2年目2月「ふたつの傘」
その日の放課後。
午前中に降り出した雨は予想以上に勢いを増して降り続いていた。
「おーい、直斗。帰ろうぜー」
「あ、ごめん優希。今日、掃除当番だから」
「ああ、そっか。んじゃ今日は先に帰るわ。また明日な」
「うん。また明日」
直斗と別れの挨拶を交わし、カバンを手に出口に向かって歩きだす。
昼間に話をした神村さんの姿はとっくになく、歩もどうやら、由香を通して最近仲よくなったクラスの女子と一緒に帰ったようだ。
その由香は学級日誌を出しに職員室に行っている。
そのまま俺はひとりで教室を出た。
階段を2階分降りて玄関へ向かう。
(……うわ、すげー雨だな)
玄関の脇には貸し出し用の傘立てが出されていたが、すでに使い切られて空っぽだった。
周りには困った顔で空を見上げている生徒が何人もいる。
(ご愁傷様)
俺もいつもはだいたいその仲間なのだが、今日は雪に言われて折り畳み傘を持ってきていた。
あいつの的確な助言に感謝しつつ、カバンから傘を出して外靴に履き替える。
と、そのときだった。
「あ、不知火くん! ちょっと待って!」
「ん?」
その声に振り返って、
「……おぅ」
どんな顔をすべきか一瞬迷ってしまった。
小走りに駆け寄ってきたのは、木塚だったのだ。
「どうした?」
そう聞くと、駆け寄ってきた木塚は俺の微妙な表情に気づいたのか、
「あ、別に返事の催促とかじゃないから安心して。今はそれより緊急の問題なの」
「緊急?」
「不知火くん、私を見てなにか感じない?」
と、木塚は両手を広げてみせた。
「んー……?」
しばし見つめ、考える。
身長160センチ弱、推定体重は40キロちょいといったところか。
髪はセミロングで毛先が微妙に外に跳ねている。ルックスは水準以上。高等部の制服を着てカバンを持っている。
「おそらくは風見学園高等部2年の女生徒でしょう。クラスではちょっとだけ目立つ存在かもしれません」
「……不知火くん、もしかしてアドベンチャーゲーム好き?」
「いや、そうでもない」
さらっとこういう返しが出るのは、多少なりとも俺と付き合いのある人間ならではだ。
まったく知らないヤツが相手だと、だいたい変な顔をされて終わりである。
「私の外見の話じゃなくて。ほら、なんていうかさ。あってしかるべきものがないと思わない?」
「ああ、そうか」
俺はようやく気づいた。
「そうだな。今どきの高校生とすると、胸はもうちょっとボリュームがあってしかるべきかもしれん」
「……オヤジくさいよ」
ちょっとにらまれた。
さすがに調子に乗りすぎたか。
「すまん。つまり傘がなくて困ってるってわけか」
もちろん最初から気づいていた。
ただ、その事実とこいつが俺に声をかけてきた理由を考えると、その先にある展開がどうも好ましくないものになりそうな気がしたので、あえてトボけていたのである。
「そうそう。で、幸い不知火くんとは途中まで帰り道が一緒だったよね?」
「だったよねもなにも、俺はお前の家を知らんのだが」
「公園の辺りまで一緒。あ、別にストーキングしたわけじゃないから。昔、帰る途中の姿を何度か見かけただけ」
そんなことは疑っていない。
というか、女の子に好意からストーキングされるのは、俺としてはむしろ歓迎である。
「ということで」
ぱんっと、目の前で木塚が両手を合わせた。
「お願い。不知火くんの傘に入れてって」
「……」
これはどうなのだろうか?
純粋に傘がなくて困っているだけだろうとは思うのだが、その一方で、もしかすると俺の心を量りたがっているのかもしれないとも思う。
傘に入れていくぐらいはどうということもないのだが、今の状況ではただの善意ですということにもならないだろう。
(……どうしたもんかな)
そんな風に頭を悩ませていると――
「……あの」
少し離れたところから別の声。
「おぅ。日直の仕事終わったのか?」
振り返ると、そこには由香が立っていた。
手にはカバンと傘を持ち、ちょっと遠慮がちな仕草をしている。
「ごめんね、話の途中で」
まず最初にそう言って謝る由香。
どうやら俺たちの会話自体は少し前から聞こえていたようだ。
「あ、うん。別にいいけど」
木塚は気を悪くした様子もなかった。
特別親しいわけではないと由香は言っていたが、一応顔見知り程度ではあるようだ。
「どうした? なんかあったか?」
「あ……うん」
由香は少し言葉に詰まった。
手にしていたカバンと傘を忙しなく弄びながら言葉を探している。
妙な態度だ。
本来こいつは、こういうときは気を遣ってなにも言わずに通り過ぎていく性格のはずである。
「……」
気づくと、木塚もなにやら神妙な顔で由香を見ていた。
妙な空気が流れる。
正直、居心地のいいものではない。
「えっと……うん」
数秒後、ようやく考えがまとまったのか由香が顔を上げて言った。
「木塚さん、傘がないんだよね? よかったら私の使って」
「え?」
差し出された傘を見てびっくりした顔の木塚。
「だって木塚さん、優希くんと途中までしか一緒じゃないでしょ?」
と、由香は言った。
それはそうだ。
