2年目3月「影法師」
傘に弾ける雨粒の音が大きくなってきた。
通りは不気味なほどに静まり返っていて、これはおそらく天気のせいではなく大量失踪事件の影響だろう。
そんな中、俺は神社に向かって少し早足に歩いていた。
(まだ昼すぎだってのにな……)
大きな通りに面したコンビニの中では店員がヒマそうにしている。
車の通りはそこそこあるものの、住宅地のほうは異常なほどの静けさだ。
景色はひとつも変わらないのに、とてつもない違和感。
昔、現実とそっくりの異世界に飛ばされてしまう男の話を映画で見たことがあったが、その主人公は最初、今の俺と似たような心境だったのかもしれない。
……少し大げさか。
そんなどうでもいいことを考えながら、自宅と神社の中間点あたりに差し掛かったころ。
(お。人がいる……)
黒い傘がひとつ。
服装からすると若い女性だろうか。
歩いている人間と遭遇するのは、自宅を出てから初めてだ。
(……この状況で女のひとり歩きか。不用心だな)
俺は怪訝に思ったのだが、その疑問はすぐに氷解した。
女性は俺の数メートル前で立ち止まると、
「久しぶりね。不知火優希くん」
黒い傘の向こうにあったのは、おかっぱ頭の一見大人しそうな少女の顔。
そして、その印象とは対照的に強い意思のこもった視線。
俺も足を止める。
「……よう。そういや昨年の暮れ以来か。正直言うと、あんま会いたくなかった。あんたが現れるとだいたいロクなことが起きないからな」
まっすぐ向き合って口の端を軽く上げた。
「晴夏先輩。いや、もう先輩じゃねーか。卒業……じゃなくて、退学したんだもんな」
からかうようにそう言うと、晴夏先輩はおもしろくなさそうに仏頂面をして、
「ご挨拶ね。私はいつもあなたがたに有益な情報を提供してあげてたつもりだけど? ま、好きでやってたわけじゃないけどね」
確かに晴夏先輩の言うとおりだ。
ただ、彼女――いや、彼女たちが動くのは大きな事件の前触れ。
昨年暮れの戦いから、俺の中ではすでにそういう認識になっていた。
とはいえ、会いたくなかったというのは半分嘘である。
「ま、ちょうどよかった。あんたにはいろいろ確認したいことがあったんだ」
「そう。私も話したいことがあって出てきたんだけどいいわ。そちらから先にどうぞ」
そう言って晴夏先輩は手のひらをこちらに差し出す。
じゃ、遠慮なく、と、俺は切り出した。
「あんた、前に仲間がいるって話をしてたよな? あれって青刃のことなのか?」
俺は単刀直入に尋ねた。
青刃。
暮れの戦いで悪魔狩り――神村さんを裏切り、大切な神刀を奪い去った男。
俺は緑刃さんからその事実を聞かされて以降、ずっとあの男と晴夏先輩たちとの関係を疑っていたのである。
「青刃? ……ああ」
晴夏先輩は一瞬わからないという顔をしたが、すぐに思い出したように答えた。
「そうね。確かそんな役職だったわね、ウチのリーダーは」
「やっぱりか」
確信があったわけじゃなかったが、まったくの当てずっぽうだったわけでもない。
晴夏先輩がたびたび見せていた悪魔狩りへの敵対心、風見学園を退学したタイミング、悪魔狩りの味方でもなければ女皇たちの味方でもない、といういくつかの情報からの推測である。
しかし。
そうだとすると別の疑問が湧いてきた。
「だったらあんた、どうして暮れの事件で俺に協力したりしたんだ?」
「それはあのときも言ったと思うけど?」
と、晴夏先輩は少し面倒くさそうな顔をした。
「あの女皇たちが必要以上に力を付けるのがいやだったから。彼らには悪魔狩りと戦ってもらう必要があったけど、かといって結界を破って魔界から大量の悪魔を連れてこられても困るのよ」
なるほど、ということはあの戦いは結局彼らの思惑どおりの結末を迎えたということだろう。
「じゃあ、あんたらの目的はなんなんだ?」
「それも前に言ったわね。悪魔と人間が共存できる環境の構築、よ」
「……だったら」
自然と言葉が強くなる。
「どうしてあいつは神村さんを裏切ったんだ?」
俺の脳裏に浮かんでいたのは、あの事件後の神村さんの様子だった。
神刀を奪われたときに負ったらしい腕の傷と、そしておそらくはそれ以上に傷ついたであろう心。
俺たちの前では気丈に振る舞おうとしていたが、緑刃さんの話によると彼女は精神的にかなり疲弊しているという話だった。
だが、そんな俺の問いかけに、晴夏先輩はバカバカしいと言わんばかりに首を振る。
