2年目1月「変化」
その翌日。
「……うーむ」
朝……といっても時計はすでに午前11時近くを指していたが、俺は寝ぐせのついた頭のままベッドの上で考え込んでいた。
冬休みも残すところあと3日。
暮れの戦いで負傷したあばら骨はもうほとんど違和感もなく、新学期は万全の状態で登校できそうだ。
と、まあ。
体のほうはそんな感じでなんの心配もなかったのだが、実はそれとは別の心配ごとが発生していたのである。
原因は昨日の夜にかかってきた緑刃さんからの電話。
『すまない』
開口一番、緑刃さんはそう言った。
この時点で俺の頭の中には色々と悪い憶測が飛び交っていたが、彼女の口から出てきたのはその"色々"の中でもっとも軽い憶測より、さらにほんの少し軽い内容の事態だった。
『おととしの夏のことを覚えているか? あのときの幻魔が再び脱走してしまったのだ』
あのときの幻魔、というのは高校1年の夏、直斗の弁当に毒が混入されそうになった事件で俺がとっ捕まえた男のことである。
『こちらでも捜索しているが、どうもあの幻魔は普段から君のことを逆恨みする発言を繰り返していたらしい。もしかしたら君の前に現れるかもしれない』
緑刃さんはそう言って、もう一度、すまない、と謝罪の言葉を口にしたのだった。
「……ま、いいか」
寝起きのボーっとした頭でそんな昨晩のことを思い返していたのだが、俺はそのうち考えるのに飽き、ベッドから下りて着替えることにした。
正直言うと、それほどたいしたことだとは思っていない。
あの幻魔についてはもう顔も思い出せなくなっているが、かなりアレなやつだったということだけは覚えていた。恨まれたからといって命の危険なんてこれっぽっちも感じないし、緑刃さんにあんなに謝られて逆に俺のほうが恐縮してしまったほどである。
まったく無視していいわけではないが、ここで長々と思い悩む事態でもなかったのだ。
「あ、優希お兄ちゃん。おはよー」
リビングのドアを開けると、いつものように元気な歩の声が俺を出迎えた。
「よぅ。相変わらず元気いいな、お前は」
「相変わらず元気だよー」
無邪気にそう答える歩は、最近は声だけでなく本当の意味でもずっと元気だ。
病院には今も変わらず定期的に通っているが、急に倒れたり調子を崩したりすることはほとんどなくなっている。
冬休み前に養護教諭の山咲先生と話したときは、精神的に安定しているのが大きいと言っていたが、まあ詳しいことはよくわからない。
なんにしても健康なのはいいことだ。
「雪は? 瑞希もいねーな」
リビングから台所へと視線を移動させてみたが、どうやら歩以外は不在のようだった。
「瑞希お姉ちゃんは部活だよ。雪お姉ちゃんは今日もアルバイトー」
台所をのぞき込んでみると、俺の分らしきサンドイッチがラップをかけた状態で置いてある。
俺は冷蔵庫から牛乳パックを取り出してコップに注ぐと、サンドイッチの皿を片手にリビングへと戻った。
「瑞希お姉ちゃんは大会が近いから忙しいんだって。副部長さんだから」
「へー」
合気道部の大会の話は雪から聞いていたが、副部長をやっているというのは初耳だ。
「あいつの実力なら全国大会ぐらい余裕で優勝じゃないのか?」
と、俺は言った。
正直、あいつの能力は人間離れしているし、あいつに勝てる人間が同年代の、しかも女子に存在しているとはどうしても思えない。
しかし歩は小さく首をひねって、
「去年は全国大会まで行ったけど1回戦で負けちゃったよ」
「……あいつを負かすってどんな怪物だよ。身長2メートルぐらいあるんじゃねーのか」
「うーん。確か瑞希お姉ちゃんより少し小さいぐらいの人だった気がするー」
「……」
そっちのほうが人間離れしてる。
世の中ってのは広いものだ。