もちろんそうなった場合は、ちゃんと木塚の家まで送っていくつもりだったが。
「でも、それじゃ水月さんが困るんじゃ……」
「私は……」
また言葉に詰まる。
視線が下を向きそうになったが、それを強く振り払うように顔を上げ、由香は言った。
「私は……あの、優希くんのすぐ近くだから」
「は?」
一瞬意味がわからなかった。
そんな俺の怪訝な視線に気づいたのか、由香がしどろもどろになりながら答える。
「あ、あの……家が、すぐ近くだから……」
「……ああ」
そこで俺はようやく悟った。
つまり傘を木塚に貸して、自分が俺の傘に入っていくということを言いたいらしい。
確かに、木塚の家がどこかは知らないが、由香の家より近いとは思えない。
そのほうが合理的なのは間違いないだろう。
「どうする、木塚?」
「……え?」
声をかけると、相変わらず神妙な顔をしていた木塚がハッとしてこっちを見る。
「あ、そうだなぁ……うーん」
数秒ほど、考えているのか考えていないのかよくわからない顔をして、
「でもやっぱり水月さんに悪いから……うん。じゃあ私、まだ残ってる友だちを探してみる」
「大丈夫なのか?」
「うん。一応、掃除とかで残ってる友だちもいるから」
「そっか。なら」
それで済むならそれに越したことはない。
「じゃあそういうことで。またね」
と、木塚がきびすを返す。
「あ……」
由香は一瞬それを呼び止めようとしたが、
「……」
結局手を伸ばしかけただけで言葉は出なかった。
帰り道。
心なしか雨は少し勢いを弱めている。
「……私、嫌なこと言っちゃったね」
あそこまで一緒になってバラバラに帰る理由もなかったので、俺は由香と一緒に帰り道を歩いていた。
もちろん傘は2本ある。
「ん? なにがだ?」
振り返ると、由香は自分の足もとをじっと見つめて沈んだ顔をしていた。
「木塚さん、きっと優希くんと一緒に帰りたかったんだよね? なのに、私……」
「あー」
そうかもしれない、とは思うが。
「別に気にしなくていいんじゃないか? お前の言うとおり、途中までしか一緒じゃないんだしな」
すると、由香はうかがうように視線をあげて、
「でも、優希くんだって、そうなったら木塚さんの家まで送っていくつもりだったでしょ?」
「どうだか」
とぼけてはみせたものの。
普通に考れば、途中まで送っておいて『はい、さようなら』と雨の中に放り出すわけにもいかないだろう。
「ま、どっちにしろ学校帰りに相合傘なんてやりたかねーしな。そういう意味じゃ俺は助かったぞ」
「じゃあ、私が口を挟まなくても断るつもりだった?」
「どっちかっていうとな」
実際にはわからない。
「……そっか」
傘が軽くぶつかって、由香は少しだけ俺との距離を広げた。
少しの沈黙。
俺の外靴はつま先に小さな穴が空いていたようで、中はすでに濡れてぐちゃぐちゃだった。
「じゃあ……」
「ん?」
もう一度振り返ると、由香は傘で目線を隠しながらこっちを見ていた。
「木塚さんの告白……断るの?」
「それと今日のこととは関係ねーだろ?」
そう言って頭をかく。
仮に恋人同士だったとしても、俺は相合傘みたいなことはなるべくしたくないタイプだ。
人前では必要以上にベタベタしたくないのである。
「……そっか」
由香はそのまま沈黙してしまった。
再び正面を向く。
パラパラという雨の音が妙に大きく聞こえてきた。
(……けど、やっぱ無理なんだよな)
由香には言わなかったが、俺は心の中ではすでに木塚の告白を断ることを決めていた。
木塚は紛れもなく日常世界の住人で。
そして俺は、いまだに体の半分を非日常に置いている。
だから無理だ。
もったいないという気持ちはもちろんあった。
あれだけかわいい子が俺のことを好きになってくれて、4年間も思い続けてくれたというのだから。
男だったらそれが嬉しくないはずはない。
ただ、それでも、木塚はきっと俺の中の非日常を受け入れてはくれないだろう。
そんな予感があった。
だから、やはり無理なのだ。
……パシャパシャという小さな足音。
後ろの由香はずっと黙ったまま。
そして、ふと考えた。
(……こいつならどんな反応するんだろうな)
妄想する。
もしも俺が由香の前で正体を明かし、その力を見せつけたなら。
おそらく最初は手品だと思って不思議そうな顔をするのだろう。
すごいすごいと賞賛の声を上げるかもしれない。
けど、俺はその後で手品ではないことを証明するのだ。
姿を変え、降りしきる雨を次々に蒸発させていって。
きっとその表情は徐々に驚きに変わっていく。
そして――
(……どうだろう)
その後の反応がいまいち想像できなかった。
悲鳴をあげて逃げるのか。
戸惑いながら説明を求めてくるのか。
……好奇心が湧いてくる。
もちろん実際にやったりはしない。
愚かな好奇心で壊してしまうには、この日常は貴重すぎたから。
ただ。
(こいつらならもしかすると……)
由香や直斗だったら。
もしかしたらすべてを受け入れてくれるんじゃないか、と。
それは単なる希望的観測に過ぎないのかもしれないが――
雨の中。
結局、俺たちは帰宅するまで無言のままだった。