2年目3月「決意の行方」
「唐突な話で非常に申し訳ないんだが……」
明けて月曜日はあいにくの雨模様だった。
体育館の窓ガラスを叩く雨は少々強めの風も相まってバラバラガタガタとやかましい音を立てている。
2時間目の授業は体育。
この空模様では外に出ることもできず、期末テストがすでに終わっているということもあって、この日は体育館で遊び半分の男女混合ドッジボールをやることになった。
とはいえ、高校生ともなると男女の体力差は明確である。
そのため、今回のゲームでは男子は投げるときもキャッチするときも利き腕を使ってはいけないというハンデを課されていた。
と、まあ。
一応説明してみたものの、実はそんな授業の内容などはどうでもいいのだ。
なにしろ俺は開始からずっと外野にいてほとんどゲームに参加していなかったし、今はボールをぶつけられて、やはり同じ外野に居座ることになった由香とのんびり会話をしているところだったから。
そして俺は由香に尋ねた。
「直斗のヤツ、どこかおかしいところはなかったか?」
「え、直斗くん?」
まったく関係ないが、こいつのジャージ姿ってのは劇的に不似合いである。
どこがどうというわけではないのだが、こいつのこの姿を見ているとなんとなく不自然というか、いわばアイコラでも眺めているような違和感に襲われるのだ。
外見というよりは性格のイメージによるものだろうか。
と。
俺がそんなどうでもいいことを考えているとはつゆ知らず、由香は真剣に答えた。
「うーん。私は特になにも気づかなかったけど……直斗くん、なにかあったの?」
「いや。うん。そうだよなぁ」
予想通りの回答だった。
俺よりも付き合いの長い由香なら、あるいはなにか微妙な変化に気づいたんじゃないかと思ったのだが、どうやらそんなこともなかったらしい。
つまり、結論としては――
「どこもおかしくないよな」
そう、おかしくない。
いつもどおりなのだ。
「?」
よくわからない、という顔をする由香。
と、そこへ、ボールの当たる音とともに、聞き覚えのある甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「うう、当たっちゃいました……」
悲しそうな顔で外野にやってきたのは歩だった。
敵陣コートにはそんな歩に対して済まなそうに手を合わせている男子がいる。
そいつは敵味方の女子から容赦のないブーイングを浴び、男子からは冗談交じりに頭を小突かれていた。
狙うつもりはなかったが当たってしまった。
おそらくはそんな感じなのだろう。
こういう体力勝負の競技ではなるべく歩を狙わないということが、いつの間にか俺らのクラスの暗黙のルールになっていたりするのである。
「けど、当てる気がなくても当たっちまうんだから、あいつも災難だよな」
「あ、優希さん、ちょっとひどい……わわっ!」
抗議しようとした歩のもとへ、味方コートからボールが飛んでくる。
「うぁ……ゆ、優希さん、お願いしますー!」
「いや、お前がもらったんだから投げろよ。心配すんな。きっと誰か当たってくれるって」
「そ、そんなぁ……」
と、途方に暮れた顔をする歩。
結局、悩みながら投じた歩のヘロヘロボールは、残念ながら相手コートの中央より手前でバウンドしてしまった。
あれでは当たってやりたいと思っていても無理だろう。
ゲームは終始敵軍有利で進んでいる。
俺はその中心にいる、小柄なメガネの生徒に視線を向けつつつぶやいた。
「やっぱ、いつも通りだよなぁ、あいつ……」
直斗の投じたボールが再び、こちらの味方を外野送りにした。
そもそも、あいつはどっちが利き腕かわからないぐらいの完璧な両利きである。
片腕封印など攻撃面ではほとんどハンデにならない。
(……昨日の展開からして、明日香のやつが途中でヘタれたってことはないと思うんだが)
となると。
直斗の今日の態度をどうとらえるべきなのだろうか――
そして昼休み。
残念ながら事態は悪化することとなった。
「あ、優希」
「ん?」
自分の机で弁当を広げようとしていた俺のもとへ直斗がやってきて、こう言ったのである。
「今日はお弁当がなくて。購買でパンを買ってくるからちょっと待ってて」
「ん。……おお」
それでほぼ確信した。
(……ダメ、だったんだな)
明日香はほんの一時期ではあるが、直斗の弁当を作ってきてたことがある。
もし昨日の告白で正式に付き合うことになったんなら、あいつの性格だ。自分が休みでも直斗のために弁当を作っていただろう。
