2年目3月「後悔することのないように」
3月最終日。
気温はここ数日の間、2次関数っぽいカーブで上昇を続け、そこかしこには急激に春の息吹が芽生え始めている。
デパートの広告には新入生、新社会人というような単語が並び、失踪事件の影響が残ってはいるものの、4月から始まる新生活に胸躍らせる人々が町を行き交っていた。
そんな初春の日曜日。
「ほらほら、ファイトファイトぉ」
「はぁっ、はぁっ……」
神社の裏山にて。
俺は息絶え絶えになりながら、道ともいえないような獣道を必死になって駆け上がっていたのだった。
「ぜんぜん足が前に進んでないよ~! ギブ? ギブアップする?」
「っ……ざけんな……っ」
そんな俺の前を軽快に駆けていたのは、悪魔狩りの中でも数少ない顔見知り。
自称"歌って踊れる隠密"にして、神村家の便宜上の末妹、美矩であった。
(くそっ、あいつの体力どうなってんだ……)
そんな美矩を追いかける俺の体力はすでにすっからかんだ。
かろうじて残っていたのは、年下の女に負けてたまるかという意地だけだったが、それもそろそろ残量ゼロに近づきつつあった。
アップダウンの激しい道をフラフラと駆けながら、俺は少しずつ遠ざかっていく美矩の背中を恨めしく見つめる。
(化け物かよ、あいつ……)
いくら悪魔狩りの一員とはいえ、俺だってだいぶ前から早朝ランニングをほぼ毎日欠かさずやっていたし、技術はともかく基礎体力ではそうそう劣るまいと思っていたのだ。
が、現実は非情である。
山道での全力オニごっこを始めてそろそろ2時間。
完全に限界を越えていた俺に対し、美矩はときどき速度をゆるめて俺の調子に合わせつつ、まだまだ余裕がありそうだった。
これでは1日中続けても捕まえられる気がしない。
……さて。
それじゃあそろそろ、どうして俺がこんな天気のいい日に山にこもって、美矩とオニごっこなどに興じているのかということを説明しよう。
話は1週間前にさかのぼる。
「不可能だ」
なんつーか、こう、いきなりやる気をそぐような回答である。
「おい、伯父さん。教育ってのは、子どものやる気を削がないようにすることが基本なんじゃないのか?」
そう不満をこぼした俺の視線の先には、座布団の上にあぐらをかき、小指で耳の穴をほじりながらなんともけだるそうな表情をしている雅司伯父さんがいた。
「ま、不可能なものは不可能だからな。それともなにか? 今から一流大学を目指せと言えば、お前は素直にあと1年無駄な努力を続けるのか?」
「なんじゃ、そのたとえは」
まったく――と、俺はため息をついた。
……強くなる道を探ろうと決意したのが昨日の夜のこと。
そして今朝、さっそく伯父さんへの連絡を試みたところ、意外なことにこうしてその日のうちに伯父さんと顔を合わせることができていたのだった。
場所は悪魔狩り、御門の本部。
伯父さんはいま、光刃に次ぐ組織のナンバー2として、この本部と、本来の居場所である出先機関とを忙しく行き来しているらしく、今日はたまたまここに来る予定があったのだそうだ。
ただ、夕方になって面会できた伯父さんの態度はいつもどおり。
見た目こそ、ウチに来るときとは違って作務衣のようなものを着ていたが、特にせわしなくしている様子もなかった。
パリ、と、薄焼きのひと口せんべいが伯父さんの口の中へ消えていく。
「あれ? その抹茶せんべい、もしかして……」
俺が指摘すると、伯父さんは片ひざを立てて座イスの背もたれに体を預けながら、
「ああ。お前がホワイトデーに送ってきたものだ。宮乃のやつ喜んでたぞ。さすがは孝行息子、あいつの好みをよくわかってる」
「選んだのは俺じゃなくて雪だけどな」
なんとなく気恥ずかしくて俺はそっぽを向いた。
「……で、それはともかく。伯父さん。俺の力を安定させる方法は本当に――」
「ない」
きっぱりと断言して、抹茶せんべいをさらにもうひと口。
「それはお前の突然変異種としての性質だからな。成長とともに性質が変化することはあるらしいが、外部からコントロールできるようなものではない」
「そうか……」
そうかもしれないとは思っていたが、実際にその事実を突きつけられるのはショックである。