「裏切った? 裏切ったといえるのかどうかわからないけど……簡単よ。私たちの目的のためには、アレが持っている神刀が必要だった。それだけのこと」
「なんでだよ」
吐き捨てるように、神村さんのことを"アレ"と表現した晴夏先輩。
その口ぶりに新たな怒りが込み上げたが、俺は激高しそうになるのをどうにかこらえて言葉を続けた。
「そりゃ悪魔狩りの中には悪魔を毛嫌いしている連中がたくさんいた。けど、神村さんは違う。今までの悪魔狩りのお偉いさんがどうだったのかは知らねーけど、少なくとも神村さんは悪魔ってだけで無差別に排除してきたりはしなかった。それはつまり、あんたらの言う悪魔と人間の共存に理解があったからじゃないのか? 一番近くにいた青刃のやつがそれを知らないはずねぇのに」
自分では至極もっともだと思えた反論。
だが、晴夏先輩は大きなため息をついただけだった。
「なにもわかってないわ、あなた」
と、傘を傾けて視線を隠す。
さらに強さを増した雨が、足もとの水たまりで無数のしぶきをあげていた。
「わかってない? どういう意味だ?」
「神村沙夜なんて人間は、言うなれば影法師よ」
「影法師……?」
再び晴夏先輩の目が傘の陰からのぞく。
そこには強い負の感情が宿っていた。
「人の形を取って存在しているようだけど、しょせんは影でしかない。どんなにあがいても"光刃"という本体の意志に逆らうことはできないわ。アレはただそこに姿があるだけ。意思があるようでもそれは錯覚でしかない。出てくる言葉にも意味はない。アレは人形のようなものだから」
「……おい」
瞬間、頭に血が上った。
「やめろよ。なんだよ、そりゃ」
手に力が入る。
傘の柄がわずかにきしむ音を立てた。
そんな俺の様子に晴夏先輩は一瞬だけ言葉を止めたが、すぐに続けた。
「ホントになにもわかってないわ、あなた」
ため息。
それがさらに俺の怒りをあおる。
「ふざけんな。神村さんは影なんかじゃねぇし、ちゃんと自分の意思を持ってる。あの戦いのときだって、組織の連中が反対する中、自分の考えを貫いて俺たちを協力者として迎え入れてくれた」
「それこそ錯覚よ。あなたたちを迎え入れるかどうかなんて、本当はどっちでもよかっただけ。それが彼女自身の意思のように思えたのは、あなたがまだ悪魔狩りのことをよく知らないから」
「んなこたぁねぇ!」
思わず声を荒らげる。
影法師? 人形? ……そんなはずはない。
そりゃ俺だって最初は人形みたいなやつだと思った。
無感情で無表情、取り付くシマもない。
そんな冷酷人間だと思った。
けど、結局それは最初だけ。
なかなか表には出さないものの、実際の神村さんは普通に喜んだり笑ったり、悲しんだり落ち込んだりする人だった。
俺は実際にそれを何度か目の当たりにしてきたし、だからこそ俺は今、晴夏先輩の暴言をこんなにも腹立たしく思っているのだ。
……そう。
神村さんが青刃のことを本当に信頼していて、そして裏切られ激しく傷ついたからこそ。
「悪魔狩りがどうだろうと、光刃がどうだろうと、神村さんは神村さんだ。俺の仲間のことをそれ以上悪く言うなら、いくらあんたでもタダじゃすまさねぇぞ」
「……」
無言。
だが、それは一瞬だった。
「おもしろいわね」
傘からのぞく晴夏先輩の口もとに挑発的な笑みが浮かぶ。
「ケンカするつもりはさらさらなかったけど、あんなのをそこまで必死に擁護されたんじゃ、さすがに腹も立ってくるわ」
ゆっくりと、まるでスローモーションのように傘が傾いていった。
表情が消える。
傘が水たまりの上に落ちると同時に、晴夏先輩を中心に不思議な波のようなものが広がっていった。
「……結界、か」
もう見慣れた、音と光を遮断する結界。
彼女がこれを使ったということは、つまり。
「何度でも言ってあげるわよ、不知火優希くん。"アレ"は存在することにさえたいした意味もない、ただの"置物"よ」
「てめぇ……!」
「どうするの? タダじゃすまさないんでしょう?」
再びの挑発。
それをさらりと流す余裕は今の俺にはなかった。
「……ああ、そうかい! なら仕方ねえ!」
ぎりっと奥歯が鳴る。
こちらの傘も宙を舞い、同時に俺の全身が炎に包まれた。
「その言葉、取り消させる!」
「……やってみなさい」
さらに強さを増していく雨の中。
こうして、思いも寄らぬ晴夏先輩との戦いが幕を開けたのだった。




