2年目12月「沈み、再び昇る」
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病室の窓から見える太陽は西の空をオレンジ色に染めていた。
「亜矢さん、また眠ってしまったようですね」
「だね。この1ヶ月の記憶がないんだから、調子が出なくて当然だよ」
舞以のつぶやきに、唯依はベッドのサイドテーブルにあったティーセットを片づけながらそう答える。
結局のところ、3人のうち亜矢だけは本当にこの1ヶ月の記憶をなくしていた。
もちろんアイラの人格に影響されている様子もなく。
真柚たちのように隠そうとしている可能性も考えたが、どうやらそうではないようだ。
つまり亜矢に対してだけは、唯依の力は想定どおりに作用したということになる。
「お義父さんのこともあるしね」
ポツリ、と、真柚が沈んだ顔でそう言った。
「まあ……ね」
一連の事件で亜矢の養父が命を落としたことは変えられない事実だ。
もちろん亜矢もその時点までのできごとは覚えている。1ヶ月の記憶がない彼女にしてみれば、それはつい昨日のことのように思えているだろう。
「とにかく今は、亜矢が自分で立ち直ってくれるように見守るしかないかな」
「そうだね。……じゃあまず、亜矢ちゃんがまた起きてきたときのためにケーキでも買ってこよっか。沈んだときはやっぱり甘いお菓子だよね!」
パッと真柚が元気よくベッドから飛び降りる。
「え、でも、一応病院なんだから勝手に……」
「大丈夫大丈夫。唯依くんはここで留守番ね! 舞以ちゃん、付き合ってっ!」
「ええ。では唯依さん。亜矢さんをお願いしますね」
「あ、うん……」
ふたりは唯依の目の前でバタバタと慌しく動き、5分後には準備を終えて病室を出て行った。
そして急に静かになる。
「……ホント、元気だなぁ」
唯依はそうつぶやきながら視線を窓の外に移した。
西日は真っ赤だ。
時間は午後4時前。冬至を過ぎたばかりでまだまだ日が短い。
ふうっと息を吐いて唯依は体を前に折り曲げ、真柚が寝ていたベッドに額を乗せた。
途端に眠気が襲ってくる。
目覚めたのが正午ごろ。
まだ3時間ほどしか経っていなかったが、どうやら色々と気を張りすぎてしまったようだ。
あくびが出る。
(亜矢もしばらくは起きてこないだろうし、少しゆっくり……)
しかし、その直後。
……ガチャ。
「!」
唯依は慌てて顔を上げた。
「……亜矢?」
見ると、亜矢が病室の入り口に立っていた。
寝たんじゃなかったのか、と、言いかけて唯依は口を閉ざす。
「……ど、どうしたの?」
驚いてそう尋ねる。
病室に入ってきた亜矢は、額に小さな角を浮かび上がらせた姿。
つまりは悪魔の姿だったのだ。
ここは悪魔狩り管轄の病院だし、周囲には一般の入院患者がいない特別な病棟である。
とはいえ、病院の中をその姿で歩くのはいくらなんでも危険だった。
「……」
しかし亜矢は唯依の問いかけには答えず、先ほど起きてきたときよりはいくらかすっきりした表情で部屋の中を見回した。
そして物珍しそうに視線を一周させた後、ピタッと唯依の顔の上で視線を止める。
「唯依」
「なに?」
怪訝そうな顔の唯依に、亜矢は小さく微笑みを浮かべて言った。
「あのふたりはどこへ行ったの?」
「ケーキを買いに出て行ったよ。……それより亜矢。その格好は」
「そう」
と、亜矢は唯依の言葉を最後まで聞かずにうなずく。
「だったら唯依。私たちもちょっと散歩に行かない?」
「散歩? でも留守番をしてろって……」
「いいじゃない。少し歩くだけ。……ああ、この姿はまずいのね。でも大丈夫よ」
「あ、ちょっと! 亜矢!」
返事を待つことなく、亜矢はさっさと病室を出て行ってしまった。
唯依は一瞬迷ったもののそんな彼女を放っておくわけにもいかず。
結局は誘われるがままに外に連れ出されてしまったのだった。
「日が、沈むわ」
亜矢に連れてこられたのは、病院の近くにある小さな公園だった。
風が冷たく、公園の中には誰もいない。
亜矢は人間の姿には戻ろうとせず、帽子を深くかぶって耳と角を隠していた。
「赤い夕日。綺麗ね」
「……」
背の低い鉄棒の上にバランスよく腰掛け、沈んでいく夕日をまぶしそうに見つめる亜矢。
唯依はそんな彼女を怪訝に思いながら見ていた。
どうしたんだ、と、言いかけて止まる。
