3年目5月「おわりの日」
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強い雨に閉ざされた町は、まだ午後3時を回ったばかりだというのに薄暗闇に包まれていた。
失踪事件の影響もあって、ほとんど人影の見えない住宅街の路地。
ザザザザザと、勢いよく地面を叩く雨。
「ぁっ……はっ……」
その雨の音に混じるのは、荒い息づかいと水たまりを跳ねる足音だった。
「はっ……はぁっ……!」
プールの中にいるのとそれほど変わらないような雨の中、その人物はずぶ濡れになって駆けていた。
後ろで束ねた髪はピッタリと首筋に張り付き、大量の水を含んだ衣服は体に密着して全身の熱を奪っていく。途切れがちな呼吸はその人物の体力がかなり消耗していることの証で、流れ落ちる雨には少量の血の色も混じっていた。
「……」
ときおり後ろを気にする素振りを見せながらも速度をゆるめることはなく。
もしも雨が降っていなかったなら、彼女の両目からあふれる涙に誰もが気づいたことだろう。
そして向かった先は、ひと気の少ない住宅街の一角――
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(……まだ降ってんのか)
土曜日のこの日、特になにをするでもなく自室でゴロゴロしていた俺は、夕方になってようやく部屋を出ることにした。
一階に降りる階段の窓から見えた景色は雨一色。
一昨日、あのゴールデンウィークの最終日に降りだした雨は、多少の強弱をつけながらも今日のこの時間までほとんど途切れることなく降り続いていたようだ。
「あら? 今日はバイトじゃなかったの?」
リビングに顔を出すと、ソファでファッション雑誌を読んでいた瑞希がそう言って顔を上げた。
「ああ、まあな。お前こそ部活じゃなかったのか?」
「今日は休みよ。……どうかした? 暗い顔してるけど」
「そうか? 別になんもねーけど」
ひと目見ただけで見抜かれたってことは、俺は自分が思っていた以上に憂うつな顔をしていたらしい。
俺はごまかすように瑞希に問いかけた。
「雪と歩はどっか出かけたのか?」
「お風呂よ。この天気だもの。なるべくなら外に出たくないわ」
「風呂って、ふたり一緒にか? つか、お前らっていっつも誰か風呂に入ってるよな」
瑞希は少し笑って、
「あんたがそういうタイミングで下りてくることが多いだけでしょ。ま、雪ちゃんは入ると長いってのもあるけどね」
「ほっとくと1時間以上入ってるもんな、あいつ」
そう言いながら向かいのソファにゴロンと転がると、それを見た瑞希が眉をひそめた。
「あんたねぇ。なんでわざわざ人の目の前でゴロゴロすんのよ」
「さっきお前も言ったろ。こんな天気じゃテンションも上がらねーし、ゴロゴロするぐらいしかやることねーんだよ」
いや。
正直に言えば、俺のテンションが上がらないのは天気のせいだけではない。
(……そりゃさ。言い過ぎだったかもしんねーけど)
気分転換に部屋を出てきても、思考の行き着く先は一昨日のことばかりだった。
神村さんや緑刃さんとの口論。
そして、捨てられた子犬のようなあの表情。
「……はあ」
俺にだって神村さんや緑刃さんの主張は理解できていたつもりだ。
ただ、それならこっちにだってこっちの言い分があるわけで、少しぐらいは妥協点というか、そういうものを探してくれてもよかったんじゃないかと思うのだ。
いくら相手が悪魔だからって、あんな有無を言わさずの――
「……はあ」
「……」
瑞希が無言でこっちを見つめているのに気づき、わざとらしく寝返りを打ってその視線から逃れる。
こんなときに限って、神村さんと瑞希が従姉妹だってことを思い出してしまった。
(……どうすりゃ、よかったってんだよ)
自分の意見を曲げる気にはなれなかった。
俺はあの少女の必死の想いに心を動かされ、助けてやりたいと思ったのだ。
俺はどんなことであれ、自分の気持ちに正直にやりたい。
もちろん必要があればその結果に責任を負う覚悟もある。
でも、神村さんにはそれができない。
それは組織というものを抱えているから。
自分の気持ちだけに従って行動することはできないのだ。
……神村さんはあのとき、どういう気持ちでいたのだろうか。
「……なぁ、瑞希」
「なに?」
瑞希はファッション雑誌に視線を落としたまま返事をした。
「たとえば今、お前の目の前に幼い子どもがいるとしよう」
「いるわね。精神年齢の幼い子どもが」
「いや、俺の話じゃねーから」
「……」
怪訝そうな目をこちらを向けてくる。
マジメな話だと気づいてくれたようだ。
俺は続けた。
「そうだな……お前は広大な海のど真ん中でボートに乗ってることにしよう。で、同じボートには10人ぐらい乗ってて満員。あと子どもひとりぐらいは乗れるかもしれないが、もしかしたら沈んじまうかもしれない」
「カルネアデスの舟板?」
「カルネアデス? なんだそりゃ?」
聞いたこともない単語が出てきて困惑していると、瑞希は小さくうなずいてファッション雑誌をテーブルに置いた。
「要するに自分たちの身を危険にさらしてまで溺れている人を助けるかって話でしょ? 他に10人もいるなら本来の寓話とは意味が違ってくるだろうけど」
「ああ、よくわからんけど、たぶんそれで合ってる。で、お前ならどうする?」
すると瑞希は意外なほどあっさりと答えた。
「わからないわよ、そんなの」
「わからない?」
面倒くさくて適当に返事をしたのかと疑ったが、どうやらそういうわけではないようだ。
「だってそうじゃない。一緒に乗ってる人がたくさんいるならその人たちの意見もあるでしょうし」
「じゃあ、全員がお前に判断を任せてるって前提で」
「うーん、それなら状況次第ね。とりあえず乗せようと試みて、沈みそうだったら見捨てるかもしれない。あと、たとえばその人があんただったら見捨てるけど、雪ちゃんだったら自分が代わりにボートを降りるかもしれないわ」
こういうときでもしっかり憎まれ口を挟んでくるところはこいつらしい。
「ただね。どういう状況でもひとつだけ確実なのは――」
一呼吸。
「できる限り全員が助かる方法を考える。見捨てるか自分が降りるかを考えるのはその後の話よ」
「できる限り助ける、か。……いや、そうだよな」
そんな瑞希の返答に、俺は少しだけモヤが晴れたような気持ちになった。
そう。
そうなのだ。
あのとき俺があんなにもカッとなってしまったのは、神村さんや緑刃さんたちの対応に、その"できる限り"がまったく見られなかったからなのだ。
(けど、本当にそうだったのか?)
