3年目5月「ふすまの向こうから」
しばらくして、俺は伯父さんとともに元いた部屋へと戻ってきていた。
俺の体もあまり長く立って歩けるような状態ではない。
当分の間はこの部屋での生活を余儀なくされそうだ。
……とまあ、それはともかく。
「お前たちが兄妹であることは何度か伝えたのだが、どうも一筋縄ではいかん症状のようでな」
雪の記憶障害。
どうやら俺が実の兄であることを忘れてしまっただけではなく、『何度教えてもその事実だけは覚えられない』というオマケがついた、とてつもなく奇妙な症状らしかった。
「なんなんだよそりゃ……そんな器用な記憶喪失ねぇだろ、普通」
「だろうな。普通ではないからこそ、お前が使ったという未知の力の影響を疑った」
当然のように伯父さんはそう言った。
「もちろん確信があるわけではないし、その力がどのように作用してそうなったのかもまったく見当がつかん。ただ、状況的に無関係ではなさそうに思える、ということだ」
「……あの力が、か」
"白い炎"。
本当にそれが雪の記憶障害の原因なのだろうか。
もしそうだとしたら、他の誰でもないこの俺が雪の記憶を奪ってしまったということになる。
あの状況で助かるためには止むを得ないことだったとしても、だ。
「しかし、ま」
やや深刻な顔をしていた俺に、伯父さんは言った。
「実際、雪の記憶については思ったほどの問題ではなさそうだな」
「……なんでだよ。17年以上も兄妹やってきてんだぞ。それを忘れちまうってのは大問題だろ」
「そうか?」
俺の抗議に、伯父さんはあっけらかんとして、
「双子の兄妹として生まれた事実なんて出会いのきっかけでしかなかろう。逆に考えてみろ。妹の肩書きが外れたら、雪はお前にとって赤の他人になるか?」
「……」
想像する。
が、もちろん答えはノーだ。
そんな俺の表情を見て伯父さんはひとつうなずくと、
「もっと言やぁ、兄弟姉妹なんてのは生まれ落ちた時点でほとんど他人も同然なのさ。大事なのはそこからどういう関係を築くかのほうでな。今のお前たちにとっちゃ、兄妹だろうとそうでなかろうとたいした違いはないだろうよ」
「……簡単に言いやがって。そんな単純な話でもないだろ」
赤の他人にはならなくても、見る目が多少変わるということはあるだろう。
ただでさえ俺は、兄としてこうしなきゃならない、というようなことを自分に言い聞かせることが多かった。
もちろん俺にとっての雪は今でも妹のままだからなにも変わりはしないが、雪の側から見た俺がどうなっているかは、先のやり取りぐらいではわからないだろう。
そんな俺の不満顔に、伯父さんは少し笑って、
「もちろんまったく問題がないとは言わん。ただ、緊急を要する問題かといえばどうだ?」
「……まあ、それはな」
確かに、具体的にどういう問題が生じるかと言われれば特になにも思いつかない。
少なくとも現時点では。
そこで伯父さんは思い出したように、ああ、と手を打って言った。
「ひとつあるとすれば、この国の法律だと他人は結婚できて兄妹ではできないってことだな。……優希。記憶がないのをいいことに、雪にいかがわしいことをしたりするんじゃないぞ。いくら可愛くてもあいつはお前の妹なんだからな」
「……おし、殴る」
「おっと優希。今は安静の身だということを忘れるな」
両手を前に出し、素早く後ずさる伯父さん。
正直、その手のことはどこかで言われるだろうと予測していた。
大ケガの身でなければ、問答無用で後頭部辺りに一発入れているところだ。
「まあ冗談はさておき。雪の記憶については白い炎との関連も含めていろいろ調べてみるつもりだ。結果が出るまでは、ひとまず話を合わせておいたほうがいいだろう」
再び真面目モードに戻った伯父さんに、俺は握り締めていた拳を下ろして、
「話を合わせる? 兄妹だって言わないほうがいいってことか?」
「ああ。その話を聞かせた後は決まって気分が悪くなるようでな。おそらくあいつの記憶の中でなんらかの不都合が生じているのだろう」
「不都合ね……」
どういう理由なのかさっぱりわからない。
が、そういう事情なら確かに話を合わせておいたほうがいいのだろう。
(……ま、とりあえずそう深刻になることもないか)
記憶がずっと戻らないんじゃないか、という不安は若干あるものの。
さっき少し話した感じだと、これまでの雪と大きく変わったところはなかった。
伯父さんの言うとおり、兄妹であるという事実は俺たちにとってさほど重要なものではなかったのかもしれない。
「さて、雪の話はひとまずこのぐらいにして――」
