2年目1月「お見舞い」
「優希くんってそんなに神村さんと仲よかった?」
神村さんの家に向かう途中、由香はずっと不思議顔だった。
「仲がいいっつーか、別に悪くはないぞ」
「でも、自分からお見舞いに行くって言い出すなんてちょっと意外」
由香はどうにも納得できなかったらしい。
しかしまあ確かに。
もし俺が普通の人間で悪魔狩りとまったく接点がなかったら、神村さんのような人とは一生縁がなかったかもしれない。そういう意味では由香の疑問は当然とも言える。
「つか、そんなに不思議ならどうして俺に神村さんのこと聞いたんだ?」
「え? あ、それは、ほら。神村さんて歩ちゃんと仲よしじゃない? だからもしかしたら優希くんも知ってるかなって」
「じゃあそれでいいじゃん。歩を通してちょっと交流があるってことで」
「うーん。でも優希くんがお見舞いだなんて……」
俺はそんなにも薄情な人間だと思われているのだろうか。
そんな話をしながら神社に続く長い階段を上がっていく。
強い風が吹いて顔を伏せた。隣を見ると由香も寒そうにしている。
ここ数日、雪は降っていないが冬らしい寒さが続いていた。
首をすくませながら階段を上がりきり、境内へ。
以前なら放課後のこの時間には必ず神村さんがほうきを持って立っていたものだが、今はその姿もなく人影はひとつもなかった。
鳥居を抜けて正面には拝殿。
その左の少し奥に平屋の建物があって、そこが表向きの神村さんの自宅ということになっている。
"神村"という表札の下にある呼び鈴のボタンを押して少し待った。
どういう反応が返ってくるのか楽しみだ。
そして数秒。
「はーい」
聞こえてきたのは若い女の声。
神村さんのものではないが聞き覚えがある。
(美矩か……)
悪魔狩りの一員である、自称隠密の少女。
そういえば、あいつは神村さんの妹という設定だったような気がする。
「どちら様ですかー?」
中から聞こえてきた美矩の声に、由香が答える。
「あ、私、神村さ……沙夜さんのクラスメイトで水月といいます」
「あ、はいはーい」
カラカラと音を立てて開く古いスライド式のドア。
顔を出した美矩はいつもの隠密姿ではなく、ごくごく普通の女の子の服装だった。
どうにも違和感がある。
美矩はチラッと由香の後ろにいる俺に視線を向けたが、そ知らぬ顔をして、
「どーもー。沙夜姉様の妹で美矩といいます」
「妹さん? あ、妹さんがいたんだ」
「はいー。後ろの方は確か……ええっと不知火さん、でしたっけ。いつも沙夜姉様がお世話になってます」
しらじらしくそう言ってペコリと頭を下げる。
どうやら多少は顔見知りという設定で行くつもりらしい。
「あ、優希くんは知ってたんだ?」
そして、そんな美矩の演技にコロッとだまされる由香。
「不知火さんとは沙夜姉様が親しくさせていただいてまして。この家にも何度か遊びに来ていただいたことがあるんですよ」
と、嘘八百を並べ立てる美矩。
来たことがあるのは確かだが何度も来ているわけじゃないし、そもそも遊びで来たことは一度もない。
ただ、ここは合わせるしかなさそうだ。
「ま、こいつとはチラッと顔を合わせた程度だけどな。……元気してたか?」
「見てのとおりです。ま、元気だけが取りえですから。今日は沙夜姉様のお見舞いですか?」
「あ、はい。それと今日までのノートを持ってきたのでそれを渡したくて」
「ノートですか?」
美矩は驚いたような顔をしたが、それが本気なのか演技なのかは判断できなかった。
ただ、すぐに納得した様子で大きくドアを開けると、
「では、どうぞ。姉様も今日は調子がいいみたいなんで」
と、言った。
意外にもすんなりと会うことができそうである。
美矩に連れられて家の中へ。
前にも入ったことはあるが、平屋といっても結構広い。ちょっとした屋敷のような広さだ。
「今日は父様も母様も上の姉様もいないので、大したおもてなしはできませんけど」
歩くたびに小さくきさむ木の廊下を進み、たどり着いた先は応接室のような部屋だった。
広さは16畳ぐらいだろうか。もちろん和室で、中央には光沢のある黒い木製のテーブルが置かれている。
