1年目5月「耳鳴りと妹と悪魔狩り」
――パチ。
「?」
耳鳴りが聞こえたような気がして、俺はベッドの上で体を起こした。
読んでいたマンガ雑誌を枕元に置く。
ミニコンポのスピーカーからは大き目の音楽が流れ続けていた。
(……気のせいか?)
近くにあったリモコンを手にとってミニコンポの音量を下げる。
部屋を見回すと日めくりカレンダーが目に入った。
日付は5月の最終週。
壁掛け時計は17時半の辺りを指していた。
窓の外はうっすらと曇っていて夕日の色もどこかくすんでいる。
――パチ。
もう一度、耳の奥でその音が響いた。
今度は気のせいじゃない。
(……またか)
"耳鳴り"――と、そうは言ったものの、正確に言うとこれは耳鳴りなんかじゃない。
俺のイレギュラーとしての特殊能力のひとつだ。
一種の警告のようなもの。
この耳鳴りが聞こえるときは"なにか良くないことが起きることがある"のだ。
……なんともはっきりしない話で申し訳ないのだが、仕方ない。俺自身この能力のすべてを理解しているわけではなく、すべてが実体験からの推測でしかないのだから。
正直なところあまり役には立たない能力だ。
なにか起きるかもしれないということがわかるだけで、誰に、いつ、どんなことが起こるのかはさっぱりわからない。
かなり悪いことが起きるはずなのに鳴らなかったり、鳴っても誰かが100メートル走でコケるとか、そういうくだらない予告だったりもして取捨選択が難しすぎるのである。
ちなみに、以前話した"由香の男子トイレ事件"のときもこの耳鳴りが聞こえていた。
そんな感じの適当な能力なのだ。
ただ、まったくの役立たずというわけでもない。
この"耳鳴り"は、俺の"もう一つの特殊能力"と組み合わせることで真価を発揮することがあるのだ。
(念のため――)
俺は目を閉じ、もう一つの能力を発動させた。
意識を広げる。
頭の中に周辺の地形を思い浮かべる。
五感以外の神経が研ぎ澄まされる――
(……反応なし、か)
どうやら今日の耳鳴りはハズレだったようだ。
よくあることだ。
ベッドに寝転んで枕元のマンガ雑誌を手に取り、ミニコンポの音を大きくする。
いつものこと。
特に深刻に考えることはなかった。
――すぐにそれを後悔することになるとは気づかないままに。
「ねえ、優希」
30分近くたったころ。
瑞希が部屋のドアをノックした。
「なんだ? メシか? 開いてるぞ」
瑞希が俺の部屋にやってくるのは珍しい。
用事があって呼びに来るのはだいたい雪だ。
ドアを開けて顔を出すなり、瑞希はなんともいえない不安そうな顔で言った。
「あのさ。あなた、雪ちゃんからなに聞いてない?」
「は?」
質問の意味がわからずに聞き返すと、
「雪ちゃんまだ帰ってきてないの。学校の帰りに駅前で少し遊んで、晩ご飯の支度があるからって私より先に帰ったはずなんだけど……」
「買い物でも行ってるんじゃないのか?」
「それはないわ。買い物だったら昨日行ったばっかだし、そうだとしても遅すぎるもの」
「……」
ミニコンポの電源を切る。
時計を見た。18時。
外は夕日が半分近く沈んでいる。
本来ならまだ心配するような時間じゃない。
ただ――
パチ、と。
耳鳴りが聞こえた。
心なしか、さっきより大きくなっているような気がした。
「それで、ね」
不安が小さく首をもたげてくる。
「学校で色々言ってたじゃない。最近変質者がこの辺りにって。だからちょっと心配になって」
その言葉を聞いた瞬間。
――パチッ!
