2年目2月「小便小僧」
サラサラという水の音が鼓膜に心地よい刺激を送ってくる。
風はやはり少しだけ冷たかった。
「静かだねー」
後ろの歩がそんなおもしろみのない感想をもらす。
「あいつの言ったとおり、ホントなんもねーとこだな」
ホテルの部屋でひと息ついた後、俺たちがやってきたのは旅館の裏手から伸びている細い山道。
歩がパンフレットを見ながら言っていた、小さな滝へと続く道だった。
従業員その1、もとい。華恵いわく『小便小僧みたいな滝』らしく、それだけで俺たちは見学する意欲を大幅に削がれてしまったわけだが、他になにもすることがないという現実に気づかされた結果、結局はこうして外に出てきたわけである。
腕時計を見ると時間は15時の少し前。滝までは歩いて10分余りとのことだったので、ゆっくりながめて引き返したとしても16時前には戻れるだろう。
それから少し長めに風呂に入ってちょうど夕食というのが、俺が頭の中で描いた計画であった。
ひゅぅ、と、ひときわ冷たい風が吹いて歩が首をすくませる。
周りを見ると、奥のほうにはまだ雪が残っていた。
「クマでも出そうだねー」
「この寒さならまだ冬眠してるんじゃないか?」
道の脇に立っている"クマ注意!"の看板をちらっと横目で見る。
万が一遭遇したとしても大丈夫だとは思うが、さすがにそんな不毛な争いに力を使いたくはない。
再び風が吹いた。今度はさっきよりも強い。
「歩。寒くないか?」
「平気ー」
歩はそう答えたが、風になびく長い髪とスカートを手で押さえて少し大変そうだった。
ひざが隠れる長さのロングスカートだから、よほどの強風でなければめくれ上がる心配はないと思うのだが、どうしても気になってしまうらしい。
「だから言ったろ。山道を歩くからパンツにしとけって」
と、俺は言った。
もちろん下着のことではない。
「そうなんだけどねー」
たはは、と、歩は照れくさそうに笑って、
「最近、なまいきにも雪お姉ちゃんの影響を多大に受けておりましてー」
「ああ……」
なるほど、確かに雪は基本的にスカートしか履かない人間だ。
というか、ウチの連中はどうもかたよったやつばかりで、雪はジャージ以外はスカートしか持っていないらしいし、逆に瑞希は学校の制服以外ほとんどスカートを履くことがない。
そんな中、歩は唯一その両方を履き分けるタイプだったのだが、どうやらスカート派に引き込まれつつあるようだ。
「瑞希お姉ちゃんみたいにカッコイイ女の人にも憧れるんだけどねー。……ねえ。お兄ちゃんはどっちが私に似合うと思う?」
唐突な質問。
俺はほとんど考えもせずに答えた。
「パジャマかな」
「え?」
「いや、なんとなく子守唄が似合いそうだなと思って」
「むー……」
「で……これが滝ってやつか」
不満そうな歩を放置して視線を前に向ける。
林道を抜け出たところは、学校の体育館ぐらいの広さの空間だった。
時計を見ると宿を出てからちょうど10分が経過している。
「そうみたい……だ、ね」
立ち止まり、俺たちは同時にそれを見上げた。
眼前にはガケがそびえ立っていて、そのてっぺんからは水が流れ落ちている。
下には柵を張り巡らされた大きな池があり、そこからあふれた水が小川のほうへと流れていた。
……ただ。
「まあ、滝といえば滝なんだろうが……」
ガケの高さはだいたい10メートルぐらいだろうか。
落ちてくる水は滝というにはあまりにも迫力に欠け、着水音もジョボジョボという感じである。
(こりゃ確かに小便小僧だわな……)
事前に華恵の話を聞いていただけに落胆こそしなかったものの、想像以上にしょぼかった。
「で、でも、ほら」
そんな俺の表情を見て心中を察したのか、歩が前向きな意見を口にする。
「流れる水が透明な糸みたいで綺麗じゃない? 岩肌の水も太陽に反射してキラキラと――」
「……無理すんな、歩」
たとえ本心からの言葉だったとしても、俺にはこいつのように乙女チックな見方はできそうにない。
この滝はどこまでいっても"小便小僧"のままだ。
「で、でもほら! せっかくだから記念写真撮ろうよ!」
そう言って歩がハンドポーチから取り出したのは古いカメラだった。
俺と雪が誕生日に記念写真を撮っているのと同じもので、どうやら雪から借りてきたらしい。
「撮るよー」
滝を背に交代しながら2枚ずつ写真を撮ったところで、歩が少し残念そうな顔をする。
「三脚持ってくれば良かったねー。せっかくの記念だから一緒に写りたいのに……」
