2年目2月「逃げずに前へ」
歩の転覆事件からひと息ついて、旅館のロビー。
「ふぅぅ……」
自販機で缶ジュースを買い、長イスに腰を下ろして栓を開ける。
脇には昔のゲームセンターにあったようなテーブル型の筐体が3台置かれていて、ピコピコと電子音を鳴らしていた。
ジュースをひと口飲んでようやく落ち着く。
歩はあの後すぐに目を覚ました。
今は部屋に寝かせ、看病は原因の一端を担った勝美さんと、騒ぎを聞いて駆けつけてきた華恵のふたりに任せている。
気乗りしない歩を露天風呂に誘ったことを、勝美さんは少し反省していたようだ。
それで責任を感じて自殺を図ったりしなかったのは不幸中の幸いである。
「ホント難儀だな、あの人は……」
と、ひとり言をつぶやく。
自殺志願者、かつ周りの空気を読めないボケキャラ。
そしてなによりやっかいなのが、悪気のなさである。
(……8年付き合った彼氏ってのも、なかなかガマン強いやつだ)
いったいどんな男なのだろうかと、逆に興味が湧いてきてしまった。
自分がいなきゃ彼女はダメになってしまう、と、そんな悲壮な決意を抱えた責任感ある男なのか。
あるいはそんな彼女の欠点に気づかないような超天然系の男なのか。
そして、
(……どっちにしろ、このどたん場で心変わりってのはやっぱりしっくり来ないよな)
改めてそう思った。
勝美さんのあの性格からすれば、8年間ずっと猫をかぶっていられたとは考えにくい。
つまり彼氏は、あの性格を充分承知の上で付き合っていたということだろう。
となると、やはりなにか別の理由があったと考えたほうがよさそうだ。
「……うん?」
そんなことを考えながら長イスの上で大きく伸びをしたところで、俺はふと気づいた。
俺のすぐ近くにはロビーと浴場をつなぐ通路があるのだが、その向こうに見知らぬ人物がいたのである。
(……ああ。やっぱ他にも宿泊客がいたんだな)
夕方見かけた家族連れや老夫婦とは違う。
ちらっとしか見えなかったが若い男だったようだ。
……と、そのときである。
「ッ……!」
パチ、という"耳鳴り"がした。
予知と表現するのも少々はばかられる、もしかしたら悪いことが起きるかもしれないよレベルの粗末な俺の特殊能力である。
(ちぇっ……相変わらず節操なしだな)
念のため周囲を見回してみたが、俺に危険を及ぼしそうなものの存在は見当たらない。
先ほどチラッと見えた宿泊客の姿も、とっくに通路の奥に消えていた。
「優希くーん」
「お?」
呼びかける声が近づいてきた。
声の主は確認するまでもない。勝美さんだ。
それで、耳鳴りのことはいったん俺の頭から消えた。
「よぅ。歩の様子はどうだ?」
「うん。布団に入ってたら眠くなっちゃったみたい。もうグッスリよ。あ、これ、飲んで」
そう言って勝美さんが缶コーヒーを差し出してくる。
先ほどジュースを飲んだばかりで、かつこの時間にコーヒーである。
相変わらずタイミングが悪いというかなんというか。
「おぅ、サンキュ」
それでも俺は受け取ってプルタブを開けた。
缶に口をつけながら時計を見ると、すでに22時を回っている。
夜更かしグセのある歩にしてはずいぶんと早い就寝だが、なんだかんだで今日は結構歩いたし疲れもあったのだろう。
「で?」
「うん?」
俺は缶コーヒーを飲みながら、隣に座った勝美さんを横目で見た。
「少しは気が晴れたのか?」
「……ええ」
少しためらいがあったものの、勝美さんは静かにうなずいた。
「おかげさまでね。優希くんと歩ちゃんを見てたら、あまりに微笑ましくって自分の悩みなんてすっかり忘れちゃったわ」
「忘れちゃマズイだろ」
思わず突っ込んでしまったが、気分転換になったのならそれはそれでいい。
勝美さんは笑いながら、
「それにしても、よくふたりっきりの旅行なんて許してくれたわねぇ。歩ちゃんのご両親も公認の仲なんだ?」
「あー……ぜんぜん違うんだけど、まあいいや」
きちんと説明しようかとも考えたが結局やめた。
この人のことだ。どう頑張っても曲解されるに決まっている。
そんな勝美さんの勘違いにしばらく付き合い続け、缶コーヒーを飲み終えたところで俺はよっと掛け声を出して腰を上げた。
「よし。じゃ、そろそろ部屋に戻るか」
と、空き缶をゴミ箱に放り込む。
「あ、ちょっと待って。私も一緒に戻るから」
後を追うようにイスから立ち上がる勝美さん。
俺はそんな彼女をじと目で見やって、
「……あんた、まさか俺たちの部屋で寝るつもりじゃないだろうな?」
「え? ま、まさかぁ……」
そう言いながらも、勝美さんは俺の後をくっついてきた。
「優希くんたちの部屋にクシを置いてきちゃったから取りに行くだけよ」
「……」
