3年目5月「記憶障害」
「あとは実際に見たほうが早いだろう」
記憶障害。
雪の身に起きたその症状について聞かされたとき、俺の顔はかなり青ざめていたに違いない。
「起き上がれるか、優希? 無理なら連れてくるが」
「いや、大丈夫だ」
体の痛むところをかばいながら、ゆっくりと起き上がる。
(記憶障害……か)
あえてそういう表現をするからには、俺のように気を失う直前のことだけ覚えていない、というようなレベルではないのだろう。
日常生活に支障はないのか。
回復の見込みはあるのか。
伯父さんの後ろについて木張りの長い廊下を歩きながら、俺の胸にはいくつもの不安が去来していた。
だが、すぐにそれを問いかける気にもなれないまま。
やがて俺たちはひとつの部屋の前へとやってきた。
「瑞希、入るぞ」
中には瑞希もいるらしい。どうやら無事だったようだ。
ということは、おそらく歩も大丈夫だろう。
「パパ? ええ、いいわよ」
瑞希の返事は思いのほか落ち着いていた。
それは雪の症状の軽さを示すものか、あるいは単に時間の経過によって落ち着いただけなのか。
そういえば、あれからどの程度の日数が経過しているのかもわからないままだった。
ふすまが開く。
朝陽の中、そこにあった人影はふたつ。
部屋の中央付近に敷いてある布団の横には、朝食らしき膳を手にしている瑞希。
そして布団の中。
そこには病衣のようなものに身を包み、上半身だけを起こした雪の姿があった。
(体は……平気そうだな)
その点だけ確認して、ひとまず安堵。
「どうしたの、パパ――って」
瑞希の視線が動いて俺の姿を確認すると、少し驚いたような顔をした。
「優希、あんたいつの間に――」
そんな瑞希の疑問の言葉をさえぎるように。
「……ユウちゃん!」
「えっ……?」
瑞希と同時に俺の姿を認識した雪が、パッと顔を輝かせて喜びの声を上げた。
「よかった……もう目を覚まさないんじゃないかと思って、私――」
「あ、ちょっと雪ちゃん!」
布団を抜け出そうとした雪を、瑞希が慌てて制止する。
「ダメよ。まだ動き回れるような体じゃないんだから」
「あ……うん。ごめんね、瑞希ちゃん」
素直に従う雪。
ただ、その視線は嬉しそうにこちらに向けられたままだった。
(……あ、あれ?)
そんな雪の姿に違和感を覚える。
……いや、違うか。
違和感がないのが違和感なのだ。
記憶障害。
そう聞かされていたはずである。
あなた誰? とか。
私は何者なの? とか。
そういう展開を想像していた俺にとって、雪のこの態度はあまりにいつもどおりすぎたのだ。
「おい、雪……お前、平気なのか?」
思わずそう問いかける。
が、雪から返ってきた答えは俺の想像とはまったく別物だった。
「ううん、まだあちこち痛くて。だから、ほら。瑞希ちゃんに食べさせてもらってるの。そういえば昔、風邪をひいたときはユウちゃんにもよく食べさせてもらってたよね?」
「……いや、そういうことじゃなくてだな」
チラッと後ろに視線を送ったが、伯父さんは黙って見ているだけだ。
「おい、雪。1+1は?」
「田んぼの田?」
「いや、なぞなぞじゃなくてだな。……頭がボーっとしたりとか、いつもと違う感じがするとか、そういうのはないのか?」
「いつもと同じだけど?」
雪は問いかけの意味が理解できないようで、小さく首をかたむけてみせた。
「いつもと同じ、頭の中はユウちゃんのことでいっぱいだよ」
「……それって正常じゃなくね?」
「ううん。これで正常」
そう言って笑って見せる雪。
まあ冗談であれ、本気であれ。
そういう態度がいつもどおりのこいつであることに違いはない。