「少し待っていてください。今、姉様を呼んできます」
言われるままに座布団の上に腰を下ろす俺と由香。
美矩が部屋を出て行くと、由香が感嘆の息をもらしながら部屋を見回した。
「神村さんってお姉さんと妹さんがいたんだね」
「ん。まーな」
姉の存在は初耳だったが、それもおそらくは本当の姉妹ではない。
実際はひとりっ子のはずだ。
そうしてそれほど待たないうちに、
「お待たせしました」
聞き慣れた静かな声。
俺と由香は同時に部屋の入り口を振り返る。
「不知火さん、水月さん。ようこそ」
ふすまの向こうから姿を現した神村さんはいつもと変わらない淡々とした口調だった。
ただ、襦袢のようなものに羽織をまとっただけの姿で、確かに病人のような格好だ。
演出なのか、それとも本当に体の調子がよくないのか。
それはわからない。
神村さんはゆっくりとふすまを閉じて足音も立てずに歩いてくると、テーブルを挟んで俺たちの正面へ腰を下ろした。
「……」
由香はそんな神村さんの所作に見とれている。
「どーぞ。お茶です」
神村さんの後からすぐに部屋に入ってきた美矩が、盆に載せた茶を3つ、俺、由香、神村さんの順に置いていく。
湯のみからは湯気と緑茶の香りが立ち上っていた。
神村さんが横目で美矩を見る。
美矩はうなずいてすぐに部屋を出て行った。
「それで。今日はどんな御用ですか?」
と、神村さんが言った。
俺に向けられた視線には怪訝そうな色が混じっている。
由香と一緒に訪ねてきたことで、意図がつかめず困惑しているのだろう。
「あ、えっとね」
そんな空気にはまったく気づいた様子もなく、由香はやや緊張した面持ちで手元のカバンを開いた。
「あの、神村さん、学校始まってからずっと休んでたから授業のノート持ってきたの。それとこっちは果物。ご家族もいるし必要ないかなと思ったんだけど、もしよかったら食べてください」
「お見舞い、ということですか?」
神村さんは少しだけ不思議そうな顔をした。
どうやら俺たちがどんな用でやって来たのか、美矩からはまったく聞かされていなかったらしい。
「うん。はい、これ」
由香がノートと果物の入った袋を差し出すと、神村さんは無言のままにそれを受け取った。
ノートの中身に軽く目を通し、それらをテーブルの端に寄せて由香に小さく頭を下げる。
「わざわざすみませんでした、水月さん。お手をわずらわせてしまったようです」
「あ、ううん、ぜんぜん! 私って復習するのにいつも自分のノートを写したりするの。だからそのついでで」
と、手を振って答える由香。
いつもノートを写してるってのはたぶん嘘だろうが、俺はなにも言わなかった。
神村さんもおそらくは気づいている。
「それで、不知火さんのほうはどのような御用ですか?」
「ん。あー」
聞きたいことは色々あったものの、由香がいるこの場で聞けることは限られていた。
「なんとなく。こいつの付き添いってのと、神村さんが元気にしてるかなと思って」
「そうですか」
その言葉を信じたわけではないだろうが、神村さんはそれ以上なにも言わなかった。
と、そこへ。
「沙夜姉様」
部屋の外から、先ほど出て行ったばかりの美矩の声が聞こえてくる。
「美琴姉様が帰ってきたみたいです」
言葉と同時に、もうひとつの足音が近づいてきてふすまが開いた。
「やあ。君らが沙夜のクラスメイトの子たちか」
姿を現したのは美琴さん。つまりは緑刃さんだ。
どうやら上の姉というのは彼女のことだったらしい。
納得の配役である。
「わざわざ来てもらってすまないな。いつも沙夜が世話になっている」
そんな緑刃さんの視線がまず俺に向けられた。
特に意外そうな顔をしないところを見ると、俺が来ていることは美矩から聞かされていたのだろう。
いや、むしろその報告を受けてわざわざやってきたと考えるべきか。
こちらはどうやら面識がないという設定でいくようだ。
「あ、え、えっと……」
突然の緑刃さんの登場に由香は緊張しているようだった。
まあ無理もない。緑刃さんは女性にしては大柄だし、なにより態度や雰囲気に威圧感がある。
実際には見た目よりもずっと話しやすい人なのだが、初対面の由香にそんなことがわかるはずもなく。
