2年目3月「明日香、ふたたび」
3月に入って最初の木曜日。
この日は俺たちが通う風見学園高等部の卒業式だった。
親しかった諸先輩方と気軽に顔を合わせることができる最後の機会。
俺たちぐらいの年齢になるとさすがに卒業式で泣いたりするやつは多くはないが、それでもそれぞれに感慨深いものがあったりするのだろう。
……他人事のように聞こえたならそのとおりだ。
残念ながら俺には親しい先輩ってのがほとんどいない。中等部から上がってきてるから顔見知りぐらいはいなくもないのだが、卒業式にわざわざ挨拶しにいくような間柄ではないのだ。
高等部に来ておそらく一番多く言葉を交わした先輩はあの晴夏先輩だが、彼女はすでに退学している。
いたとしても別れを惜しむような関係では決してないのだが。
そんなこんなで、俺にとっては退屈以外のなにものでもない卒業式が終わり――
卒業式びより、とでもいえばいいのだろうか。
晴れ渡った青空。涼やかな春の風。
残念ながら桜の季節には少し早いが、清々しい初春の気配がそこかしこに芽生えていた。
校門の前で別れを惜しむ卒業生や在校生たちを横目に、帰宅する。
「僕らもあと1年だよ」
俺の隣でそんなことをつぶやいたのは直斗だった。
「あと1年、悔いのないようにしないと。中等部から上がって来たときと違って、今度はみんなバラバラになるんだから」
「んー……まぁ、そうかな」
あと1年。
まだまだ先というわけではないが、実感するには少し遠い。
そんな微妙な長さだと思った。
そのまま校門を出ると、門の外でも卒業生らしき生徒たちが写真を撮ったりして騒いでいる。
そしてふと、横に目を向けると、騒がしいのはこちらの校門だけではなかった。
「そっか。中等部も卒業式だったな」
「そうだね」
あっちは半数以上がそのまま高等部に上がってくるので、こちらほどの感慨はないだろう。
ただ、それでも負けず劣らずの騒ぐ声が聞こえてくる。
そして、
「……あっ!」
そんな中等部の卒業生たちの一団から、ひときわ大きな聞き覚えのある声が聞こえた。
俺は即座に言う。
「よし。急いで帰るぞ、直斗」
「え?」
幸い、直斗はその声の主にまだ気づいていないようだ。
「駅前のゲーセンに新しいガンシューが入ったらしい。急いで行くぞ」
「え、でも……」
突然の話題転換に戸惑う直斗。
そんな俺たちを追いかけてくる足音。
「あ、ちょっ、まっ……待ってくださいってば!」
「あれ?」
もう一度聞こえたその声に、直斗が足を止めて振り返ってしまった。
「今の声、もしかして――」
「振り向くな! 死ぬぞ!」
鋭く制止し、直斗の腕をつかんで強引に走り出す。
「ちょっ、ちょっと、優希……」
「男は過去を振り返らない! なぜなら、どんなに悔いようとも過去を変えることなど決してできないからだ!」
「……ちょっ、優希先輩! まっ……待てって言ってるでしょぉッ!」
これは危険だ。
ヤツがついに本性を現した。
「こ……のぉっ!」
ひゅん、と、なにかが風を切る音。
直後、後頭部に軽い衝撃が走った。
「いてっ!」
思わず足を止める。
カツンと乾いた音を立てて地面に転がったのは、空になったジュースのアルミ缶だった。
……こうなっては仕方ない。
俺は息を切らせた追跡者を振り返って軽く手をあげた。
「よお、明日香。久しいな」
「くっ……!」
明日香は呼吸で肩を揺らしながらこっちをにらんできた。
「全力で逃げておきながら……よくもまあ、いけしゃあしゃあと……」
「追われるとつい逃げたくなってしまう。人気者の悲しき習性というやつだ」
「別に優希先輩を追いかけてたわけじゃありませんから!」
「照れなくていいぞ」
「照れてないッ!」
相変わらずからかい甲斐のあるやつだ。
そうそう。
あまりに久々すぎて忘れられているかもしれないので、ここらでこの追跡者について改めて紹介しておくことにしようか。
こいつは今井明日香といって、俺たちの2学年後輩、中等部の3年生だ。
つまり中等部の卒業生である。
直斗にとっては中等部時代に所属していたバスケ部の後輩(といっても男女で別だが)であり、セーラー服を着ているところからしておそらく性別は女だ。
「おそらくってどういう意味です! どこからどう見ても女でしょ!」
「ふむ」
そう言われて仕方なく、俺はつま先から頭のてっぺんまで明日香の全身を観察してやることにした。
「な、なんですか……」
前回会ったのはいつだっただろうか。
もしかしたら1年近く会っていなかったかもしれない。
そんな1年以上前の記憶と比較すると、確かに少し女の子っぽくなっているようだ。
背も少し高くなったし、髪も以前より伸ばしている。
「おもしろくない成長の仕方をしたな」
「え?」