「っ!」
さらに大きな耳鳴りが聞こえた。
嫌な符合だ。
いや。
ただの偶然でかたづけるには色々な要素が合致しすぎている。
俺はベッドから身を起こした。
瑞希が心配そうな視線を向けてくる。
俺はかけてあった上着を手に取った。
「ちょっと探しに行ってくる」
「あっ……優希! 私も一緒に――」
「お前はここにいろ!」
自然と大きくなった声に、瑞希は驚いた顔をした。
しまったと思いながら俺はトーンを落として、
「家に誰もいなかったら色々困るだろ。あいつから電話とかあるかもしんねーし」
「そ、そうね。……わかったわ」
瑞希は不安そうに視線を泳がせながらも素直にうなずいた。
俺はそんな瑞希の頭にポンと手を置いて、
「別に心配するようなことじゃねーよ、きっと。んじゃ行ってくる」
「……気をつけてね」
「おぅ」
上着をまといながら階段を駆け下り、玄関の靴を引っ掛けて外へ飛び出す。
外はまだ太陽の支配している時間帯。
けど――
(間違いない……!)
その頃にはなぜか確信していた。
徐々に強さを増していく耳鳴り。
胸の奥で首をもたげている不安の正体はおそらく幻ではない。
……いや、仮に勘違いだったとしても。それはそれでいい。
何事もないのなら、それで――
(……そういえば)
一ヶ月ほど前に雪が言っていた言葉を思い出す。
『……最近ね。誰かに後をつけられてるような気がするの』
そしてその後に庭で見かけた影。
関係があるのかないのか、それはわからない。
だが、そのときにもっと真剣に考えていれば――
いや。
なにかあったと決まったわけじゃない。
今はとにかく――
少々混乱した頭で駅までたどり着く。
瑞希の話によれば、ここで別れて雪だけ先に帰宅したということだった。
辺りを見回す。
買い物カゴを手にした主婦、寄り道をしている学生、遠くから聞こえる踏み切りの音、一時の別れを告げる子供の声。
特に普段と変わったところはない。
行きつけの店をしらみ潰しに探すか、ここからの帰り道を辿るべきか。
いや、もう自宅に戻っているかもしれない。
一度電話をしてみるべきか。だったら公衆電話を探して――
と、そのときだった。
……ん――な――
「?」
急に頭の中を過ぎる、もやっとした、だけど覚えのあるイメージの残骸。
(これは……!)
俺の"能力"がなにかに反応している。
立ち止まって目を閉じた。
どう……して、こんな――
「!?」
次に浮かんだのははっきりとした思考のイメージだった。
しかもその主は――
(間違いない……雪だ!)
さらに集中する。
目を閉じる。
"同調"する――
イメージが濁流のように流れ込んできた。
暗い路地。
視界の端を流れる銀色の髪。
倒れる男。
不安。
恐怖。
そして――
(……どうしてこんなこと……助けて――)
俺は目を開け、そのまますぐに走り出した。
"同調"。
これは俺の突然変異種としての最後の特殊能力だ。
この力を行使している間、俺は近くにいる悪魔と思考を含めた感覚の一部を共有することができる。
しかし、この能力は誰に対しても通用するわけではない。
"精神的に不安定な状態の悪魔"のみが対象なのである。
この"精神的に不安定な状態"というのは、主に血の暴走を起こした悪魔に多い。
だから俺はこの能力を行使することによって、この町にいる暴走悪魔たちの居場所をそれほど苦労することなく突き止められていたのだ。
だが――たった今、俺は雪と同調した。
純血の悪魔であるあいつが血の暴走を起こす心配はまずないが、それでも今のあいつが"悪魔の力を解放"していて、なおかつ"精神的に不安定な状態にある"ことは間違いない。
悪魔の力を解放し、動揺している。
胸のうちにあったのは大きな不安と恐怖。
あいつの身になにが起きたのか――
(考えるのはあとだ!)
雪が見ていた景色には見覚えがあった。
全力で走れば5分もかからずにたどり付ける場所だ。
雪はそこで助けを待っている。
耳鳴りは止んでいない。
(待ってろ、雪……!)