「み、水月と申します。えっと……あ、こ、こちらこそ沙夜さんにはお世話になってます」
「水月さんか。そう硬くならないでくれ」
そんな由香の心境を察したのか、緑刃さんは少し表情をやわらげた。
「沙夜も今日は調子がいいみたいだし、ゆっくりしていって欲しい。ああ、そちらの男の子も」
「はい。遠慮なく」
俺がそう答えると、緑刃さんは軽く目配せしてからすぐに部屋を出て行った。
さらに美矩が、由香に気づかれないように親指で廊下の向こうを指し示す。
どうやら緑刃さんから俺に話があるようだ。
「じゃ、私も部屋に戻ってますね。ごゆっくり」
美矩もなにげない顔をして再び部屋を出て行く。
「……はー」
由香は緑刃さんたちの出て行ったほうを見ながら、感嘆の息をもらしていた。
どうやら雰囲気に完全に圧倒されていたようだ。
「あ、ええっと……それで沙夜ちゃん。体の調子はどう?」
思い出したように神村さんにそう尋ねる由香。
呼び方がいつの間にか『沙夜ちゃん』になっているのは、勢いあまってといったところだろうか。
神村さんは気にした様子もなかった。
「水月さんはどうしてここへ?」
「え? お見舞いだけど……」
「いえ、そういうことではなく」
呆気にとられた顔の由香に、神村さんはいつもの真っ直ぐな視線を向けて、
「水月さんとは特に親しくしていた記憶がなかったものですから」
「あ、そういうこと? ええっと、それは……」
そんなことを単刀直入に聞かれるとは思っていなかったのだろう。
由香は困ったような顔をしながら、俺のほうに助けを求めるような視線を送ってきた。
ただ、俺があえてなにも答えずにいると、やがて諦めたような顔をして、
「その、ずっと休んでたから気になってたし……それに、少しでも友だちになるきっかけになったらいいなって思って……」
結局、正直に答えることにしたらしい。
俺としても、それが正解だろうと思った。
「迷惑だった……かな?」
神村さんが表情を動かさないのを見て、由香が少し不安そうな顔をする。
ただ、神村さんはすぐに首を横に振った。
「いえ、迷惑ではないです。心配していただいて感謝しています。風邪のほうはもうほとんど治っていますから」
「……あ、うん」
ホッとした顔の由香。
そんな神村さんの言葉が本心だったのか、あるいは大人の受け答えだったのかはわからない。
ただ、俺が見る限り、少なくとも悪い印象ではなかったようだ。
「そうそう。沙夜ちゃん」
そして、由香はそんな神村さんの言葉に自信を持ったらしく、控えめながらもさらに突っ込んでいった。
「昨日の数学ね。ちょっとノートだけじゃ難しいところがあったから少し説明してもいいかな? 時間があったらでいいんだけど……」
「はい、お願いします」
これも神村さんは素直に応じた。
(……さて、と)
この流れなら俺が席を外しても大丈夫だろう。
あるいは、神村さんがあえてそういう空気を作ってくれたのかもしれない。
俺はその場に立ち上がった。
「なあ、神村さん。悪いけどちょっとトイレ借りてもいいか?」
「はい。どうぞ」
「悪いな」
席を立って部屋を出る。
そしてまっすぐに緑刃さんの消えた廊下の先へと進んだ。
少し歩くと、手招きする美矩の姿があって、
「来たか」
その部屋の中では緑刃さんが正座で俺を待っていた。
「どうも。急に押しかけちゃってすみません」
用意されていた座布団に腰を下ろすと、ごゆっくり、と言って、美矩が部屋を出て行く。
緑刃さんはそんな美矩の姿を視線だけで追いながら、
「いや、いいんだ。こちらこそ何度も門前払いしてすまなかった。それと先日の幻魔の件。まとめて謝らせてもらう」
「ああ、いえ。別に文句を言いに来たわけじゃないですから」
「事情が事情でな。光刃様もさすがに参っておられたようなので、学校については私の判断で休ませていた」
一番知りたい話題が向こうの口から出てきたので、俺はすかさず尋ねる。
「その事情ってのは、教えてもらえるんですか?」
「ああ。……正直言えばどうすべきか迷っていたんだが、あの戦いに協力してくれた君には話しておくべきかと思ってな。ただ、絶対に他言はして欲しくない」
