1年目6月「兄、乱入」
「おい、不知火優希」
今日はとりあえず不幸な日らしい。
どんな学生でもクラスにひとりぐらいは嫌なヤツ、あまり関わりたくないヤツがいるものだ。
聖人君子ならぬ俺にも、もちろんそんな風に思っているヤツが何人かいる。
そして、そんなヤツらの中のひとり――しかもその中で3本の指に入るぐらい面倒なヤツが、朝一番で俺に話しかけてきたというのだから、俺が今日という日にいきなり嫌なイメージを抱いてしまったのも仕方のないことだろう。
……ああ、いや。
諦めるのはまだ早いかもしれない。
「ふう、今日は久々に遅刻ギリギリじゃなかったな」
そいつの声が幻聴であったり、あるいはそもそも俺に向けられたものではないという可能性に賭け、俺はそいつの目の前を素通りしてみることにした。
世間一般的にはシカトと呼ばれる行為である。
「こら。待たないか」
残念ながら肩をつかまれてしまった。
幻聴ではなかったようだ。
仕方なく俺は振り返って、
「悪い、竜二。今日は掃除当番だからお前に構っている暇はないんだ」
「そうか。それなら仕方ないな」
竜二はそう言って俺の肩を離す。
ホッとしながら自分の席に向かおうとすると、
「ん? いや、ちょっと待て。掃除当番は関係ないじゃないか」
また呼び止められた。
俺は舌打ちしながら再び振り返って、
「まったく関係ない」
「ふっ」
すると竜二はオーバーな仕草で前髪をかきあげながら、
「私をだまそうとは貴様もなかなか大胆な男だな」
「……」
こいつの名前は今井竜二。
ご覧のとおりのクラスメイトなのだが、名字を聞いてピンと来る人がいるかもしれない。
今井――こいつはあの明日香の実兄なのだ。
「で、なんの用だ?」
俺の口調は自然と投げやりになった。
一応誤解のないように言っておくと、この竜二という男、別に悪いヤツってわけじゃない。
かなり方向性を誤ったキザ男で、世界中の女が自分に惚れていると本気で勘違いしているような痛い男だが、基本バカなので端で見ている分にはなかなかに面白いヤツなのである。
そう。
あくまで端で見ている分には、だ。
残念なことに、俺とこいつとの間にはさらにもうひとつの接点があった。
「雪さんは元気にしているか? 今度バラの花束を持って行くから自宅の住所を教えてくれ」
「ごめんこうむる」
と、まあこんな感じだ。
こいつは中等部のころに雪に一目惚れして以来、あいつに付きまとっている面倒な輩のひとりなのである。
しかも他の連中と大きく違うのは、雪も自分に惚れていると勘違いしていることで、今は雪のほうから自分に告白してくるのを待っている状態らしい。
それが、こいつのことを気に入らない一番の理由である。
「で? 用事は雪のことだけか?」
「ああ、いや。今のはただのまくらことばだ。俺がいつも気にかけていることを雪さんに伝えておいてくれ」
「……うぜぇ」
ぼそっとつぶやいた言葉は竜二には聞こえなかったようだ。
「それで本題だが、貴様、ウチの明日香になにかしなかったか?」
「は? なにかと言われてもわからんぞ。なんのことだ?」
「それがわかっていれば苦労はしない。なにか、だ」
「なにか、ねぇ」
なるほど、まったく心当たりがないわけじゃない。
ただ、それがこいつのいう"なにか"に当てはまるかどうかは微妙だった。
少し探りを入れてみる。
「思い当たることはないが、ま、最近ちょっと世間話をしてるぐらいか」
「ふむ、そうか。本当だろうな?」
竜二は真面目な顔でずいっと迫ってきた。
俺はそこでようやく、竜二の様子がいつもと少し違うことに気付く。
「どうした? 明日香のヤツになにかあったのか?」
「よくぞ聞いてくれた」
竜二は腕を組み、右肘を左手で支え右手の人差し指をこめかみに当てるという奇妙なポーズを取った。
「最近どうも明日香の様子がおかしくてな。朝から台所に立ってゴソゴソやっているようなのだ」
「……ああ、なるほど」
そういや竜二はいつも昼は学食へ行っていて、明日香が弁当を作ってきて俺たちと一緒に食べていることを知らないのだ。
というか、明日香のヤツもそれがわかっていて、兄が教室を出てから顔を出しているフシがある。
おそらくは弁当を作っていることも気付かれないようにしていて、それが今日になってバレてしまったということなのだろう。
とすると。
ここは当たりさわりのない回答をしておいたほうがよさそうだ。
「女の子なんだし料理ぐらいしてたっておかしくないんじゃねーの? そのうちお前に手料理でもごちそうしてくれるんじゃないか?」
「うむ。私もそうだとは思っているのだが……」
(……んなわけねーだろ)
心の中で密かに突っ込む。
どこの世界に、わざわざ兄貴のために朝練の時間よりも早く起きて甲斐甲斐しくメシを作ってくれる妹がいるというのか。
「いや、そうか。考えすぎだったかもしれん。そうか。そういうことならなにもおかしなことはないな」
それでも竜二はすっかり信じ込んでしまったようだ。
あっさりと納得して自分の席へ戻っていく。
俺はそっとため息を吐いた。
(……こりゃ直斗のことがバレたら面倒なことになりそうだな)
明日香のヤツにはかわいそうだが、越えなければならないハードルはまだまだ多そうだ。
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「……あー、もう! うまくいかないなぁ!」
カシャン!
