3年目5月「切り札」
ゴールデンウィーク5連休の最終日。
つまり山ごもりの最終日でもあるこの日。
俺は相も変わらず走らされていた。
天候はくもり。
最近は走りなれた獣道もうす暗く、吹きすさぶ風が周囲の枝葉を大きく揺らしていた。
「なぁ、美矩……」
「なんです?」
「今日、なんか、きつくないか、いつもより……」
俺の声が途切れ途切れになっているのは、別にスタッカートをきかせてみたとかではない。
単純に息が苦しいのだ。
「そうですか? 湿度のせいですかね?」
「いや、明らかに、距離が……」
「気のせいです」
すっとぼける美矩の態度が、逆に気のせいではないことを確信させる。
どうやら最終日ということで、トコトンまで俺を追い詰めようというつもりのようだ。
「はぁっ、はぁっ……さ、さすがにきちぃぞ……」
結局美矩の足が止まったのは、俺の感覚でいつもの2.5倍ほどの距離を走ったころだった。
「ふぃーっ……さすがにきつかったですねー」
「ほら、見ろ……お前だって……いつもより疲れてんじゃ……ねーか……」
「気のせいですよー……」
草むらに大の字に転がった俺。
その隣に美矩もペタンと座り込み、肩を落として荒い呼吸をしている。
しかしまあ。視点を変えて見てみれば、こいつがこうして汗を流すほどの距離を、俺もどうにかこうにかこなせるようになったということか。
なんだかんだ、この短期間で基礎体力のほうも少しは伸びたということだろう。
そんなことを考えながら、視線を真正面、つまりは上空に向けてみる。
ネズミ色の空は今にも泣き出しそうだった。
「雨……降りそうだな……」
「雨の中の特訓ってのもスポコンの定番ですよねー……」
「いや、そういうの求めてねーから……」
俺がそう言ったとたん。
……ポツ。
ポツ、ポツ。
そばからこれである。
「おい、美矩、雨……」
「今すぐ走って帰る気力、あります?」
そう言って美矩はひざに手をつきながら立ち上がった。
「このザマが見えねーのか。あるわけねぇだろ……」
美矩と違って、こっちはまだ立ち上がるのも無理だ。
どうやら雨に濡れるのは覚悟するしかなさそうである。
「水もしたたるナイスガイってやつですね」
「中途半端に英語混ぜんな」
ポツ、ポツポツと雨足が急に速くなってきた。
泥まみれになるのはさすがにイヤなので、ひとまず上半身を起こす。
そんな俺の横で、美矩はゴムで髪をまとめながら言った。
「あたしはあんま濡れたくないんで先に戻りますね。優希兄様はマイペースに戻ってきてください」
「おい、こら。引率の先生が先に帰っちまうつもりか?」
「そーですね。じゃあ最終日ですし、今を持って卒業ってことでひとつ」
パチン、と、ゴムを留め、美矩が腰に手を当てる。
「女の子は体を冷やすなってよく言うじゃないですか。あ、マイペースでもいいですけど、このあと影刃様の修行も控えてますからね。といっても影刃様は見崎に戻る予定だそうで、今日は自習ですけど」
「マイペースなのはお前のほうだよ、ったく」
「うわっ、また強くなってきた。んじゃ、あたしは行きますねー」
手を振りながら美矩が軽快に坂を下りていく。
やれやれ、と、俺もどうにかひざに手をついて立ち上がった。
雨はみるみるうちに強さを増している。
このままだと、どしゃ降りどころか落雷にも気をつける必要がありそうだ。
「……行くか」
少しずつでも進んでおこう、と、さらに暗くなった獣道をゆっくりと歩き出す。
思ったよりも体は動いた。
どうやら想像以上に体力がついていたようだ。
パンパンに張った太ももを軽く叩き、少しスピードアップ。
悪魔の力を解放すればもっと楽に走れるはずだったが、少し考えてそれはやめておくことにした。
マイペースとはいえ、この帰り道もこの先無駄にはならないはずだ。
眼前に迫る細い枝を手で払いつつ、ぬかるみ始めた地面に注意しながら下り坂を降りていく。
雨はさらに強く。
やがて上空が明るく光って、ゴロゴロという音が聞こえてくる。
幸いにして雷は遠そうだ。
――と。
「……ん?」
その気配に俺が気づいたのは、悪魔狩り本部まで3分の1ほどの道のりを進んだときのことだった。
雨の降りしきる山。
木々に囲まれた獣道。
その奥に、微かにゆらゆらと揺れる赤い光があった。
(なんだ、あれ……?)