歩の正面に腰を下ろしサンドイッチを口に入れる。
テレビは点いていたが、特に面白そうな番組でもなかった。
「優希お兄ちゃん、今日は?」
と、歩が上目づかいにこっちを見る。
なにかを期待している目だった。
「ああ。俺ももうちょいしたら遊びに行く」
「なんだ……残念。今日こそ遊んでもらおうと思ってたのに」
がっくりとうなだれる歩。
ちょっとかわいそうに思えるほどの落胆ぶりだった。
(そういや最近はあんま遊んでやってなかったな……)
こいつはテレビゲームも得意だし、トランプから花札、麻雀(ゲームで覚えたらしい)まで、テーブルゲーム的なものはだいたいこなすが、体が弱いということもあって基本インドアだ。
今日の約束の相手はいつもどおり直斗と将太なので一緒に連れて行ってやってもいいのだが、俺たちの遊びは体を動かすものが多く、結局見ているだけになるのかと思うとなかなか連れ出しにくくもあった。
仕方なく、俺は言ってやる。
「けど、そういや明日は暇だな。気が向いたら遊んでやらんこともないぞ」
「ホント?」
パッと顔を輝かせる歩。
本当に単純なやつだが、そういうところがまあそれなりにかわいくもある。
「その代わり、暇だからってひとりで晩メシだの菓子だの作ろうとするのはやめてくれよ。被害にあうのはだいたい俺なんだからな」
すると歩は不服そうな顔をして、
「被害って、ひどい……愛情手料理なのにー」
「俺が苦しむ姿に愛情を感じるのか、お前は」
「あはは、なんか昼ドラちっくだねー」
「うっせぇよ」
「きゃー」
軽くこぶしを握り締めて殴る仕草を見せると、歩はわざとらしい悲鳴で頭を抱えた。
やれやれ、と、俺は握っていたこぶしを開いてヒラヒラと振る。
「んじゃ行ってくるわ。……ああ、思い出した。今日は晩メシいらんから雪に言っといてくれ」
「食べてくるの? 雪お姉ちゃん、帰りに買い物してくるって言ってたから、喫茶店に電話したほうがいいかな?」
「あー、そっか。いや、それならまだ余裕あるから途中で寄ってくわ」
2日連続で行くつもりはなかったが、用事ができてしまっては仕方あるまい。
「行ってらっしゃーい」
そうして俺は歩の声に送られて家を出たのだった。
カランカラン。
「おや。いらっしゃい」
店に入るなり視界に入ってきたのはバアさんの意外そうな顔だった。
まあ今までほとんど顔を出したことがなかったのが2日連続となれば不思議に思うのも当然だろう。
「ちわ」
まっすぐにカウンターに向かう。
「なんにする?」
「とりあえず昨日と同じで」
なにも頼まないわけにもいかないので昨日と同じ紅茶を頼む。
2日連続となるとこれも俺にとっては痛い出費だ。
今日は家の用事みたいなものだし、経費扱いにならないかダメもとで雪と交渉してみよう。
そんなことを考えつつ、そういえば昨日みたいに雪が出迎えに来ないなと店内を見回してみると、隅っこのほうにあいつのものらしきエプロンの結び目がチラッと見えた。
どうやら奥のテーブル席に座っている客の対応をしているようだ。
バアさんが言った。
「あんたも紅茶で粘りに来たのかい?」
「んなわけないっしょ。今日はちょっと雪のやつに用がありまして」
「ふぅん。ま、そんならちょうどよかった」
「なにが?」
そう尋ねると、バアさんは俺の前に紅茶を出しつつ、雪がいるテーブル席のほうをアゴで示した。
「どうも厄介な客に捕まったみたいでね。助けてやってくれないかい?」
「厄介な客?」
そんなバアさんの言葉に、俺はイスを少し後ろに傾けて奥の席をのぞき込んでみる。
「……ははあ、なるほど」
テーブル席には高校生風の客が座っていた。
というか、昨日も見かけた顔だった。
(厄介な客、ねぇ)