明日香は手にしていたスプーンを皿の上に投げ捨てると、イライラした様子で頭をかき、流し台の横にあった料理本を手に取った。
"家庭料理100戦。これで憧れの彼も討ち死に間違いなし!"
なんともふざけたタイトルだが、中身はしごくまっとうな料理本だ。
たまたま部活が休みとなったこの日、明日香はまっすぐ帰宅するなり、この料理本とにらめっこしながら料理の練習に励んでいたわけである。
しかし。
載っているとおりに作っているはずなのに、どうも上手くいかないのだ。
「由香さんのはもっとおいしかったのになぁ……」
明日香はぶつぶつとつぶやきながら、穴が開くほどにその本を見つめる。
調味料の分量は間違っていない。火の加減も火を通す時間も本に書いてあるとおりだ。
手際は微妙だが、それだけで味にこんなにも差が出るものなのだろうか。
あるいは、この料理本よりもおいしく作る方法があるのかもしれない。
そうだとしたら、しょせん付け焼刃の明日香には完全にお手上げである。
(もー……!)
片手で頭を押さえ、うんうんと唸りながらページをめくっていた明日香だったが、ふと本の中に書かれていたひとつのフレーズに目を奪われた。
「……料理は相手の好みに合わせてある程度アレンジすべし、か」
なるほど、と、明日香は思った。
本に載っているものはあくまで一般的な調理法である。
だからそれより上を目指すのなら、あとは好みに合わせてアレンジするしかないということだ。
……しかし。
問題があった。
(直斗先輩の好みなんて知らないしなぁ……)
いくら追っかけとはいえ、そこまでのことは明日香にもわからない。
となると誰かに聞くしかないのだが、最大の恋敵である(と思い込んでいる)由香には聞きにくかった。
かといって直斗本人に聞くのもなんだか気が引けたし、それではあまり驚いてもらえなくなってしまうだろう。
(うーん……)
そうしてしばらく悩み続けていた明日香だったが、ふと閃いた。
「そうだ! えっと……」
リビングに移動すると、そこにあった電話を手に取った。
近くに置いてあるメモ帳を開く。
「……あ、あったあった」
その番号は"とある理由"によりあまりかけたくない相手先だったが、背に腹は変えられない、と、意を決して番号をプッシュする。
トゥルルルル、トゥルルルル……
呼び出し音。
(他の人がでませんように!)
祈りながら反応を待つ。
やがて――
「はい」
受話器の向こうから聞こえたのは女性の声。
明日香はホッとして口を開いた。
「雪さんですか? お久しぶりです。私、明日香――今井明日香です」
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「……あ、しまった」
その日の夜。
毎週欠かさずに見ているクイズ番組が始まっていることに気付き、俺はテーブルの上のリモコンを手に取って電源ボタンを押した。
「あれ? 点かないぞ?」
リモコンが反応しない。
テレビへ向ける角度を変えたり、ボタンを強く押してみてもダメだった。
すると、流し台から雪の声がする。
「あ、ユウちゃん。リモコン電池切れちゃってるみたい」
「なんだ。替えの電池は? ……よ、っと」
ソファから腰を上げて直接テレビの電源を入れに行く。
「電池もちょうどなかったみたい。明日、学校の帰りに買ってくるね」
「あー、いや、他の買い物のついででいいぞ。なくてもすぐ困るもんじゃねーし」
チャンネルを変えて目的の局に合わせると、番組はちょうど中盤に差し掛かっていた。
画面の中では俺たちとそれほど変わらない年齢のアイドルタレントが、俺でもわかりそうな簡単な問題を間違ったところだ。
このクイズ番組にレギュラー出演しているアイドルがおかしな回答をするのはもはや定番中の定番である。
たぶん事前の打ち合わせどおりに答えているだけだろうし、最近ではややマンネリ化してきてもいるのだが、たまに腹を抱えて笑うほど面白い回答があるので俺はそれを楽しみに見ていた。
「いくらなんでもソルトはねーよ。塩じゃねーか、それ。最後はその他に決まってんだろ」
「ユウちゃん。一般的には味噌だからね、そこ」
「……その他の中に味噌も入ってるんだからいいだろ」
突っ込みつつ、突っ込まれつつ。
俺はテーブルに置いたスナック菓子の袋を開けてソファに寝転がった。