「約束します」
即答すると、緑刃さんは満足そうにうなずいた。
「実は……先日のあの戦いの最中に、組織から裏切り者が出たんだ」
「裏切り者、ですか」
それほど意外ではなかった。
緑刃さんの口が重かったことから、ある程度は推測できていたことだ。
「その裏切り者は、我々が女皇たちと戦っている間に、違う場所に避難していた紫喉様をはじめとする幹部の方々の命を奪い、あまつさえ神刀"煌"を奪って逃走したんだ」
「紫喉って……あの、偉いおっさんか?」
俺の問いかけに黙ってうなずく緑刃さん。
「……そっか。死んじまったのか」
脳裏によみがえる、気難しそうな初老の男性。
俺にとっては敵といってもいいような存在の男ではあったが、それでも死んでしまったとなるとなんともいえない気持ちになった。
気を取り直してさらに尋ねる。
「その、神刀とかいうのは?」
「ああ。君も何度か光刃様とともに戦ったことがあるだろう? 光刃様が持っていた光の刀、あれが神刀"煌"だ」
「あの、どこからともなく出てくる不思議な刀のことか」
「そうだ。それで、今はその裏切り者の行方を全力で追っている。ただ、組織のほうも幹部の方々が多数亡くなられて上手く動かない。今はそんな状態だ」
そう言った緑刃さんの顔にも、確かに色濃い疲労が見て取れた。
ただ、俺はすぐに疑問を抱く。
「けど……いくら裏切りがあったからって、たったひとりですよね? そいつが裏切っただけでいきなりそんな大惨事になっちゃうもんですか?」
確かに暮れの戦いは悪魔狩りにとっても全力を注入した戦いで、その最中に想定外の裏切りがあれば大きな被害が出ることは考えられるだろう。
しかし、組織のトップクラスが大量に殺害され、どうやら大切なものらしいアイテムまで奪われてしまったというのは、いくらなんでもずさんすぎる。
ただ、そんな俺の疑問は、どうやらこの話題の確信を突いていたらしい。
「もちろん君の言うとおりだ。組織としてほころびがあったことも否定はしない。ただ、言い訳するとしたら、今回の事態は絶対に裏切らないはずの……いや、私たちがそう信じ込まされていた人間が裏切ってしまったことが原因でもある」
吐き捨てるようにそう言った緑刃さんの言葉には、珍しく様々な強い感情が混ざり合っていて、テーブルの上にあったこぶしには軽く力がこもっていた。
「そいつの名前は、神楽竜夜という」
「神楽?」
俺はすぐに、それが緑刃さんの本名である"神楽美琴"と同じ名字であることに気づく。
おそらくは家族なのだろうと思ったが、その時点で連想できたのはそこまでだった。
「君も知ってる人間だよ。竜夜というのは、青刃の本名だ」
「えっ?」
驚く。
「青刃さんって……でも、あのとき一緒に戦っていたはずじゃ……」
「だからこそ、だ。あいつにまんまとだまされていたということもあるが、命がけで女皇たちの侵攻を食い止めているあいつが、その戦いの最中に裏切るなんて誰も考えていなかったんだ」
「……まさか」
それだけをつぶやいて、俺は二の句が継げなかった。
確かに俺は青刃さんが苦手だった。
なにを考えているのかいまいちわからないところがあったし、実際に意図のつかめない発言を何度も聞いている。
ただ、神村さんはそんなあいつに絶対の信頼を寄せていた。
今の発言からすると緑刃さんも同じなのだろう。
それに青刃さんのほうも、神村さんに向ける兄のような眼差しは本物だった。
そこにこもっていた愛情は本物だった。
少なくとも俺はそう感じていたのだ。
……いや、だからこそ、なのだろう。
緑刃さんが言ったように、それほどに信じられない裏切りだったからこそ、こんなにも大きな被害が出たということだ。
「あいつの目的は? 女皇たちの……クロウとかいうやつの仲間だったってことですか?」
「いや、それとは別の集団のようだな」
「別の集団……か」
俺の脳裏にはすぐに晴夏先輩たちのことが思い浮かんだ。
そういえば新学期に入ってから保健室で晴夏先輩の姿を一度も見ていない。
今度、クラスを訪ねてみたほうがよさそうだ。