「別にいいだろ。これでも充分記念になるって」
「そうだけどー……」
と、歩は諦め切れない様子で周りをキョロキョロと見回した。
どうやら誰かに撮ってもらおうと企んだらしいが、こんなしょぼい滝を見にそうそう人が来るわけもなく。
時期も少し悪かったのだ。
紅葉の季節ならまだ少しは観光客もいただろうに。
と。
「あっ」
歩が嬉しそうな声で俺のそでを引っ張った。
「誰か来たみたい」
「ん?」
振り返ってみると、俺たちが出てきた林道に人影が見えた。
あの旅館の泊まり客だろうか。
20代前半ぐらいの若い女性だ。
「あの、すみませーん」
さっそく女性に駆け寄っていく歩。
「? あら……」
女性は少しぼんやりしていたらしく、歩の声でようやく俺たちの存在に気づいたようだ。
歩が話しかけると、女性は最初戸惑ったような顔をしていたが、やがて2度、3度とうなずいた。
どうやら交渉成立のようだ。
「じゃ、撮りますね」
「はーい。お願いしまーす」
風で乱れた髪を直しながら歩が俺の隣に収まる。
念のために3枚ほど撮ってもらい、歩が再び女性に駆け寄っていった。
「どうもありがとうございましたー」
礼を言って女性からカメラを受け取る歩。
「いえ、どういたしまして……」
「あのー、お姉さんは地元の方ですか?」
「あ、えっと、ちょっと旅行で……」
歩はそのまま世間話に持ち込む気配だ。
俺は一歩離れてそれを見守ることにした。
「もしかしてそこのホテル『フラワア』ですか? だったら私たちと同じです」
「え? じゃあ、あなたたちも旅行……?」
「そうです。あ、私、神崎といいます。神崎歩です」
「そ、そうなの……はぁ」
女性が突然重いため息を吐いた。
そしてちらっと俺のほうを見る。
「いいわね、若いって……」
「え?」
歩が怪訝そうな顔をする。
(……なんだ?)
俺はそのとき初めて、女性に不穏な気配を感じた。
そもそも旅行に来ているという割にはずいぶんと暗い雰囲気である。
陽気で浮かれた調子の歩と並ぶと、それがよりいっそうきわだっていた。
……これはあまり長話をしないほうがいいのかもしれない。
俺は瞬時にそう感じたのだが、どうやら遅かったようだ。
「私にもあなたたちのような時代があったのね……なにもかもが懐かしいわ」
やっかいごとの匂い。
こういうときの俺の悪い予感はだいたい当たってしまうのだ。
「あ、あのー……」
歩もその不穏さに気づいたようだが、自分から始めた世間話を強引に切り上げるわけにもいかなかったのだろう。
ちょっと困ったような愛想笑いを浮かべて、女性に質問した――もとい。
"地雷"を踏みに行った。
「な、なにかあったんですか? あの、私でよければお話を……」
「ぐすっ……」
「え、あ、あの!」
突然涙ぐんだ女性に、歩がオロオロする。
「本当だったら……私も今ごろはあなたたちみたいに……ぐすっ……」
「え、ええっと……」
歩が助けを求めるようにこっちを振り返ったが、俺は無言で首を横に振った。
自分でなんとかしろ、の意である。
「……歩ちゃんって言ったわよね」
「は、はいー……」
女性はすすり上げながら手の甲で涙を拭い、歩の両肩に手を置いた。
「あなたはまだ若いんだから。そちらの彼氏さんと幸せになるのよ……」
「え、そ、そのー……」
誤解だと口にすることさえ許されない。
そんな空気だ。
歩が再びこっちを見て、"助けてくれアピール"をする。
(……いや。これは俺にも手に負えん)
俺は人差し指で×印を作って返した。
察するに、旅行は旅行でも傷心旅行といったところなのだろう。
しかもまず間違いなく恋愛がらみだ。
となれば、はっきり言って関わりたくないし、関わったところで慰めようもない。
ここは多少強引にでも切り上げてサヨナラをすべきだ。
……と。
俺はそんなことをアイコンタクトで歩に伝えようとしたのだが――
「あぁ、綺麗な景色ね……」
歩がなにか言うよりも先に女性が動いた。
滝をながめながら1歩、2歩と池のほうへ近づいていく。
「……よいしょっと」
女性は手にしていたハンドバッグから封筒のようなものを取り出した。
それを足もとに置く。
「……」
俺と歩は黙ったまま、成り行きを見守っていた。
履いていた靴を脱ぎ。
それを綺麗に揃えて。
柵に足をかける。
そっと手を合わせて――
「お父さん、お母さん。先立つ不幸をお許しください……」
「……ちょっと待てぇぇぇッ!!」
結局、関わらずにはいられなくなってしまったのだった。