とすると、これはいよいよおかしい。
「おい、伯父さん」
「わかった」
俺がうながすと、伯父さんは心得たとばかりに部屋の外へ出た。
不思議そうな雪を尻目に、俺もいったん外へ出る。
「……どういうことだ? どこもおかしくないだろ」
もしかして、またかつがれたのだろうか――と、そんな疑いを言葉に乗せて詰問すると、伯父さんは真面目な表情を崩さないままで答えた。
「そうか? いつも兄のことで頭がいっぱいな妹など、そうそういないと思うがな」
「いや、そりゃそうだけどさ。あいつはいつもそういう冗談を平気で言うだろ」
「冗談、か。……ふむ」
伯父さんは少し考え込むような顔をして、
「事実か願望か、あるいはウソから出たなんとやらか。さて」
「おい、なにブツブツ言ってんだ? あんたの言う記憶障害がなんのことなのか、はっきり教えてくれ」
「ま、これ以上引っ張っても仕方ない。見せてやるか」
そう言って伯父さんは再び部屋の中へ入っていった。
「……?」
腑に落ちないまま、俺もそのあとに続く。
「伯父さん? ユウちゃん? 2人ともどうしたの?」
不思議そうな顔の雪に対し、伯父さんは少し笑みを浮かべながらいつもより少し優しい口調で問いかける。
「雪、悪いがまた同じ質問をさせてもらうぞ。……私が誰かわかるか?」
「伯父ちゃんだよ。雅司伯父ちゃん」
前にも同じことを聞かれていたようで、雪は戸惑うことなくそう答えた。
「そうだな。ではこの娘は?」
「瑞希ちゃん。頼りになる従姉のお姉ちゃん」
なんの問題もない。
伯父さんはいったいなにをやっているのだろうか。
瑞希のやつもさぞかし呆れた顔をしているのだろうな、と。
そう思いながら彼女のほうを見ると、
(……瑞希?)
予想に反し、瑞希はなにやら不安そうな表情をしていた。
「では――」
当然のように、伯父さんがもうひとつの問いを雪に投げかける。
「この男は誰だ?」
その指が向いた先には俺の顔。
瑞希の表情のこともあって俺もやや不安を覚えていたが、雪はやはり当たり前のように答えた。
いつものように冗談っぽく。
「ユウちゃん。不知火さんちの優希ちゃん」
伯父さんが続ける。
「では、雪。その優希ちゃんは何者だ?」
「ユウちゃんは私の一番大事な人だよ」
相変わらず恥ずかしいことを平気な顔で答える雪。
だが、伯父さんはさらに突っ込んだ。
「大事な人? 具体的にはなんだ?」
「うーん?」
そこで雪が初めて言葉に詰まった。
が、すぐに、
「大切な人。一番好きな人のことかな?」
いつもの調子で答える。
……いつもの調子?
(いや、ずいぶんと悪乗りしてるか……?)
伯父さんの問いかけが求めている答えは言うまでもない。
"兄"だ。
雪もそのことはわかっているはず。
実際、瑞希に関してはすぐに従姉だと答えているのだから。
「雪、もっと明確に答えてみろ」
伯父さんがさらに追及する。
「お前とこの男の関係は? お前にとってこの男は何者だ?」
「……」
雪が再び言葉に詰まった。
少し天井を見上げるようにして考えている。
……ふざけているようには見えない。
「おい、雪。お前、まさか――」
そこでようやく。
俺は伯父さんの言う"記憶障害"の正体を悟った。
「……わからない。でも、私の大切な人」
「……」
「……」
伯父さんと瑞希が視線を合わせる。
どうやら2人は雪の回答をあらかじめ予測できていたようだ。
そして俺はひとり、呆気に取られていた。
(……どういうことだよ、そりゃ……)
雪の記憶障害。
それは、俺たちが“兄妹であるという事実だけ”が思い出せないという、なんとも信じがたい症状だったのである。