「……なるほど。よくわかりました」
なんにしても、これでようやく事情がつかめたのだ。
一呼吸置いて。
「それで、神村さんの容態は?」
あえて話題を変えると、硬くなっていた緑刃さんの表情がいくらか和らいだ。
「ああ。元日にはここに来ていたのだろう? 体のほうは心配ない。学校にも近いうちに顔を出すことになるだろう」
「そーですか。なら安心です」
俺は能天気にそう答えたが、今の緑刃さんの言葉が、逆に神村さんの精神的なダメージの大きさを物語っていることにはもちろん気づいていた。
ただ、学校に出てこられるのならば、それも改善しつつはあるということなのだろう。
「……今日のことは沙夜にとってもいい気分転換になる」
と、緑刃さんは由香たちがいる部屋の方向を見ながら微笑んだ。
こうして神村さんのことを下の名前で呼ぶとき、緑刃さんは本当の姉のような表情になる。
それを見て、俺も少し安心したような気分になった。
「そういえば」
緑刃さんがふと思い出したように言う。
「あの一緒に来た娘は、君のガールフレンドか?」
「ああ……まあ、ガールフレンドっすね。女友だちって意味でなら」
「いや。下世話な勘繰りをするつもりはないんだ」
緑刃さんはさらりとそう言って、
「性根の良さそうな娘だと思ってな。ああいう娘が近くにいてくれるのは沙夜にとっていいことなんだ。なにしろコミュニケーションを取るのが下手なものでな」
「性根の良さだけなら保証しますよ。なんなら嫁に出しましょうか?」
そう言うと、緑刃さんは苦笑した。
「私も沙夜も同性愛に興味はないんだ。こう見えても、男性にリードされる夢を見ることもある。たまにはな」
「……そういう意味じゃなかったんですが。すんません」
素直に謝ると緑刃さんは小さい声で笑って、
「いや、気にしないでくれ。君に悪意があったなんて思ってないし、私自身のことは私が一番よく知っている。……さて、そろそろ本部に戻るよ。いつも慌しくてすまないな」
「ああ。そういや俺もトイレに行っていることになってるんでした」
時計を見るとあれから15分は経っている。
由香にはさすがに不審に思われているかもしれない。
緑刃さんが席を立つ。
「近いうちにまた会うこともあるだろう。先月の戦いの礼もまだだったな」
「いつでもいいっすよ」
ラーメンをおごってもらう約束なんて今の今まで忘れていた。
「すまないな。では失礼する」
そう言って緑刃さんは先に部屋を出て行く。
俺もすぐに由香たちのところに戻った。
「……あ、優希くん」
部屋に戻ると、どうやら数学の話はとっくに終わっていたようで、ふたりはなにやら低いテンションの会話をしていた。といってもネガティブな話題だったというわけではなく、神村さんの淡々とした調子に由香が引っ張られていたらしい。
「悪い。広い家なもんで色々寄り道しちまった」
「そうでしたか」
神村さんが相変わらずの調子で小さくうなずくと、由香がクスクスと笑いながら言った。
「沙夜ちゃんが言うにはね。優希くん、あの妹さんに捕まって色々引きずり回されているんじゃないかって」
「……」
無言で神村さんを見ると、神村さんはちょっと困惑したような顔をしつつ、
「妹は、そういうところがありますから」
と、答えた。
どうやらなかなか戻ってこない俺のことを心配し始めた由香に、神村さんが無理やりフォローした結果ということらしい。
引きずり回されているって表現はどうにかならなかったのだろうかと思ったが、まあ神村さんらしいといえばそのとおりでもある。
時計を見ると、午後5時半を回っていた。
「おい、由香。そろそろ帰るか。あんま長居すると神村さんにも悪いしな」
「あ、うん」
うなずいて由香が立ち上がる。
そんな由香に、神村さんが静かに頭を下げて、
「水月さん。今日は本当にありがとうございました」
「あ、ううん。私も沙夜ちゃんとたくさん話ができて楽しかった」
そう答えた由香の顔は本当に嬉しそうで。
数日後、神村さんはなにごともなかったように登校してきた。
それ以降、由香と神村さんが一緒にいる姿を頻繁に目撃するようになったのは言うまでもない。