ。雷皇はわからなかったけど、ほかの2人はおそらく"残っている"と思う」
「そうか。やはりな」
そこは御門町の一角、竜夜たち"秘密結社"隠れ家のひとつ。
居間のテーブルの上には碁盤があって、白と黒の碁石が広がっている。
台所には夕食の支度をする瑠璃の姿があった。
「ミレーユとメリエルが残っているのなら、アイラもいると考えるべきか。となるとこの前、正体不明の夜魔どもを片付けた雷魔は、やはりアイラだったのかもしれないな」
「どうするの?」
帽子を脱ぎ、フチなしメガネを外した晴夏が竜夜の正面に腰を下ろす。
「正直、悩ましい、が、暮れの戦いからここまでほとんど動きを見せていないことを考えると、今の状況に積極的に関わる意思はなさそうにも思えるな」
「御門の残党に協力する可能性はないかしら? 少なくとも香月唯依は御門――いえ、優希くんに恩義を感じているでしょうし」
ふむ、と、竜夜は少し思案顔をして、
「可能性はゼロじゃない。ただ、女皇たちの意識が残っているというならどうかな。いくら一件落着したといっても御門に対する感情的なしこりが消えたわけじゃない。……やりようによっては使い道があるかもしれないな」
「使い道?」
晴夏の問いかけには答えず、竜夜は碁石を打つ手を止め、ソファに深く腰を沈めた。
そのまま黙り込む。
どうやら深い思考状態に入ってしまったようだ。
そんな様子を見て晴夏が立ち上がると、竜夜はハッとした様子で、
「ああ、すまない、晴夏。今回はご苦労さんだったな」
「いいわよ、そんなの」
ひらひらと手を振って、晴夏は台所へ向かう。
「瑠璃姉さん。なにか手伝うことない?」
「いいの? それじゃあねえ……」
トントントンと、包丁のまな板をたたく音が響く。
「ああ、そうだ。氷騎くんを迎えに行ってもらえる? いま先生のところにいるんだけど」
「氷騎? なに、また倒れたの?」
眉間にしわを寄せた晴夏を見て、瑠璃は安心させるように少し微笑むと、
「そんな大げさなことじゃないんだけど、少し気分がね。今はちょうど仕事もないから大事をとってもらったの」
「そう。で、あの先生、今はどこにいるんだっけ?」
「三つ蛇のうろにいるみたい」
瑠璃の口にした単語はどうやっても聞きなれないものだったが、晴夏はそれを承知しているようで、
「あの薄汚い地下室ね。わかったわ」
ほんの少しだけ嫌そうな顔をしながらもうなずく。
リビングに戻ると、竜夜が独り言をつぶやいていた。
「そうだな……女皇たちには、"ヒーロー"にでもなってもらうとしようか」
「……」
晴夏はその言葉の意味を特に確認することもなく、車のカギを手に家を出て行った。