足を止め、目を凝らしその正体を確認しようとする。
どうやらその赤い光はこちらに近づいてきているようだ。
しかも――
(人の声?)
複数の、しかも争うような声だった。
(こんなところで――?)
ここら一帯はすべて御門の管理する土地で、ゲートや悪魔狩りに関する多くの施設があることから、一般人が入り込むことがないように厳重に監視されている場所だ。
そんな場所で聞こえてくる、いさかいの音。
おそらくはただ事ではない。
「……」
俺は少しだけ美矩を捜したが、もちろんずっと先を行く彼女の気配はとっくに消えている。
呼び戻すことは無理だろう。
それを確認して、俺はひとりで赤い光の方へ向かうことにした。
声の発生源はそれほど遠くはない。
慎重に、雨に紛れる程度に足音を殺しながら近づいていく。
すると――
「あれは……悪魔、か?」
密度の濃い木々にさえぎられた視界の奥。
そこでは真紅の髪を持つ炎魔が数名、なにごとか言い合いながら対峙していたのだった。
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雨が降り出すより2時間ほど前。
「これで安心しました。最近の大きな戦いの影響で結界にほころびが出ているのではないかとずっと心配しておったのです」
50歳半ばの小柄な男はそう言って、玄関まで見送りにやってきた沙夜と緑刃を振り返った。
「しかしさすがは御門の悪魔狩り。多くの幹部を失っても揺るがぬ組織力に感服いたしました」
そんな男の言葉に、沙夜は背筋をピンと伸ばし淡々と答える。
「いいえ、あの戦いで多くの仲間を失ったことは我々にとって大きな痛手です。もし以前と変わっていないように見えたのであれば、残された者がその穴を埋めようと必死に役目を務めているからでしょう」
なるほど、と、初老の男は小さくうなずく。
「いずれにしろ結界の無事が確認できてひと安心です。ここが破られるようなことでもあれば、御門だけではなくすべての悪魔狩りの、そして世界の危機ですからな。……いや、御門の光刃様にここの結界の重要性を説くなど、釈迦に説法でしたか」
そう言って男は微笑みながら一礼し、御門本部を去っていったのだった。
「……ふう」
自室に入るなり小さく息を漏らした沙夜に、後ろをついてきた緑刃が心配そうな視線を向ける。
ただ、振り返った沙夜はいつもと変わらぬ口調で緑刃に問いかけた。
「緑刃さん。今日は他にも来客予定がありましたね?」
「はい。水守の雨海様が16時にお越しになる予定です」
「水守ですか……」
表情こそ変わらなかったものの、沙夜の声のトーンは半音ほど下がっていた。
悪魔狩り"水守"は全国に数ある悪魔狩りの中でもっとも古い組織のひとつだ。
もちろん同じ悪魔狩りとして協力し合う間柄ではあるのだが、近年は様々な理由から応対に気を遣わなければならない相手だった。
緑刃が言う。
「受け答えは基本的に私と影刃様で行います。光刃様は事前に打ち合わせた質問以外にはお答えにならないようお願いします」
「わかりました。すみません、すべてお任せしてしまって」
再び沙夜の口から小さな息が漏れ、緑刃は気づかれない程度に眉をひそめた。
沙夜は本来、人前でこうも簡単にため息をついてみせるような人間ではない。
この御門の当主として、自分の弱みを軽々と見せてはならぬと幼いころから教育されてきているからだ。
にもかかわらず、である。
もっとも信頼する緑刃の前だからという理由があるにせよ、沙夜の心に余裕がなくなっていることは明らかだった。
そこで緑刃は提案する。