振り返った亜矢が、まっすぐに唯依を見つめていた。
なにか言いたげだったが、その口は開かない。
(……なんだろう)
違和感。
確かにこうして亜矢と話すのは1ヶ月ぶりだ。
違和感はそのせいなのかもしれない。
……いや違う、と、唯依はすぐにそれを否定した。
久しぶりだから違和感があるのではない。
今の彼女の表情をつい最近も見たような気がして、それが逆に違和感となっていたのだ。
およそ1ヶ月ぶりなのに、まったくそんな感じがしない。
その表情は、そう。
――轟音と、衝撃の向こうに。
「もしかしてアイラさん、ですか……?」
「バカなのね、あなたは」
亜矢の表情が少しだけゆるんだ。
「そういうとこ、あなたたち父子の最大の欠点だわ」
「……やっぱり」
亜矢が唯依の父親のことを口にするはずがない。
ということは、つまり。
「アイラさんも……亜矢の中に残ったんですね」
最初に起きてきたときは紛れもなく亜矢だった。
つまり、おそらくは以前と同じく人格が完全に分かれたまま、アイラも亜矢の中に生き残ったのだ。
ただ、不思議と焦りはなかった。
目の前のアイラから、敵意や戦う意思というものを感じられなかったためだろう。
アイラは続けた。
「彼もそうだった。もっと他にやりようはあったのに、バカだから、だまされて、悲しんで、怒って……結局正面からまともに戦って負けた」
口調は淡々としていたが、感情を抑えようとしているのがわかる。
「あなたもそう。……私なんかに情けをかけるようじゃ、いつか彼と同じ末路をたどるわ」
「でも」
と、唯依は少し遠慮がちに口を挟んだ。
「アイラさんはそんな父さんのために命がけで戦ったんでしょう?」
「……生意気なことを言うのね」
「ご、ごめんなさい」
アイラの鋭い視線に唯依は萎縮してしまった。
あの戦いの最中、どうやってこの視線を受け止めていたのだろうと考えると不思議で仕方がない。
今のこの状況ではとても太刀打ちできそうになかった。
そんな唯依を見てアイラは少し懐かしそうに目を細め、そしてゆっくりと視線を横にそらした。
「……私の生まれたところはね。雷魔の中では比較的辺境にある部族の村だったわ」
「え?」
突然の言葉に唯依は不思議な顔をしたが、アイラは気にした様子もなく続ける。
「天才児、って、こちらの世界でもたまに使う言葉よね。人間の場合は頭のいい子どものことを言うのかしら。でも魔界では普通、突然変異的に魔力が強い子どものことをそう呼ぶわ」
なんの気まぐれか、彼女は昔話をしようとしているらしかった。
いや、もともとそれが目的で唯依をこんなところまで連れ出したのかもしれない。
もちろん唯依も興味があった。
自分の両親のこと。女皇たちのこと。
彼女が語ろうとしているのは、そんな身近な人たちの昔話なのだ。
「アイラさんも、その天才児だったんですか?」
その問いかけにアイラはチラッと唯依を一瞥したが、すぐには答えなかった。
「大抵の部族では天才児は重宝されるわ。将来は貴重な戦力になるし、それ以外にも色々と利益をもたらしてくれるから。……でも、私の生まれた部族は違ってた」
思い出すようにゆっくりと目を閉じる。
「天才児は災いをもたらすとして子どものうちに地下牢に幽閉されるのよ。太陽の光も届かない、じめっとした冷たい石の牢だった」
唯依は黙って言葉の続きを待った。
もちろんその子どもとはアイラ自身のことだろう。
「でも殺されたりはしないの。その子の強大な魔力は部族が持つ技術を介して色々なことに利用される。発電機ね、言ってみれば」
と、アイラは自嘲的に笑った。
それは昨日の戦いの序盤でも見せていた、どこか病的に感じる笑い。
きっと辛い思い出なのだろうと唯依は思ったが、そんな同情的な言葉を望んではいないだろうと思い、口には出さなかった。
「あれは……いつだったかしら」
黙って見つめる唯依に、アイラはすぐに笑うのをやめて話を続ける。
「10年。いえ、15年も眠っていたのだから、今からだと30年近く前になるわね。その部族の村を訪れた一団があったわ」
いったん、言葉を切る。
「彼らは地下牢に閉じ込められた子どもの存在を知って、それを助けようとしたの。もちろんその部族すべてが彼らの敵になったわ。最初は説得を試みたようなのだけど、古くからの慣習をよそ者に否定されて彼らが怒らないわけもなかった。村を訪れた一団はいわゆる天才児の集団だったのだけど、集団といってもたったの4人。まともに戦って勝てるはずはなかったし、子どもを連れ出して逃げるのが精一杯だった。……そして」
