2年目12月「裏切り」
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緑刃は混乱していた。
彼女は男勝りな性格もさることながら、知的で冷静な性質をも併せ持つ人物である。
本来はそうたやすく取り乱すような人間でない。
が、しかし。
大げさな表現ではなく、彼女は今これまでの人生でもっとも混乱した状況に置かれていた。
床にはひとりの少女が倒れていて。
そのすぐそばに、手を血に染めた男が立っている。
その光景を見ても、いったいなにが起きているのか緑刃にはまるで理解できなかった。
……いや、これがもし彼女ではなく、まったく無関係の第三者が見ていたとすれば、そもそも混乱することなどなかっただろう。
なぜなら、状況そのものはいたってシンプルであり、なにが起きたのか一目瞭然であったから。
男が少女を襲った。
ただそれだけだ。
しかし。
冷静で聡明なはずの緑刃がその解答をなかなか導き出せずにいた理由は、その演者にある。
倒れている少女が沙夜で。
手を血に染めた男が青刃だったから。
「来たか」
忍者のような覆面をすでに外していた青刃は、本殿に入ってきた緑刃を一瞥すると、ゆっくりとした口調でそうつぶやいた。
浮かんだ笑みは、この緊迫した場面にはまったく似つかわしくないものだった。
「……青刃。なにが、あった? これは……誰の仕業だ」
緑刃がこの期に及んでそんな質問を口にしたのは、はたから見ている人間にとってはひどく滑稽に見えたかもしれない。
「なにがあったのだ、青刃。光刃様は……無事にお守りしたんだろうな?」
「おかしなことを聞くもんだな」
その問いかけに、青刃は当然のような顔をして答えた。
「加害者を前にして、被害者を守ったかと問うのか、お前は?」
「……青刃。なにを」
緑刃は彼女らしくもない狼狽の表情を浮かべた。
青刃の言葉が混乱した頭の中でゆっくりとその意味を成し、そして脳の奥に浸透するまで数秒。
そうして最終的には当然の事実を示した。
すなわち"青刃が沙夜を襲った"のだと。
「まさか、お前が……そんなこと」
それでもなお、緑刃の頭はその事実を受け入れようとしなかった。
彼女はそれほどに青刃のことを信じていたのだ。幼いから長い時間を共に過ごし、同じく光刃の護衛となったその男のことを、深く信頼していた。
それでも目の前に横たわっていたのは、認めざるを得ない事実。
緑刃は困惑を怒りの言葉に変え、それを目の前の男に叩き付けた。
「……なぜだ、青刃ッ!」
「もうお互い、その名で呼ぶのはやめよう、美琴」
一方の青刃はいつもと変わらぬ飄々とした態度で、緑刃の怒りを受け流すように淡々と答える。
「別に血迷ったわけじゃない。俺はもともと、こうするつもりで青刃なんて役職についていたんだから」
「なんだと……?」
「お前らの信頼を得るのはもっと苦労するかと思っていたが、意外にガードがゆるかったな。お前も、沙夜も」
「……!」
緑刃は下唇をかみ締めた。そこに血がにじむ。
頭が熱くなって視界がチカチカしていた。
心の底から信頼していた人間に裏切られるのが、どれほどのことか。
おそらくこのときの緑刃の気持ちを代弁できたのは、床に倒れてすでに意識を失っている沙夜だけだったに違いない。
そして彼女は叫んだ。
「……竜夜ぁッ! 貴様ぁぁぁッ!!」
空気がうねる。
だが、青刃――いや、竜夜は冷静そのものだった。
「糸術か。それも見飽きたな」
その左手が光を発する。
「なっ!?」
再び、驚愕が緑刃を支配した。
竜夜の左手に現れたのは光り輝く刀。
その剣閃が弧を描き、緑刃の見えない糸を次々と断ち切っていく。
「神刀"煌"……!」
信じられない、と、緑刃が狼狽する。
「竜夜、なぜ! なぜお前がその力を!」
「煌、か」
竜夜は左手のそれを見つめながら小さく鼻を鳴らした。
「光刃の濃い血族、あるいは光刃から特別に力を託されたものだけが手にすることができる神刀。だろ?」
「ッ……」
緑刃が困惑を浮かべる。
だが、その表情はすぐに厳しいものへと変わった。
「……竜夜。すぐに光刃様から離れろ」
「ふっ……お前は本当に沙夜のことしか考えていないのだな」
と、竜夜は苦笑する。
「沙夜の体より、神刀を奪われたことのほうを問題視すべきじゃないのか? 組織の人間としては、な」
「離れろッ!」
再び空気がうねり、先ほどよりも大量の糸が竜夜の周囲を覆い尽くした。
「わかったわかった」
竜夜は両手を軽くあげ、ゆっくりと後ろに下がっていく。
「……」
緑刃はその行動をしばらく油断なく見ていたが、やがて竜夜と沙夜の間に一定の距離ができると、すぐに沙夜に駆け寄っていった。
「光刃様!」
「やれやれ、無防備か」
竜夜は呆れたような顔をしたが、その言葉にはどちらかといえば好意的な響きが含まれていた。