クシどころか荷物まで運び込んでいた気がするが、あれは回収済みなのだろうか。
「で、でもほら。ひとりで寝るのはちょっとだけ不安だな、とか――」
「却下だ」
即答。冗談じゃない。
邪魔だからとかそういうこと以前に、この人の場合は甘い顔を続けていると最終的に家まで付いてきそうなのが怖いのだ。
それに、俺たちが逃げ道を作り続けるのは、本人にとってもきっとよくない。
「あのな、勝美さん。無責任な意見はなるべく口にしないでおこうと思ったけど、ここまで付き合ったんだからこの際だ。……あんたの不安はきっと早とちりだよ。さっさと確認してスッキリしちまったほうがいい」
「え……あ、うん、そうかな……」
それでも不安そうな顔になる勝美さん。
「だいたいあんた……あー……」
ちょっと照れくさくなって言葉に詰まりながらも、俺は続けた。
「そいつのことが好きなんだろ? だったら死んでやるとか忘れちまうとか、そんな風に逃げてんのはちょっと違うと思うぞ? 俺には経験がないし偉そうなことは言えんけど、そういうのはやれるだけのことをやってみて、それでもダメだったらの話なんじゃないのか?」
勝美さんがピタッと足を止めた。
「……そう、よね」
「ん?」
「好きだったら。簡単に諦めたりしちゃダメなのよね」
そうしてゆっくりと顔を上げ、俺に向けた視線は相変わらず頼りなさそうだったが――
それでもほんの少しだけ。
強い光を宿していたように見えた。
「あはは……なんかダメダメだわ、私。君みたいな年下の子にさとされて、そんなことにも気づけなくて……こんなみっともない姿を見せて、ホント恥ずかしい」
「いや」
俺はすぐに答えた。
「最初から恥ずかしい人だと思ってたから、いまさら気にすることねーぞ」
「……ま、またそんな血も涙もない言い方をぉ~!」
「ええい! すがりつくな!」
一瞬でいつもの彼女に戻ってしまった。……いや、今回はわざとそれを演じたのかもしれない。
「優希くん、お願いだから私と一緒に彼と会ってよぉ!」
「なんでだよ! アホかッ!」
そんなやり取りをしながら勝美さんの部屋の前までたどり着く。
あと数歩進めば、歩が寝ている俺たちの部屋だ。
勝美さんがそこで足を止める。
俺は言った。
「クシ、いいのか?」
「うん。明日、取りに行くよ」
「そっか」
俺はそのまま足を進めた。
ふすまに手をかけたところで、勝美さんがポツリと言う。
「歩ちゃん、かわいいわね」
「ん?」
「優希くんはお目が高い。あの子はきっと将来美人になるわ」
「……そんなもんか」
そういや保健室の山咲先生も前に似たようなことを言っていた気がする。
俺にはよくわからんが、年上の女性たちからはそんな風に見えるらしい。
(……お目が高いも何も、別に選んだわけじゃないんだけどな)
そんなことを心の中でつぶやきながら、おやすみ、と、勝美さんに告げて部屋の中へ。
……と。
そこで俺は違和感を覚えた。
「……どうしたの?」
急に足を止めた俺に気づいたのか、部屋に戻りかけた勝美さんが怪訝そうにやってくる。
「いや……」
俺は土間に立ち止まったまま足もとを見下ろした。
置いてあるのは館内用のスリッパと俺たちの外履きのみ。
華恵はすでに仕事に戻っているようだ。
そして違和感の正体は――部屋の中、ふすまの向こうから流れてくるひんやりとした空気だった。
のぼせた歩のために窓を開けたのだろうか。
いや、眠っている人間を置いて、窓を開けたまま放置していくというのは考えにくい。
嫌な予感がしつつ、俺は土間から部屋に続くふすまを開けた。
電気が消され、暗い部屋。
中央に敷かれた2組の布団。
窓からのぞく綺麗な月。
風になびくカーテン。
「あれ? 私、窓開けたかしら……」
不思議そうな声をあげる、背後の勝美さん。
俺は無言を返し、部屋の電気を点けた。
そして、
(……まさか)
嫌な予感は的中していた。
「あれ、歩ちゃん……?」
おそらく歩が寝ていたと思われる場所。
そこは掛け布団が乱れたまま放置され、もぬけのからとなっていた。
一応トイレを確認する。
が、誰もいない。
「どこ行ったのかしらね?」
勝美さんはのんびりとそうつぶやいたが、歩が自ら部屋を出て行った可能性は低いだろう。
この状況ならまず窓を閉めて行くはずだし、なにより館内用スリッパも外履きも土間に残ったままだ。
とすると――
「……?」
そして俺は、歩が寝ていた布団の上に1枚のメモ用紙が落ちていることに気づいた。
各部屋に備え付けられているメモ帳を破ったものらしい。
拾い上げると、そこにはひどく雑な文字で、殴り書きがされていた。
『女の子は預かってる。ひとりで近くの滝へ』
それは、突如現れた誘拐犯の犯行声明文だった。