となると、やはり――
少し。
ほんの少しだけ気が重くなった。
(頑張ってたのにな、あいつ……)
なんだかんだ言っても、俺はあいつのひたむきさとか一途さを結構評価していたし、報われてしかるべき努力はしていただろうと思っている。
もちろん、だから直斗がそれに応えなければならないというわけでは決してないのだが。
(……なんでだろうな)
そして胸に湧き上がったのは当然の疑問。
断ったからにはなにか理由があったはずだ。
ただ、直斗には特定の彼女がいるわけではないし、身近な女性に片思いしているという話も聞いたことがない。
もちろんあいつだって思春期の男子だし、表には出さなくとも慕っている女性が密かにいるという可能性はないわけではないが、それなら逆に、あいつの性格からしてそれを行動に移していないというのはおかしな話である。
直斗は確かに明日香のことを気に入っていたはずだ。
もちろん好意にも色々な形はある。だとすれば、あいつにとっての明日香は、そんなにも恋愛対象からかけ離れていたということなのだろうか。
あるいは。
(他の理由、か……)
俺には思いつかないような特別な理由があるのか。
だとしたら、それはいったいなんなのだろうか――
そしてその日、雨の中の帰り道。
「あ……優希先輩」
喫茶店"三毛猫"の前に、赤色の傘とともに見覚えのあるシルエットがたたずんでいた。
「よぅ、明日香」
パラパラと傘を叩く雨の音。
店に入ろうとしていたところなのか、あるいは誰かを待っていたのか。
俺は昨日のことをいったん頭の中から払い去って、いつも通りに明日香に話しかけた。
「どうした? 中に入らないのか?」
「……先輩は学校の帰りですか?」
そう言って傘の向こうから視線を向けてくる明日香。
「それ以外になにがあるっつーんだ? これから釣りに行くような格好に見えるか?」
「あはは……そーですね」
少し笑う。
いつもとは明らかに違う態度。
……間違いない。
やはり俺が想像したとおりのできごとが昨日あったのだろう。
俺は小さく息を吐いて、
「ほら。入るならとっとと入れ」
「先輩も寄っていくんですか?」
「ああ。……ま、なんつーか」
傘をたたみ、喫茶店のドアを開ける。
「傷心の後輩に、ケーキのひとつでもおごってやろうと思ってな」
「……」
一瞬の沈黙。
ただ次の瞬間には、明日香はいつもの調子になって眉をひそめてみせた。
「……なにを企んでるんです? あ、言っておきますけど、いくら直斗先輩にフラれたからって、優希先輩に鞍替えするようなことはありませんからね!」
「んなこと考えてねーよ。失礼なやっちゃな」
そんな明日香の様子に少しだけ胸を撫で下ろしながら、俺は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
天気のせいか喫茶店の中にはひとりも客がおらず、カウンターの中もバアさんひとりだった。
雪は今日もバイト予定だったはずだから、いないということはまだ学校が終わっていないのだろう。
軽く挨拶をして、カウンターから少し離れたテーブル席を選んだ。
すぐにバアさんが注文を取りに来る。
俺は明日香に向かって言った。
「ほら、好きなもん頼めよ。……あ、俺はいつもの紅茶で」
「あいよ」
バアさんが注文をメモる。
「お嬢ちゃんは?」
「それじゃあ……」
明日香はチラッとメニューを見て、それほど考えることなく言った。
「フルーツパフェとチョコシフォンとストロベリークレープ。あ、あと白玉あんみつとホットミルクティーを」
「……待てや、こら」
「あ、シフォンケーキは持ち帰りでお願いします」
「……」
遠慮がなさすぎる。
そんな俺たちの状況を察したのか、バアさんが意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「まいど。今日は客足が遠かったから助かるよ」
「ぐ……」
一応、財布の中身を確認。……とりあえず食い逃げ犯になる心配はなさそうだ。
「あー、楽しみ。いっぺんここでお腹一杯になるまで食べてみたかったんですよねー」
「……おまえなぁ」
と、俺が抗議の声をあげると、明日香はにやりとして、
「傷心の乙女に甘いものをおごるっていうんですから、もちろんこのぐらいは予想してたんですよね、優希先輩?」
「……はあ」
俺は憮然として、
「少しは俺の財布の中身を心配するとか、そういう気遣いはないのか」
「ないです」
きっぱり断言されてしまった。
「……このやろう」