俺の位置からは雪の後ろ姿しか見えないが、やはり昨日と同じように少し首をかしげている。
あいつのああいう仕草は困っているときとそうでないときの共通なので、これだけではまったく状況を判断できなかった。
「昨日も来てた客ですよね。なんか問題でも?」
「確かによく来る男の子なんだけどね。今日はどうも様子が違う気がしてさ」
「勘っすか」
「それだけじゃないよ」
と、バアさんはちょっと真顔で柱の陰にいる雪へ視線を送る。
「あの子が客――よりにもよってあんたが来たことに気づかないなんて、普通じゃない」
「……ああ」
確かにそのとおりだった。
「今、あたしのほうからも声をかけようかと思ってたんだけどね。そこにちょうどあんたがやってきたってわけだ」
「いいんですか? 客が気分悪くして、店の売り上げが落ちても責任取れませんよ」
「いいさ、そのぐらい。それに毎日来たんじゃ、あの学生さんの財布にも優しくないだろうしねぇ」
「……商売っ気のない店っすね」
まあ店主がそう言うのなら遠慮することもないだろう。
俺は声を張り上げた。
「おーい、ウェイトレスー! 注文どうしたー!」
「……あ」
イスを後ろにかたむけて奥をのぞき込んだ俺と、振り返った雪の視線が合う。
と同時に、テーブル席に座っていた客とも目が合った。
(……ん?)
一瞬にらまれたようだが、客はすぐに視線をそらした。
そして雪がこちらにやってくる。
「ユウちゃん。いらっしゃい」
雪はいつもと変わらない笑顔で俺の前に立った。
声は少し弾んでいる。
「ごめんね、気づかなくて。お客さんとお話ししてたものだから」
「いや、別にいいけどさ」
俺がそう答えると、雪はバアさんにも頭を下げて、
「ごめんなさい。お仕事中に」
「ああ、構わないよ。忙しいわけでもないしね」
バアさんも顔中のシワを深くして笑顔を作った。
「ただ、客に話しかけられて困ってるなら多少強引に切り上げてもいいんだよ。ここはウェイトレスと談笑するための店じゃないからね」
「はい」
バアさんの気づかいに雪も嬉しそうだった。
なんというかまあ、いい雇い主である。
「それでユウちゃん。今日は?」
「ん? ああ」
時計を見て直斗たちとの待ち合わせ時間が迫っていることを思い出し、俺は少し無理をして紅茶を飲み干してから答えた。
「これから直斗たちと遊びに行くんだ。で、晩メシいらねぇぞって伝えに来た」
「え?」
不思議そうな雪。
「帰りに買い物してくんだろ? 俺の分、いらねーから」
「あ、それでわざわざ?」
「通り道だったからな」
そう言いながらイスを立ち、ポケットから財布を取り出そうとすると、バアさんが手の平を俺に向けて言った。
「今日はおごるよ。うちの店員が世話になったからね」
「……すんません」
バアさんに軽く頭を下げて席を立つ。
「気をつけてね。あ、ほら。右のポケット裏返しになってる」
雪がいつものごとく世話を焼いてくる。
その態度に変わったところはない。
ただ、『店員が世話になった』というバアさんの言葉に疑問を挟まないところを見ると、俺の行動が自分を助けるためだったということには気づいているのだろう。
そしてそれは、あの客への対応でこいつが多少なりとも困っていたという証でもある。
(……告白めいたことでもされてたかな)
昨日までの客の友好的な態度からすると、雪が困りそうなことといえばそのぐらいしか考えられない。
まあ、どちらにしろそこまで深く突っ込む必要はないだろう。
「んじゃ、行くわ。ごちそうさん」
「あ……」
「ん?」
雪が一瞬だけなにか言いたそうな顔をしていたが、その表情はすぐに隠れて、
「うん。ありがとうございました。またお越しくださいませ」
と、いつもどおりの笑顔で小さく頭を下げたのだった。