「光刃様。16時まではまだだいぶありますし、少しお休みになられたらどうですか? 昨晩も結局ほとんど寝ておられないご様子でしたし」
「いいえ。心配はありがたいですが、大丈夫です」
「ですが……」
緑刃は目を細めて沙夜を見つめた。
いつもより青白く見える顔には、普段はしていない化粧の跡が見える。
おそらくは目の下のクマや顔色の悪さを隠すためのものだろう。
顔色だけではない。
もともと肉付きの薄いほうではあるが、頬骨が明らかに以前よりも浮きあがって見えていた。
いいや、そもそも大丈夫なはずがないのだ。
4月に入って、この御門の忙しさは以前よりもさらに激しさを増していたのだから。
3月に発生した周辺の町での大量失踪事件。
その対応だけでも今の御門には手に余る事態だったが、それに加え、最近は各地の悪魔狩りによる訪問が相次いでいた。
沙夜や緑刃、それに影刃ら数少ない幹部たちは毎日のようにその対応に追われていたのである。
もちろん、味方である悪魔狩りたちがここを訪れることは本来であればなんの問題もない。
ただ、今は事情が違っていた。
竜夜によって奪われた神刀"煌"。
それによって維持されている"ゲート"の結界。
国内最大級であるこの御門の"ゲート"にはよその悪魔狩りも常に関心を持っており、ここを訪れる彼らはほぼ全員がその現状の確認を希望した。そのたびに沙夜たちは、"煌"が奪われた事実を隠すための対策を立てなければならなかったのである。
緑刃は沙夜を少しの間見つめた後、声色を少し明るくして言った。
「では、少し遅いですがとりあえず昼食にしましょう。すぐに用意させますので」
だが、沙夜はその提案に対しても首を横に振って、
「いえ。私はそれほどお腹が空いては――」
「いけません、光刃様。食欲がなくても無理にでも食べてください。それに私も少しお腹が空きましたので」
有無を言わさず、緑刃は人を呼んで昼食の支度を言いつけた。
そこまでされては沙夜も口を挟む余地はなかったようで、おとなしく食卓につく。
10分ほどして、一汁一菜の食事が部屋に運ばれてきた。
「そういえば光刃様。彼にはお会いになりましたか?」
箸を手にした緑刃が沙夜にそう問いかけた。
「彼というのは?」
「優希くんです。世間ではゴールデンウィークですが、その間ずっとここに泊まりこんでいるそうですよ。ご存知なかったですか?」
「いえ。聞いてはいましたが、会ってはいません」
緑刃に少し遅れて沙夜も箸を手にする。
「急に訓練を受けたいと言い出したのも、不知火さんにはなにか深い考えがあってのことでしょう。それを邪魔をするわけにはいきませんので。……美矩が言うには、かなり苦戦しているそうですけど」
そう言った沙夜の口もとに、ようやく小さな笑みが浮かんだ。
それを見た緑刃も少し笑って、
「光刃様は、彼のことをかなり高く買っておられるようですね」
沙夜は不思議そうな顔をした。
「どうしてそう思います?」
「楓のことをお話しになるときと同じような目をなさってます。最近は特に」
「そうですか」
完全に腑に落ちたという表情ではなかったが、沙夜は小さくうなずいて、
「不知火さんも楓さんも、こんな私にいつも大きな力を貸してくれますから。高く買っているかどうかはわかりませんが、信頼していますし、彼らからの信頼に応えたいとも思っています」
そんな沙夜の言葉に緑刃は無言のままうなずいて、目の前の焼き魚に箸を伸ばす。
そうしながら、緑刃は期待するのだった。
彼らと沙夜の間に築かれたその信頼が、彼女を助ける切り札になってはくれないものだろうか、と――。
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