伏せたアイラのまつ毛がかすかに震えた。
「一団のリーダーは左目と片腕を失って、顔の半分にはひどい火傷を負った。それでも彼は助け出した子どもと他のメンバーを体を張って守り抜いて、それでようやく逃亡に成功したの」
「っ……」
唯依が息を呑んだのは、話の内容が原因ではなかった。
アイラの横顔。
その目尻に浮かんだ涙にハッとしたのだ。
「それが、俺の……?」
聞くまでもない。
アイラもやはりその問いかけには直接答えようとしなかった。
「外に出て初めて見た太陽はまぶしくて、本当に綺麗だったわ。たぶん今日のこの夕日よりもずっと」
そしてアイラは沈黙した。
その視線はまっすぐに沈みゆく太陽を見つめていて。
……彼女の悪魔狩りに対する激しい怒り。
それは紛れもなく過去の仲間、特に唯依の父親に対する思いの強さゆえだったのだろう。
そんな唯依の父親が死ぬことになったという悪魔狩りとの戦い。
その詳細を唯依は知らないが、もしそれが悪魔狩りのほうに非のある戦いだったのだとすれば、彼女のその憎しみはむしろ正当なもののようにも思えてきた。
ただ、アイラはそこまで語るつもりはないようだ。
(……でも、それならもしかして)
少しだけ不安になる。
その憎しみが残っているのなら、今、こうして再び体の自由を手に入れた彼女は、また同じことを繰り返そうとするのではないか、と。
だが。
「心配ないわ」
そんな唯依の心配はすぐに伝わってしまったらしい。
アイラは軽く反動をつけ、それまで腰掛けていた鉄棒の上に立ち上がった。
普通の人間なら多少なりともふらつくところだったが、彼女はよほどバランス感覚がいいのかまるで体操選手のようにピタッとそこに静止する。
「あなたの力は間違いなく私を押さえつけた。こうして表に出ていられるのはこの子が完全に気を許しているとき、おそらくはほんの数十分よ。なにもできやしないわ」
そう言うと同時に、身軽に鉄棒から飛び降りる。
同時にアイラの髪がふわっと唯依の鼻面をくすぐった。
「太陽はこうして沈んでいくけれど、でも明日になればまた昇るのね。……あの人はもういないけど、この子たちにはあなたがいる」
「あ、亜矢は」
いきなりの接近に、唯依は思わず身を引きながら尋ねる。
「亜矢は……あなたの存在には気づいているんですか?」
「いいえ、まだよ。折を見てあなたから伝えておくといいわ。唯依。それぐらいはやってくれるでしょう?」
「それは、もちろんですけど……」
困惑しながらも素直にうなずいた唯依を、アイラはやはり懐かしそうな目で見ていた。
やがて。
「それじゃあ」
そう言って、少し。
ほんの少しだけ、まるで子供のようないたずらっぽい微笑みを浮かべる。
「そろそろ帰るわね。あとのことはよろしく」
「え……帰る?」
帰る、のニュアンスがどこか変だと思ったのと、アイラ――いや、亜矢の体が急に力を失って崩れ落ちたのはほぼ同時だった。
「あ、危ないッ!」
慌てて亜矢の体を抱きとめる。
ずしっとした重みが唯依の両腕にかかった。どうやら完全に意識を失っているようだ。
「……いきなり危ないなぁ、もう」
帰るというのは、亜矢の意識の奥に潜るということだったらしい。
腕の中の亜矢は静かに寝息を立てていた。
目を覚ます気配はない。
「……これ、やっぱ僕がおぶって帰るのかな」
今は唯依の体も万全ではない。
背負っていくのはそれなりに苦労しそうだと思った。
ため息が出る。
(でも……)
亜矢がアイラのことをどう思うかは聞いてみなければわからない。
ただ、それでも唯依の心はどこか晴れ晴れとしていた。
メリエル、ミレーユ、そしてアイラ。
これから色々と問題が出てくるかもしれない。
ただ、それを差し引いても彼女たちがその存在を残せたことはなによりだった。
それが唯依の父の、そしておそらくは唯依自身の望みでもあったから。
清々しい気持ちで亜矢を背負い、歩き出す。
その視線の先。
沈みかけた冬の夕日は、これまで感じたこともないほどに綺麗なオレンジ色で――
唯依はその夕日の中に、かつての両親、そして女皇たちが幸せそうに暮らしている光景を夢想しながら、病院への道をたどっていったのだった。