冷静になった今、ふとそう思う。
あのとき俺が聞いたのは、少女を送り返したという結果だけだった。
確かに結論が出るまでの時間はひどく短かったが、具体的にどういう対応だったかまでは聞いていない。
本当にただ送り返しただけで、すべてを収めようとしたのか。
……あのときの言い方だとそう受け取るのが一番自然だろう。
ただ、相手はあの不器用な神村さんだ。
彼女はどんなときでも言い訳がましいことを口にしたがらないところがある。
あの少女をこちらに残すことは組織として絶対に無理であっても。
もしかしたらその裏で、なんらかの次善策を講じていたかもしれない。
彼女の立場なりに、それこそできる限りのことを。
もしも、仮にそうだとしたら。
(……ひどいこと言ったのかもしれない)
明らかに動揺した、神村さんのあの表情が頭から離れない。
「……なんなのよ、今日は」
そんな俺の深刻な表情を見てか、瑞希があからさまに不快そうな顔をした。
「急に変な質問したと思ったらこれみよがしにため息なんてついて。ホント気味悪いんだから」
「気味悪いってことはねーだろ。俺にだって悩みのひとつやふたつあるんだぜ」
少し憮然として反論すると、瑞希は俺以上に大げさなため息をついてみせる。
「ガラにもなくなにか悩んでるわけ? だったらそんなとこでゴロゴロしてる場合じゃないでしょ」
「はあ? どういう意味だよ」
すると瑞希は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、
「あんたみたいなバカは悩むより動いたほうが早いってことよ。そのカラッポの頭じゃ考えるだけ無駄なんだから。さっさと突撃でも玉砕でもして終わらせてきなさいな」
「……てめえ」
相変わらず、なんて口の悪さだ。
……が。
確かにこいつの言うとおりかもしれない。
「……ちっ」
上半身を起こす。
考えていても答えは出ない。
それはそのとおりだった。
まずは真相を確認するべきだろう。
あの少女側の事情、悪魔狩り側の事情、神村さんの考え。
謝るかどうかを考えるのは、そのあとだ。
俺は電話台へと向かった。
直接行くのが一番だとは思ったが、いきなり行って会えるとも限らないし、とりあえず連絡してみよう。
暗記した番号をプッシュすると、すぐに呼び出し音が鳴り始めた。
つながるのを待つ間、壁にもたれてリビングのガラス戸から外を眺める。
トゥルルルル、トゥルルルル
なかなかつながらない。
雨も降り止む気配はなく――
「あがったよー」
頭をタオルで覆った歩が脱衣所から出てくる。
その奥からはガーッというドライヤーの音が聞こえてきた。
「ほら、歩。あなたの好きなドラマの再放送、もう始まるわよ」
「あっ、忘れてた! 瑞希お姉ちゃん、ありがとー」
歩はこちらに笑顔を見せた後、瑞希のところまでスキップするように駆けて行ってその隣に収まる。
リモコンを手に取り電源を入れると、何度も目にしたことのあるチョコレートのCMが流れた。
そしてドライヤーの音が途切れ、脱衣所から今度は雪が姿を現す。
「お風呂空いたよー」
そう言いながら横を通り過ぎると、風呂上がり特有の香りが俺の鼻先をくすぐった。
「りょーかい」
電話はつながらない。
珍しいことだ。
いつもは神村さんの家族――それを演じている人物が必ず応対してくれていたのに。
(珍しい、な)
なんだろうか。
この胸を覆うモヤモヤしたものは。
それにくわえて――
……突然の耳鳴りが、止まない。
これまでで一番大きな、得体の知れない不安が俺の中で急速にふくれあがっていた。
「雪おねえちゃーん。ドラマはじまるよー」
「あ、うん。でもその前にユウちゃんのお昼ゴハン用意するね」
「だから甘やかしすぎよ、雪ちゃん。もうお昼って時間じゃないでしょうに」
そして、俺の嫌な予感は的中してしまう。
"その異変"は突然。
そこにあったはずの境界線を踏み越えて。
この日常に、あっさりと足を踏み入れてきたのだ。
「でもユウちゃん、朝からなにも食べてないんだもの。……ね、ユウちゃん。なにが食べた――」
こっちを見た雪が言葉を止めたのは、俺の浮かべた表情に気づいたからだろう。
「な……!」
俺の目はガラス戸の外。
そこに釘付けになっていた。
その場にいた全員が俺の視線を追って。
そして全員が、俺と同じように驚愕の表情を浮かべた。
ガラス戸の向こうに見える庭。
雨の重みで少しうなだれたようなスイートピーの花だんの前。
そこに、血染めの装束を身にまとった悪魔狩りの少女が、ずぶ濡れになって倒れていたのだった――。