「普通の女みたいになった」
「……」
明日香は妙な顔をした。
褒められたのかけなされたのか、すぐには判断がつかなかったらしい。
直斗が苦笑しながら口を挟む。
「明日香ちゃん。それ、かわいくなったっていう、優希なりの褒め言葉だから」
「……そんなこと言ってねーし」
「という、照れ隠しだよね」
「く……」
こいつがいると色々とやりにくい。
ただ、当の明日香はそんな直斗の言葉を信じ切れなかったのか、じと目をこちらに向けて、
「……別に。優希先輩に褒められてもちっとも嬉しくないですし」
本当に嬉しくなさそうだ。
相変わらずこなまいきな性格はちっとも変わっていない。
しかしまあ、それもこいつの気持ちを考えれば当然だろう。
なにしろ俺の隣には、こいつにとっての大本命がいるのだから。
「そういえば今日そっちも卒業式だったよね。明日香ちゃん、高校は?」
直斗がそう聞くと、明日香は明らかに俺のときとは違う弾んだ声で、
「あ、そのまま上がります。特に行きたいところもなかったですし、それに高等部には直斗先輩もいますから」
わかりやすいというかなんというか。
ただ、そんなわかりやすい態度を取っているにもかかわらず、その本命にはまるで伝わっていないようだ。
「残念ながら僕はもうバスケ部じゃないよ。前みたいに教えられることはないし、今はもう明日香ちゃんのほうが上手になったんじゃない?」
「あ、いえ。そういう意味ではなくて……」
「ああ、でも、代わりに今度2年生になる木村くんって子がいるから。なにかあったらその子に色々と教えてもらうといいよ。僕よりずっと上手だからさ」
「え、その……は、はい……」
しゅん、と勢いを失ってしまう明日香。
この展開にはさすがの俺も同情を禁じえない。
「……ちょっと優希先輩。なんですか、その哀れむような目」
「明日香」
俺はそんな彼女の肩にポンと手を置く。
「喜んでいいぞ。今日の俺には、お前がとてつもなくかわいい生き物に見える。こういうのを判官びいきっていうのかもな」
「くっ!」
明日香はそんな俺の手を払って後ずさり、悔しそうな顔でにらんでくる。
そこそこの付き合いだけあって、俺の言葉の裏の意味を即座に理解したらしい。
「どうしたの、ふたりとも?」
と、怪訝そうな直斗。
いつもの鋭い観察眼はどこへ行ったのやら。
とはいえ、まあ。
この件については、明日香のアプローチが遠まわしすぎるのも原因のひとつではある。
直斗だって、自分が特別に慕われていることぐらいは気づいているはずなのだ。
ただ、スタートが同じ部活の先輩後輩という関係だっただけに、異性として慕われているのか、先輩として慕われているのかが、曖昧なままになってしまっているのだろう。
だから、明日香がそこをはっきり伝えない限りは、どこまで行ってもこのまま。
残念ながら直斗はそういうことに積極的な性格ではないのだから。
こう見えて、俺は明日香の恋路を応援する立場の人間である。
俺に対する数々の態度はともかく、こいつは基本的にはまっすぐで一途な性格だ。そんな健気な姿を見せられて応援せずにいられるわけもなく。
だから俺は今日も、彼女の背中を押してやるのだった。
「おお、明日香、見てみろ。あそこからちょうどお前のライバルがやってくるぞ」
「へ? ライバル?」
明日香が怪訝な顔をして、俺の指した先を振り返る。
そこにはちょうど、クラスメイトと一緒に校門を出てくる由香の姿があった。
「! ……ちょっと、先輩!」
「お?」
明日香の手ががっしりと俺の腕をつかんだ。
そのままズリズリと引きずられる。
「あれ、優希? 明日香ちゃん?」
「あ、直斗先輩。ちょっと待っててくださいね。私、優希先輩と大事なお話が」
満面の笑顔を直斗に向けつつ、明日香はその小柄な体躯からは想像もつかないような怪力で俺の体を近くの曲がり角まで引っ張っていった。
「……コホン」
そこまで引きずられてようやく解放された俺は、せき払いをひとつして、
「言っとくがな、明日香。俺はお前のような――」
「誘惑なんてしませんし、小学生じゃないし、かつあげもしません!」
「そ、そうか」
先回りされてしまった。
1年半も前の同じシチュエーションをよく覚えていたものだ。
立て続けに、鬼の形相になった明日香がまくしたててくる。
「いいですか、優希先輩! 前にも言いましたけど、直斗先輩に余計なことを言うのは絶対にやめてください!」
どうやら俺の好意が裏目に出てしまったらしい。
「……悲しいかな。他人とわかりあうことの難しさよ」
「先輩のは余計なお世話すぎるんです! そんなに私の邪魔をしてなにが楽しいですか!」
ばっさりやられてしまった。
これは心外だ。
