3年目5月「代償」
目が覚めた直後の俺を襲ったのは、いくつかの違和感だった。
(ん……? 朝、か……?)
窓からさしこむ柔らかな日差し。
温かな布団の感触。
ここまではいつもと変わらない。
ただ、俺の部屋にはないはずの畳の匂いと、すぐそばで見守っている誰かの気配。
それに、
「――いてッ……!」
体中のあらゆる場所、特に背中とわき腹を襲う激痛。
明らかにいつもの朝ではなかった。
(なんだ、こりゃ……昨日なんかしたっけ……)
ゴールデンウィークの特訓はもう終わったはずだし、学校でも特には――
(ん……なんかおかしいぞ……?)
記憶が妙にぼんやりしている。
少し混乱しているようだ。
と、そこへ。
「……優希さん?」
「え?」
「気がついたのですね、よかった」
最初に感じた、そばで見守る誰かの気配。
それはひどく聞き覚えのある、しかしとても懐かしく思える声だった。
「でも体を動かすときはゆっくり、傷に障らないようにしてくださいね」
太陽の日差しに目が慣れ、声の主である黒いシルエットが人の姿に変わる。
ピンと伸ばした背筋。
ひとつに束ねた長い三つ編み。
凛とした気配と、それでいて穏やかな雰囲気。
純和風な――俺が言うのもなんだが、かなりの美人。
「もしかして、宮乃伯母さん……?」
「ええ。そうですよ」
「あれ、なんで……」
まぶしい朝陽の中、布団の脇に正座していたのは瑞希の母であり、俺や雪にとっても母親代わりである宮乃伯母さんであった。
「なんで宮乃伯母さんがここに……いてッ!」
「ほら、優希さん。無理はしないようにって言ったでしょう?」
優しくさとしてくれる宮乃伯母さん。
が、俺にはどうにも状況がつかめない。
(包帯……? 怪我してるのか、俺……そういや――)
再びわき腹に走った激痛。
……そこに雨の景色と、史恩の顔がフラッシュバックした。
「!」
それでようやく思い出す。
そう。
あの日、俺たちは桐生と史恩の襲撃を受け戦ったのだ。
そして劣勢の状況の中、最後の力を振り絞って桐生に抵抗し、その後は――
(確か、桐生を――)
どうだっただろうか。
その先がどうしても思い出せなかった。
こうして生きているということは撃退に成功したということなのだろうが、しかし。
次に脳裏によみがえったのは、血まみれになった雪の姿。
「……伯母さん、雪は!? 雪は無事なんですか!?」
「優希さん、すぐに説明しますからまずは落ち着いてください」
宮乃伯母さんがそう言ったところで、スタン、と、なんの前触れもなく部屋のふすまが開く。
「おぅ、目を覚ましていたか、優希」
部屋に入ってきたのは白い――正確には色あせて灰色に近くなった作務衣姿の雅司伯父さんだった。
「伯父さん……!」
宮乃伯母さんがいるということは、伯父さんがいるのも当然のことだ。
つまりここは、現在伯父さんが拠点としている御門の施設かなにかなのだろう。
「伯父さん! 雪は無事なのか!?」
「……」
伯父さんはひとつ息を吐き、後ろ手にふすまを閉めると、ゆっくりと伯母さんの隣に腰を下ろした。
「こちらも聞きたいことがある。まあ順番にな。宮乃、すまんが席を外してくれんか?」
「わかりました。……優希さん。くれぐれも無茶はいけませんよ」
少し心配そうな顔をしながら、伯母さんは部屋を出て行った。
「……さて」
そんな伯母さんの後ろ姿を見送って、伯父さんは改めてこちらに向き直った。
その表情はいつものひょうひょうとしたものではなく、かなり厳しい。
その様子に嫌な予感が胸を過ぎる。
「伯父さん、まさか――」
「落ち着けと言っている。お前が騒いだところでなにも解決はしないし、起きてしまった事を無かったことにできるわけでもない」
「!」
その伯父さんの言い方は、明らかに"なにか起きた"ことを示唆するものだった。
焦りの感情が胸を渦巻く。
が、ぐっとこらえて伯父さんの言うとおり続きの言葉を待つことにした。
伯父さんが口を開く。
「さて、優希。最初に確認しておきたいのだが、お前、自分がどうしてここにいるのかをきちんと理解できているか?」
「……ああ。神村さんたちと敵対している悪魔狩りにいきなり襲われて戦いになった。やられそうになって、それで――」