何度も説明していることだが、俺の普段の魔力はだいたい1割から3割の間で変動していて、変動のタイミングは日没時、そこから丸1日は大きく動くことはないというのが基本仕様だ。
そこで俺が最初に思いついたのは、この魔力を調子のいい状態で固定できないものかということである。
最低でも3割、できればそれ以上、たとえば10割の力を常時発揮できるようになれば、と。
おそらく俺の立場になれば誰もが最初に考えることだろう。
だが、伯父さんはそんな俺の甘い考えを一蹴した。
「そもそもお前の力は、お前の言う3割程度が本来のモノだろう。それ以上の力を出せるときがあるのは突然変異種であることの恩恵で、その逆もしかり。いいとこ取りというわけにはいくまい」
正論すぎて返す言葉もなかった。
諦めて、俺はすぐに次の質問に移る。
「じゃあ他になにかいいアイデアはないか? 別に楽をしたいってわけじゃねーんだ。ただ、できるだけ早く強くなりたい」
そんな俺の背中を押していたのは得体の知れない焦燥感だった。
杞憂であればそれに越したことはないのだが、なにかが起こりそうな予感はひと晩寝ても消えることはなく、今も胸の中にくすぶり続けていたのである。
「ふむ」
その心境を言葉にしたわけではなかったが、伯父さんは俺の態度からある程度くみ取ったらしい。
少し考えた後、小さくうなずいて言った。
「まあ……方法はなくもない。あくまで強くなれる可能性としてはな」
「……本当か?」
少し身を乗り出す。
「まあな。しかし、とりあえず」
と、伯父さんはニヤリと笑った。
「まずはお前がどのぐらい本気なのか、試させてもらうとしようじゃないか――」
……と、こんなやり取りがあったのが1週間前。
「はい。それじゃあ休憩ターイム」
「ぜぇっ……ぜぇっ……死ぬ……ッ!」
結局美矩を捕まえることができないまま、彼女がゲームの中断を宣言したのはさらに1時間後のことだった。
ヘトヘトになった体を草むらの上に投げ出し、文字通り大の字にあお向けになる。
空は相変わらずの晴天。
「あらら。だいぶやられちゃったみたいですね~」
そんな俺を上からのぞき込むようにして、美矩は腰にぶら下げた水筒を差し出してきた。
彼女にもさすがに疲れの色が見えていたが、まだ余力もありそうで、いい運動だったといわんばかりである。
「はぁっ……信じらんねぇ……ふぅ……お前ぜんぜん平気なのかよ……」
寝転んだまま水筒の生ぬるい水を口の中に流し込み、ごくりと飲み干して再び荒い呼吸を繰り返す。
酸素が足りないのか頭の中がぐるぐると回っていた。
しばらくは起き上がれそうにない。
「そりゃまあ、歌って踊れる隠密になるためには、これぐらいヘーキでこなせないと」
美矩はそう言いながら俺に背中を向け、5メートルほど高さにあった大木の枝にひょいっとつかまると、逆上がりの要領でくるりと軽やかに飛び乗った。
「美琴姉様ならこの倍ぐらいの距離をもっと速く、平気な顔して走りますよ?」
「……緑刃さんって一応人間だったよな?」
正直驚く気力もない。
あの人、その気になればオリンピックのマラソンで金メダルを取れるんじゃないだろうか。
「それぐらいの超人じゃないと強い悪魔とは戦えないってことです。優希兄様だって、悪魔の力を解放すればもっともっと走れますよね? そういうことです」
「……それもそうか」
一応このオニごっこでは禁じ手としていたが、確かにそれも含めての全力ならもっときわどい勝負になっていただろう。
「このぐらいのことは本当の最低限です。あたしも小さいころからずっとこの辺を走らされてました」
そう言って枝の上から山の景色を眺める美矩は、そのころのことを思い出しているのかどことなく遠い目をしていた。
俺は頭上でぶらぶらしている美矩のつま先辺りをなんとなしに眺めながら、
「なあ。やっぱ悪魔狩りって子どものころからこういうことやってんのか?」
「そりゃそうですよ。じゃなきゃ普通はムリです。中には例外もいますけどね。影刃様みたいに」
「伯父さん?」
視線をつま先から美矩の顔へ移動させると、ちょうど視線が合った。