確かに俺はおもしろい方向に転がってくれることを少しは期待していたりもするが、全体的にはこいつの望みの手伝いをしてやっているつもりである。
少し興奮気味の明日香に、俺は冷静に返してやった。
「なあ、明日香。……思うに、お前のアプローチは少しまどろっこしいんじゃないか? 今の調子じゃいつまで経ってもかわいい妹分から抜け出せないと思うぞ?」
「う……」
そんな俺の言葉に明日香は少しだけ勢いを失った。
どうやら自覚はあったらしい。
「で、でも! 私もあれからお母さんのお手伝いして、料理とかも少しはできるように……」
「由香のやつには遠く及ばんだろうしなぁ」
「直斗先輩との付き合いも長いし……」
「お前、あいつらがいつから一緒にいると思ってんだ? お前の5倍以上は一緒なんだぞ」
「も、もしかしたら私のほうが女性としての魅力に――」
「お前は神にケンカを売るつもりか」
「くっ……」
ことごとくを俺に否定され、悔しそうな明日香。
まあ実際のところ、由香と比べること自体に意味はない。
俺とてあいつらの心中はわからないが、少なくともふたりは付き合っているわけではないのだ。
ただ、それを指摘すると会話が終わってしまうのでとりあえず黙っておく。
これはこれで楽しい――もとい。向上心を刺激することは、結果的にこいつの将来に好結果をもたらすことになると信じて疑わないからである。
「お前も知ってのとおり、直斗のやつは未だにフリーなのが不思議なぐらいの人気者だ。モタモタしてるとスタートラインに立つ前に終わるぞ?」
「そ、それもわかってます」
徐々に神妙な顔になってくる明日香。
根っからの真面目人間なのだ。
「よし。わかってるなら話は早い。俺が今からあいつにすべてを打ち明けてきてやろう」
「それもわかっ――えっ?」
明日香はハッと我に返り、きびすを返そうとした俺のえりを後ろからつかんだ。
「ちょ……待ちなさい!」
「ぐぇっ!」
制服の合わせ目がのどぼとけを直撃する。
「げほっ……お、お前な……」
今のはマジで苦しかった。
明日香もそこまでやる気はなかったのか、一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしたが、すぐにいつもの強気な態度に戻ると、
「だから! そういう余計なことはするなって言ってるでしょ!」
「……俺、一応お前の先輩なんだが」
エキサイトすると敬語すらなくなる。
これもいつものパターンだ。
「とにかく!」
明日香はびしっと俺の眼前に人差し指を突きつけた。
「優希先輩に言われなくてもそのぐらいわかってますから! 直斗先輩が卒業するまであと1年しかないし、私だってなにも考えていないわけじゃありません!」
「ほう? 具体的には?」
「今年のバレンタインはちゃんとチョコ渡しましたし!」
「お、マジか。そりゃ快挙だな」
確かに前進と言ってもいいだろう。
これまではなんだかんだと迷った挙句に渡せずじまいだったことを知っているだけに。
ただ。
「今年あいつが受け取ったチョコの数は、確か20と……」
「わ、わかってますってば!」
動揺している。
大変なのだ、実際。
「本当の勝負はホワイトデーなんです! 直斗先輩からお返しがもらえたら、その場でちゃんと告白しようって、そう決めてるんですから!」
「ほほぅ」
「……あ」
明日香はしまったという顔をした。
どうやらそこまで言うつもりはなかったらしい。
「ちょ、ちょっと優希先輩! 今のは絶対誰にも言わないでくださいね!」
必死に口止めしようとする明日香。
俺は目を細めて、
「言うつもりはさらさらないが、このえり元の手はなんだ? もしかして俺は脅迫されてるのか?」
「約束してくれないなら、先輩を殺して私も死にます!」
「お……オーケーオーケー。わかったから少し落ち着け」
じっさいに絞まり始めたのど元に本気の殺意を感じ、俺は両手をあげて降参のポーズを取った。
「誰にも言わない。約束しよう」
俺は真摯にそう答えたつもりだったが、明日香はしばらく疑わしげにこっちをにらんで、
「……なら、今回は見逃してあげます」
と、ようやくえり元から手を離した。
ふぅ、とひと息。
(しかし……ホワイトデーか)
制服のえりを直しながら、直斗のもとへ戻っていく明日香の後ろ姿を見送る。
お返しがあれば、とのことだったが、直斗は差出人が不明だったりしない限り、必ずなんらかのお返しをするはずだ。
相手が仲のいい後輩であればなおのこと。
とすると――
(ふーむ……)
その日まであと数日。
結果は神のみぞ知る、といったところか。
ついでにいえば。
(……そういや俺も、ホワイトデーの準備しないとなぁ)
面倒なことを思い出してしまい、俺は明日香とは関係ないところで微妙に憂鬱な気分になってしまったのだった。