テレビの中では、珍回答をしたアイドルがいつもどおり耳まで真っ赤になって必死に言い訳している。
もしかすると本人は本気で回答しているのだろうか。
あるいはそこまでも演技なのか。
そんな不毛なことを考えるのもまあ楽しい。
こういう番組はなんでもいいからとにかく楽しめばそれでいいのだ。
「紅茶いれるけど、ユウちゃん飲む?」
「んー?」
「今日はふわふわのチーズスフレもつけちゃうよ」
「おー」
「ふふ……じゃあ準備するね」
カチャカチャと食器を取り出す音がした。
一音しか返していないのに俺の言いたいことを理解する辺り、さすがは双子の妹といったところか。
ややあって、紅茶の香りがリビングに漂ってくる。
「はい。どうぞ」
「おぅ、サンキュ」
体を起こして出されたケーキと紅茶にさっそく手を伸ばす。
雪はエプロンを外して、ふたりがけソファの隣におさまった。
「ユウちゃん、このアイドルの子好きだよね」
「んー、まあ嫌いじゃないな。可愛いし」
単純な話だが、テレビの中の住人に対してはそれが唯一にして絶対の基準だと俺は思う。
周りにはあのタレントは性格がアレだからとか言う連中もいるが、性格なんてテレビ画面を通せばどれが本物かなんてどうせわからないのだ。
となれば、余計なことは考えずに与えられたイメージだけで判断するのが賢明ってものだろう。
雪も自分の紅茶に手を伸ばしながら、
「ホントに可愛いよね」
「可愛いな」
「瑞希ちゃんとどっちが可愛いかな?」
「そりゃ、この子に決まってんだろ」
確かに瑞希のヤツは悔しいが美人だ。
あるいはこのアイドルより上かもしれないとも思ったが、素直にあいつのことを賞賛する気にはなれない。
「……あ、そうだ。今日久しぶりに明日香ちゃんから電話があったよ」
テレビはちょうどコマーシャルに入っていた。
「明日香から? お前にか?」
「うん。元気そうだったけど、最近学校で会ってる?」
「んー、今日、会ったかな」
というか、毎日昼休みに会っている。
そしてあいつが雪に電話してきた理由もだいたい見当がついた。
「直斗の好物を聞かれたのか? ついでに作り方も」
「うん」
明日香が直斗を好きなことは雪も知っている。
「当然、嘘を教えてやったんだろうな?」
「ううん。……ユウちゃん」
雪は困った顔をして見せた。
「前みたいに変なこと教えちゃダメだよ。明日香ちゃん真剣なんだから」
「うっ……」
割と真剣に怒られてしまった。
「わかったわかった。ま、最近はからかうネタもなくなってきたところだしな」
「うん」
雪は微笑んでティーカップを手に取った。
コマーシャルが終わる。
「上手くいくといいね」
と。
雪がそう言った瞬間。
(……あれ)
微かに、ほんの微かにであるが、耳の奥で"耳鳴り"が聞こえた気がした。
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「……よし! 頑張るぞー!」
その日の夕食後、明日香はすぐに台所へと向かっていた。
共働きの両親は帰りが遅くなる予定だったし、なにかと口うるさい兄の竜二は部屋にこもっている。
雪から電話で教わったことをさっそく実践するチャンスだった。
「ええっと、まずは――」
メモした内容を流し読みながら材料を準備。
野菜を洗い、調味料を準備してフライパンを火にかける。
と。
……カタ。
「?」
洗面所の方から微かな物音が聞こえた。……気がした。
「竜二兄さん?」
呼びかけても返事はない。
そもそも洗面所に行くには必ず台所の横を通る必要がある。竜二が通ったとすれば、いくらなんでも明日香が気付かないはずはないのだ。
「……風、かな」
今日は暑かったので、この時間になっても窓を少し開けたままにしている。
そこから入った風でなにかが動いた音だったのかもしれない。
「そうだ。そろそろ窓閉めてこなきゃ」
コンロの火をいったん止めて洗面所へ向かう。
念のため少し慎重にのぞき込んでみたが、もちろん洗面所には誰もいなかった。
開きっぱなしの窓に手をかけて――。
気付く。
(あれ? 窓こんなに開けてたっけ……?)
スライド式の窓がほぼ全開になっていた。
流れ込んでくる生ぬるい風。
……キィ。
「?」
微かにきしむ音。
洗面所のドアが動いてた。
人の気配。
「……え?」
明日香はその気配に気付き、ゆっくりと後ろを振り返った――。