無防備な緑刃を攻撃しようとする素振りもなく。
……いや。
竜夜が視線を動かす。
「楓。そんな物騒なものをこちらに向けないでくれ。おちおち世間話もしていられないじゃないか」
「……」
竜夜は動かなかったのではなく、動けなかったのだ。
黒い光をまとった右腕を竜夜に向け、その動きを牽制する楓の存在によって。
ただ、楓が現れても竜夜の態度に大きな変化はなかった。
「ここでお前たちを相手に戦う気はない。もうこっちの目的は達したからな」
そう言って、竜夜はさらに後ろへ下がっていく。
「このまま逃がすと思っているのか?」
楓が挑発すると、竜夜は笑った。
「思っているさ、楓。お前はバカじゃない。不利な戦いは受けても、絶対に勝てない戦いはしない」
「うぬぼれるなよ、青刃」
「竜夜だ。もう俺にその名は必要ない」
「どっちでもいい。今の俺でもお前ひとりぐらい……」
「ひとりじゃないさ。お前にもわかっているだろ?」
竜夜がそう言った瞬間、彼のすぐ背後の壁が弾け飛んで大きな穴が空いた。
「!」
そこからうっすらとした月明かりと冷たい空気が流れ込み、そして。
「……竜夜さん。こちらは終わりました」
ひとりの女性と、少年が姿を現した。
「瑠璃さん。氷騎。ふたりともお疲れさん」
「……氷騎か」
楓がそうつぶやいて氷騎をにらみつける。
氷騎もそれに応じたが、ここで戦うつもりはないようだった。
そんなふたりの少年に軽く視線を送りながら竜夜が言う。
「氷騎を紹介する必要はないな。こっちの彼女は瑠璃さんだ。俺たちの仲間内じゃ……そうだな。母親のような役目をお願いしている」
「……竜夜」
沙夜のそばに屈みこんだ緑刃がゆっくりと口を開いた。
その声がいくらか落ち着きを取り戻していたのは、沙夜に触れ、彼女に息があることを確認できたからだ。
沙夜の怪我はどうやら大半がアイラから受けたもののようだった。
新しい傷は右腕のひじから手首にかけての裂傷のみ。それはおそらく、沙夜の体から神刀の力を奪うときに付けたものだろう。
神刀"煌"の力は血の中に宿る。それを他人に移すときは互いに合意の上で血液を交わす、つまりは傷口と傷口を重ね合わせる必要があった。
緑刃は沙夜が先代から力を受け継いだ場面に立ち会っていたため、そのことをよく知っていたのである。
その証拠に、竜夜の左腕にも似たような傷が残っていた。
「お前は、本当に私と沙夜を裏切るのだな……?」
沙夜をその腕に抱きかかえながら、緑刃はゆっくりと顔を上げる。
竜夜は無言を返した。
「私らしくない。女々しいと、お前は笑うかもしれないが、正直私にはどうしても信じられない。理解できないんだ」
「美琴」
しかし竜夜は淡々と答えた。
「俺は、お前と沙夜を裏切る。それが真実だ」
「……そうか」
緑刃は目を閉じた。
その口から迷いの言葉が生まれることは二度となく。
再び目を開いたとき、そこには明確な敵意の炎が灯っていた。
「光刃様に危害を加える者。本来ならばこの場で捕らえてやりたいところだ」
「無理だな。それに沙夜がその状態じゃ玉砕覚悟の突撃も上策じゃない。だから楓も動かない。だろ?」
「……」
緑刃も楓も、竜夜の言葉通り動けない。
「俺もここで無理をする気はないし、お前や沙夜にはもう少し頑張ってもらったほうが都合がいい」
と、竜夜は彼女たちに背中を向けた。
「しばらくは姿を見せるつもりもない。……それと」
言って、肩越しに一度だけ振り返る。
「結界のことは心配無用だ。"ゲート"が開きっぱなしになると俺としても困るのでな。この神刀の力が及ぶ範囲に潜むつもりだ」
「……なにを考えている」
「お前には理解できなくてもいいさ。……ああ、それと、美琴」
そして竜夜は一瞬だけ、見慣れた軽薄な笑みをその口もとに浮かべた。
「お前とのデートの約束、一度ぐらいは果たしておきたかったな」
「……この期に及んで、ふざけた口を」
「半分ぐらいは本気だったんだが……」
「失せろ、竜夜」
再び怒りの色を瞳に浮かべ、緑刃は吐き捨てるように言い放った。
「お前にはいつかこの報いを受けさせる。遠い未来の話じゃない。覚えておけ」
「そうだな」
竜夜は笑ったままだった。
「ああ、それと沙夜に伝えておいてくれ。3年前の襲撃、お前の親父を殺したのは俺だと」
「……」
緑刃はほとんど表情を動かさず、ただ奥歯をぎりっとかみ締めた。
「じゃあな」
最後に軽く手を上げて、竜夜が去っていく。
その後ろを寄り添うように瑠璃が続き、最後に氷騎が楓と視線を交わして出て行った。
にらみつけたまま、緑刃はじっと動かない。
楓も同じだった。
ひゅぅ、と、小さな音を立て、風通しの良くなった本殿を冷たい冬の風が吹き抜けていく。
いくつかの疑問と、さらなる戦いの予感をそこに残したまま。