どうやら、こいつに仏心なんてものを見せようとした俺が愚かだったようだ。
とはいえ、男に二言はない。
(……今月はCDを諦めなきゃならんな)
で。
「……」
パラパラと窓ガラスを叩く雨は、午前中より少し勢いを弱めているようだった。
夜には晴れるらしいと誰かが言っていたことを思い出しつつ、正面の明日香をチラッと見る。
明日香は一番最初に出てきたホットミルクティーをスプーンでかき回しながら、ずっと窓の外を眺めていた。
その視線の先を、まるでタイミングを計ったかのように、風見学園高等部の制服を着たカップルが通り過ぎていく。
「……はぁ」
明日香の口から小さなため息がもれた。
結局明るかったのは最初だけ。
いったん会話がとぎれた後は、ずっと重苦しい空気が続いていた。
俺も会話の糸口がつかめず。
とりあえず注文したものが出てきてから言葉をかけようかと考え、紅茶にちびちびと口をつけながら、ボーっと外の雨景色を眺めていた。
そして、しばらく。
ポツリ、と、明日香のほうから口を開いた。
「……好きだって」
「ん?」
無意識にかき回していたスプーンを止め、明日香のほうに横目を向ける。
「直斗先輩、付き合えないって断った後、私のこと好きだって言ってくれたんです」
「……ああ」
まあ、そうだろう。
直斗はああ見えて、人の好き嫌いがはっきりしている人間だ。誰にでも愛想よく見えるのは、たとえ嫌いな相手でもそれなりの態度で接するというだけのことである。
そして付き合いの長い俺から見ても、あいつはこの後輩のことをかなり気に入っていた。
だからこそ、チャンスがあるんじゃないかと俺は考えていたのだ。
明日香は続けた。
「それで、他に好きな人がいるんですかって聞いたら、それは関係ないって。理由を聞いたら、答えられないって。答えようとしたら嘘をつくことになるからって」
「……嘘をつくことになる?」
どういう意味だろうか。
「なんか……よくわからなかったです。これ、私がバカだからなんでしょうか?」
「んなことないだろ。俺にもわからん」
あいつがなにを思ってそんな答え方をしたのか。
どうしてその理由が言えなかったのか。
「俺だって、あいつのことなんでもわかってるわけじゃねーからな」
そう。
あいつはときどき、俺でさえなにを考えているのかわからないような行動を取ることがある。
ものすごく付き合いやすそうに見えて、その実、真に心を割って付き合うことは難しい。
それがあの、神薙直斗という人間の本当の姿なのだ。
もちろんそれは、俺があいつを信用していないとか、あいつが俺に心を許してくれてないとか、そういう意味ではない。
俺はあいつを親友だと思っているし、向こうもそう感じてくれていると信じている。
ただ――なんというか。
一部。
あいつという存在のほんの一部に、外からは決してのぞき込むことのできないブラックボックスのようなものがある。
そう感じるのだ。
「……お前さ。昔の直斗のことはまったく知らないんだっけ?」
しばらくの沈黙の後、俺は明日香にそう切り出した。
「小学生のころの話ですか? それなら知りません」
「そうか」
話すべきか。
話す意味があるのか、と。
少しだけ迷ったが、俺は結局続けることにした。
「今のあいつからは想像できないかもしんないけど、低学年のころのあいつって、実はとんでもなく無愛想なヤツだったんだ」
「無愛想? 直斗先輩がですか?」
「ああ、驚くだろ? 無愛想っつーか、無関心っつーか。いっつも集団から離れて、なにもないところをじっと見つめているような……まあ、言ってしまえば不気味なヤツだった」
明日香はちょっと不満げな顔をして、
「不思議な男の子だったというわけですね?」
「……モノは言いようだな」
俺は苦笑する。
「ま、なんでもいいけどさ。とにかくあいつはそんな感じで、昔からどこかわからないところのあるやつだったんだ。だから今回のことも、あいつの本当の心ってのは俺にも読めない。……けどな」
そう言いながら、少しぬるくなった紅茶に口を付け、ひと呼吸。
「それでも、あいつが身近な人間をものすごく大事にするヤツだってことは間違いない。だから、そういう返答をしたのなら本当になにか理由があったんだろうし、理由を言えば嘘をつくことになるなんてわざわざ言ったのは、お前に対して誠実でありたいと思ったからだ。付き合えないけど好きだっていうのも、少しずるい考えかもしれんが、お前に嫌われたくなかったんだろうと思う」
「……」
明日香が少しだけ視線を泳がせる。