「それで?」
「……」
もう一度思い出そうとする。
が、桐生に最後の反撃を試みようとしたあの後の出来事は、やはりどうしても思い出せなかった。
「苦戦して……最後のほうはなぜか覚えてない。ただ、雪がひどいケガだったことは覚えてる」
「……ふむ、やはりか」
「やはり? どういう意味だ?」
俺の問いかけに伯父さんは小さくうなずいてみせて、
「実はお前たちを直接助けに行ったのは楓のやつでな。あいつが言うには、到着したときには御烏と水守の悪魔狩りは退散したあとで、お前と雪だけが倒れていたらしい。つまりお前は最終的には自分の力で追い払ったということらしいのだが、楓はそのときに奇妙なものを見たそうだ。"白い炎"と言っていた。……覚えはあるか?」
「……」
白い炎。
少し思い出した。
「覚えてはいるけど……」
あれはなんだったのだろうか。
今にして思えば、不思議な現象だった。
「なるほど、お前自身にもよくわからんということか。……いいだろう。残りの質問は後回しにして、雪の容態について話をしておこう」
伯父さんの言葉に、意識が思考から現実へと引き戻される。
「残念だが、雪は――」
「!」
心臓が跳ね上がった。
「――無事だ」
「……」
ゆらり、と、俺の背後に炎が浮かぶ。
怒りの比喩表現ではなく、ホンモノの炎だ。
「おい待て、優希。この距離でその炎をぶつけられたら、いくら私でも無事にはすまんぞ」
「……そうだな。こっちも無事ですます気はない。てめえ、冗談ですむこととすまないことの区別もつかなくなりやがったか」
一瞬、本気で殺意がこみあげてしまった。
……が。
「優希」
伯父さんはいつものように笑ってごまかすでもなく、まじめな顔のまま言葉を続ける。
「別にふざけたわけではないさ。どっちから先に伝えようか迷ってな。悪いほうからと思ったんだが、お前の表情を見て気が変わっただけのことだ」
「? ……どういう意味だ?」
「無事は無事だ。ただ、命が助かったというだけで問題がなかったわけではない。……そういうことだ」
「……」
ドク、ドク、と、今度は少しずつ心臓の鼓動が早くなった。
今度は冗談ではない。
いや、伯父さんの言うとおり最初から冗談のつもりはなかったのだろう。
そして伯父さんは続けた。
「優希。いったん話を戻すが、白い炎とやらはお前が生み出したもの。それに間違いはないな?」
「……ああ。雪に"万象の追跡者"を使った結果……だと思う。けど、あのときは必死だったから同じことをやれって言われてもできるかどうかは――」
伯父さんが目を細める。
「"万象の追跡者"が、『本来そういうものではない』ということは理解しているか?」
「それは……なんとなく」
確かにあのとき発現した力は、俺が伯父さんとの修行で覚えたものとは少し違っているようだった。
ただ、なぜそうなったのかは俺にもよくわからない。
そんな俺の顔を見て、伯父さんは腕を組んで少し考えるような表情をしながら、
「これは私の推測だが、その白い炎というのはおそらくお前と雪の力が融合したものだろう。本来の"万象の追跡者"の効果に、なにかの弾みでプラスアルファの力が加わった。その結果生み出されたものだと考えられる」
「プラスアルファの力ってのは?」
「極限に追い詰められた状況とか、お前と雪の魔力の相性とか、まあ色々考えられる要素はあるが……実は重要なのはそこではない」
ひとつ、間をおく。
「ここで重要なのは、まったく未知の力が発現したことと同じように、その力がお前たちの体に与える影響もまた未知数だということだ。……優希。お前、力を使った後のことをよく覚えていないと言ったな?」
「ああ。なんだか記憶が妙に混乱していて……って――」
そこで俺はようやく気づく。
どうして伯父さんが白い炎の話を先にしたのか。
記憶の混乱。
それがもし、白い炎と関係するものだとしたら――
「おい、伯父さん……もしかして、雪の身に起きた"問題"ってのは――」
伯父さんはうなずいて答える。
「“記憶障害”だ。お前よりもはるかにひどい症状の、な」
「記憶……障害だって……!?」
その意味が俺の頭の中に浸透するまでには、かなりの時間が必要だった。