と、伯父さんが切り出したところで。
バタバタという足音が廊下のほうから聞こえてくる。
同時に耳に届く、甲高いソプラノの声。
「優希お兄ちゃん! ……目を覚ましたってホント!?」
聞き間違えるはずもない。
どうやらもうひとりの妹がやってきたようだ。
勢いよくふすまが開き。
その向こうから、小柄な少女が姿を現した。
俺は軽く手を上げてみせる。
「おぅ、歩。よかった、お前も無事だったんだな」
「ッ……!」
俺の顔を見るなり、歩は一瞬泣きそうな顔になって。
「お……お兄ちゃぁぁぁぁん!」
「お、おい、歩――!」
嬉しそうに飛びついてくる歩。
ヤバい、とは思ったが、下半身を布団に突っ込んだ状態では素早く身をかわすこともできず。
「――ッ!!」
歩の全体重を受け止めた瞬間、わき腹を中心にこの世のものとは思えない激痛が走った。
「お兄ちゃん! 優希お兄ちゃん! 無事でよかったッ!」
「……ッ! ッ!!」
「わ、私、このまま起きないんじゃないかって、ずっとずっと――って、あれ……?」
息が詰まり、声も出せずに悶絶する俺。
首筋に抱きついてきた歩も、どうやらそんな俺のリアクションに気づいたようだ。
「……あ、えっと」
歩はゆっくりと俺から離れ、少し顔色をうかがうような上目づかいになる。
「あ、あの……ごめんなさい。嬉しくなっちゃって、つい――」
そんな歩に対し。
俺はくわっと目を見開く。
「……つい、で済むかぁぁぁッ! 少しは後先考えろぉぉぉぉぉッ!」
振り上げたげんこつ。
歩が反射的に縮こまって頭を抱える。
「うわわッ、ごッ、ごめんなさいーッ!」
とはいえ、もちろんそれを振り下ろしたりはしない。
こいつはこいつなりに俺の容態を心配してくれていたのだろうから。
「……ったく」
それで怪我の状態も考えずに飛びつくあたりはおっちょこちょいすぎるとは思うが、まあこいつにそれを言うのもいまさらだろう。
俺は握り締めていた拳を開き、ポンと歩の頭の上に置く。
「……ほら。心配かけて悪かったな」
「あ……」
歩はちょっとびっくりしたような顔をしてから安心した表情になって、
「うん……ホントにゴメンなさい。なかなか目を覚まさなかったから、私、ホントに不安で不安で……」
「わかってる。……ああ、そういや」
そんな歩の言葉で思い出し、俺たちのやり取りを笑いながら見ていた伯父さんに声を向ける。
「伯父さん、今日は何曜日だ? 俺はどのぐらい寝てた?」
「今日は火曜日だ。お前たちが運ばれてきたのが土曜の夜だから、2日半ってところだな」
2日半。
思ったより時間が経っている。
状況はあれからどうなったのだろう。
雪のことで後回しになってしまっていたが、本来なら一番最初に聞かなければならないことだった。
ただ、俺の表情からそれを察したらしい伯父さんが先に口を開く。
「御烏と水守の動向についての話もしなきゃならんが、それは夕方にでもしよう。私もこれから少し用事があってな」
「……悠長なこと言ってて大丈夫なのか? 神村さんや緑刃さんは――」
そんな俺の言葉を手で制し、伯父さんはゆっくりと立ち上がった。
「少なくとも、そんな状態のお前にできることは今はなにもない。お前はまずケガを治すことと……ああ、そうだ。午後になったら由香ちゃんに連絡でもしてやってくれ」
「由香に?」
「ああ。学校には家の都合でしばらく休むと話してあるし、彼女の耳にも入ってるだろうが、急にひとりにされて不安がってるだろうからな。声でも聞かせてやれ」
「ああ、それはいいけど……」
確かに家もあんな状態だ。
由香だけでなく、直斗もなにごとかと心配しているかもしれない。
「それなら先に直斗に連絡して、それから伝えてもらうか。そのほうが話が早い気がする」
思いつきで俺はそう言ったのだが、それに対して歩が反応した。
「あ、直斗さんはちょっとダメかもー……」
「は? なんでだ?」
「それは――」
歩が伯父さんのほうを見る。
伯父さんが意味ありげな視線を俺に向け、ふすまを開けた。
「……ん?」
視線を動かす。
気づかなかったが、ふすまの向こうにちょうど別の人影が現れたところだった。
そして――
「……は?」
その人物を見て、俺は驚愕した。
「や、優希。ようやく目を覚ましたんだってね」
「……な」
温和な口調。
男にしては小柄なシルエット。
そして眼鏡の奥の知的な表情と、かすかに浮かべた笑み。
よく見知ったその人物は、本来"こちら側"にいるはずのない人物。
「な……直斗ぉッ!?」
神薙直斗、その人だったのである。