「だから、まー……なんつーか。別にテキトーなことを言ってけむに巻いてやろうとか、そういうことじゃないと思うぞ。お前のことは言葉通り好きだったし、そして本当になにか言えない理由があった。たぶん、それだけのことだ」
「言えない理由って……なんですか?」
「そりゃわからんが、そうだな。たとえば――」
とは言ったものの、それらしい理由が思いつかず、俺は適当に言った。
「実は女です、とか」
「……」
にらまれた。……まあ、我ながらひどい回答だったと思う。
「いや、それは冗談としてだな。要するになんだ。……あー、上手く言葉が出てこねーけど……」
ごまかすように頭をかいた。
こういうときに自分の語彙の少なさを実感してしまう。
仕方なく、思いついた言葉だけを断片的に口に出していった。
「気を落とすなっつーか、元気出せっつーか……その」
「……」
明日香が俺を見つめている。
「あー……」
そしてついに言葉がなくなった。
……と。
その直後。
「……ぷっ。あはははははッ!」
「!」
突如、明日香が吹き出すように笑い出した。
それも店中に響き渡るような大きな声だ。
他に客がいなかったのが幸いである。
「……おい、なんだよ」
突然のことに俺が眉をひそめると、明日香はお腹を抱えながら、
「ごっ……ごめんなさい! 優希先輩の真剣な顔が、なんか妙にツボっちゃって……!」
「……おい」
せっかく真面目に話をしてやったというのに。
「だ、だって……」
さっきまでの沈んだ表情はどこへやら。
明日香は笑いをこらえきれないままに、
「優希先輩、もしかして熱でもあるんじゃないですか? 今さら本当はいい人でしたアピールをしても私の評価は覆りませんよ?」
「……」
ひどい言われようだ。
慣れないことはするもんじゃない、ってことか。
と、そこへ、
「はいよ。お待たせ」
バアさんが次々に俺の金――じゃなく、パフェとあんみつとクレープを運んでくる。
テーブルの上はあっという間に甘ったるい装飾品で埋め尽くされた。
「うわ。こうして並べて見るとやっぱすごいですね」
「ああ。……主に金額がな」
そんな俺の嫌味に動じた様子もなく、明日香は嬉しそうにパフェ用の細長いスプーンを手に取った。
そしてすぐに食べ始めるのかと思いきやいったん手を止め、チラッとうかがうようにこっちを見る。
そして、言った。
「まだ、1年ありますし」
「なんだ?」
聞き返すと、明日香は顔を上げてまっすぐに俺を見た。
「知らないんですか、優希先輩。恋って障害が多いほど燃えるものなんです。そりゃ、少しぐらいはテンション下がりましたけど、でもまだぜんぜん可能性あると思うし。……だから、ほら。先輩の気遣いはきっと、余計なお世話です」
「……そっか。そうだったかもな」
おそらくはカラ元気。
それでも俺は、明日香のそのヘタな芝居にだまされたフリをすることにした。
正直、再チャレンジしたところで可能性は薄いだろう。
ただ、諦めて別の恋に進むか、完全になくなるまで可能性を追い続けるかは、あくまでこいつの自由だ。
あるいは直斗が口にしたという、言えない理由。
それが解消されてという可能性も、決してゼロではないのだから。
「……優希先輩」
「ん?」
明日香が妙に殊勝な表情でこちらを見つめていた。
「今日はどうもありがとうございました。少し、元気出ました」
「……ごちそうさまでした、の間違いだろ」
からかうようにそう言うと、明日香は不満そうな顔をする。
「そうじゃなくて……もう! せっかく素直にお礼を言おうと思ったのに……」
「言わなくていーんだって。そんなんされたら、こっちの調子が狂っちまう」
「……カッコつけすぎです」
「うっせえ」
カラン、と、音がして、雨の音が大きくなる。
「あれ? ユウちゃんに……明日香ちゃん?」
入ってきたのは制服姿の雪だった。
「よぅ」
俺が手を上げると、雪はそんな俺と明日香の表情を見比べて、そして少し微笑んだ後、なにも言わずに店の中へと入っていった。
(……察したかな)
ふぅ、と、小さく息を吐いて背もたれに身を預ける。
そして――
(……理由、か)
再び俺の頭を過ぎったのはその疑問。
言えないほどの理由。
それはなんだろう。
(あいつ、もしかして――)
まさか。
まさか――と、そう思いながらも。
一抹の不安。
俺の周りにある日常と非日常。
その境界が曖昧になりかけているのではないか、と。
その不安はしばらくの間、俺の心に絡みついたまま離れようとはしなかった――