「ええ。あの人は高校生ぐらいまで一般人だったみたいですけど、その時点で普通に悪魔とやり合えたそうです。天然のスーパーマンですね。若いころはマジですごかったそうですよ。今でもすごいですけど」
美矩はおもむろに枝から腰を浮かせ、軽く飛び降りて1回転、2回転して着地する。
「ホントかよ。なんかピンとこねーな」
普段のあの人からは想像できない話だった。
そうこうしているうちにようやく息が整ってきて、俺はゆっくりと上半身を起こす。
「……けど、そういう話を聞くと心配になってくるな。いまさら俺がこんなことをして本当に強くなんてなれるのか?」
「さあ?」
「さあ、って……」
「そりゃま、短い期間でもやっただけ今よりは動けるようにはなると思いますけど。ぶっちゃけ、気休め程度じゃないですか?」
「……」
そりゃ俺だって、こんなことでいきなり劇的に強くなれるなんて考えていたわけじゃない。
が、それにしてもやる気をなくすような言いようであった。
「どうします? やっぱ特訓やめますか?」
試すような口調の美矩。
俺は即答した。
「冗談だろ。やらないよりマシならやったほうがいいに決まってる」
すると美矩は小さく鼻を鳴らして笑った。
「ありゃ、結構本気なんですね。でもまあ、それでこそ優希兄様。ちょっとカッコいいです」
「茶化すなよ。……つか、前から思ってたんだが、なんなんだその兄様ってのは。勝手に俺を神村家の一員にすんなっての」
というか、こいつだって本当は神村家の人間ではない。
「まあまあ、いいじゃないですか。この際、雪さんも入れて神村家の美人4姉妹ってのはどうです? なーんか魅力的な響きだと思いません?」
「美人……4姉妹?」
緑刃さん。神村さん。雪。
あとひとりは――
「おっと、優希兄様。今、ものすごく失礼なこと考えましたね?」
「……イエスと答えたら俺の人生が終わるのか?」
どこからともなく取り出された短刀が俺の首筋に当たっている。
「なんと毒まで塗ってあります。ね、隠密っぽいでしょ?」
「……異論なし」
「賢い選択肢を選びましたね」
短刀が俺の首もとから離れていく。
というか、それはもはや選択肢ではないと思う。
「さて。じゃあ息も整ったようですし、続きといきますか。今度は全力で本部に戻りまーす」
「うげ、もう行くのか……」
呼吸は整ってきたものの、体の疲れはまったく取れてない。
が、どうやら口答えは許されないようだ。
「はぁ……」
ひざに手を置いてどうにか立ち上がり、すでに走り出していた美矩を追いかけて来た道を戻っていく。
下りのほうが多いため、来るときよりは少し楽だった。
「あ、そうそう、優希兄様。どうやらテストは今日で終わりらしいですよ。戻ったらまったく別の訓練が待ってるとか」
「……ようやくか」
今日までの1週間の特訓が、伯父さんの言った本気度をはかるテストであろうことはわかっていた。
つまりこの後が本当の意味での、強くなるための訓練というわけだ。
「その訓練ってのもお前が担当すんのか? どんな内容なんだ?」
「いえいえ。そっちは悪魔の力に関する訓練なんで、あたしじゃないッス」
相変わらず口調が不安定だ。
「なんでも優希兄様の"悪魔としての特性"を最大限に引き出して、戦いに活用するための訓練とかなんとか。詳しいことはよく知らんッス」
「なんだそりゃ。適当すぎんだろ」
「だってあたしはフツーの人間ですもん。魔力がどうとかは実感ないんで。最低限の知識は持ってますけどね」
まあ、言われてみればそういうものかもしれない。
「どっちにしろ、やってみればわかる話か……」
それがどんなものだろうとやるしかないのだ。
もしかしたらもうとっくに手遅れかもしれないが、とにかく後悔だけはしたくない。
「……お。まだスピードアップする余力がありました?」
横に並ぶと、美矩が少しだけ驚いた顔をした。
「しゃべりながら後ろ向きに走ってるやつには負けられねーしな」
「いいですね~。じゃあ、あたしもちょっと本気出そっかな」
正面を向いて、美矩が言葉どおりに速度を上げる。
俺はがむしゃらになってそれについていった。
そうしてやってくる――新しい季節。
高校生になって3度目の春。
そこに大きな変化をもたらすできごとが、俺たちの身にじわじわと迫りつつあった。