駅前の通りを人の少ない方角へ向かって。
俺ははやる気持ちを懸命に押さえ付けながら、雪の待つ薄暗い路地へ向かって走っていった。
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どうして――
目の前には男が倒れている。
体には血の気がなかった。
どうして、こんなことになったのだろう――
体が震えた。
夕日が人気のない路地に射し込んでくる。
学校の帰り、友だち数人と遊びに行って、その帰り。
薄暗くなりかけていた人気のない路地で突然背後から襲われた。
脳裏をよぎったのは、学校で何度も話をしていた変質者のことだった。
すぐに声をあげようとしたけれど、口を塞がれてできなかった。
怖かった。
だから――
「どうして……」
私は背後の塀に背中を預け、自分の手のひらを見つめた。
オレンジ色の光。
視界の端に映る、銀色の髪。
――いつもとは違う、自分。
視線を戻す。
倒れた男の体には霜のようなものが付着していた。
その体はおそらく氷のように冷たくなっているに違いない。
当然だ。
私の力――悪魔の力をまともに受けたのだから。
そんなつもりはなかった。
そんなつもりはなかったのに、怖いと思った瞬間、暴発したように力があふれ出てしまったのだ。
(助けて……)
もしも誰かが通りかかったら。
いや、それよりも、自分は人を殺してしまったのだ。
(助けて、ユウちゃん……)
どうすればいいのかわからず、私はその場に座り込んでしまった。
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妹の雪が力に目覚めたのは中学2年生のときだ。
その日の夜、雪の悲鳴を聞いて駆けつけると、部屋中がまるで冷凍庫のような状態になっていたことを覚えている。
部屋の真ん中では雪が姿見の前に座り込み、銀色に変色した髪を押さえて呆然としていた。
かなり動揺していたのだろう。
部屋に入ってきた俺の姿を見るなり、雪は泣きそうな顔で『見ないで』とつぶやいたのだ。
なにが起こっているのかわからないながらも、自分のその姿は他人に見せてはならないものだ、と、直感的に感じていたに違いない。
俺が事情を説明し、俺も同じだと告げたときのホッとしたような顔は今でも記憶に残っている。
その後、雪が確認するように俺に言った言葉も。
『普通に暮らしてていいんだよね、私……』
だけど、結果的にそれはできなかった。
その冬に隣家の事件があって。
そして俺たちは力を使うことを選択したのだ。
力を持つ者にはやっぱりそれなりのリスクがつきまとう。
たとえそれが、望まなかった力だったとしても――
「……雪!」
その路地に駆けつけたとき、雪は塀を背もたれにして座り込み、呆然とした様子で自らの髪を押さえていた。
その光景に古い記憶が刺激される。
それはまるであの日、雪が力に目覚めた夜をトレースしたかのような情景だった。
そして雪は俺の姿を見つけると、あの日と同じように口を小さく動かす。
……見ないで。と。
音はなかったが、そう聞こえたような気がした。
(……冗談じゃない)
なにが起きたのかはだいたい想像できた。
雪の前にうつ伏せに倒れている男は、この薄暗がりの中でも息がないことがわかる。
地面、塀、電柱、そして男の体――ところどころに降り積もる霜は、雪が持つ氷の力の結晶。
その力で男は命を落としたのだ。
(冷静になれ……)
死体自体を見るのは初めてじゃない。
が、"人間"の死体を見るのは、おそらく初めてだった。
「ユウちゃん、私……きゅ、急に後ろから抱きつかれて、口をふさがれて、それで……」
雪は動揺している。
あの日よりも、さらに。
……俺が取り乱しちゃいけない。
ここでなにもできないようじゃ、俺は本当に瑞希の言うとおりの役立たずだ。
「雪、そこを動くなよ」
まずは念のために男の生死を確かめる。
生きているのなら救急車を呼ばなければと思ったが、男の体は氷よりも冷たくなっていた。
呼吸も脈もない。
明らかに死んでいる。
次に俺は雪に近づき、小刻みに震える肩に手を置いた。
「事情を聞くのは後だ。とりあえず力を抑えろ。このままじゃ家に帰ることもできねーぞ」
雪は戸惑ったような視線を向けてきた。
俺はすぐに答えた。
「なにも考えるな。今は全部俺の言うとおりにすればいい。……いいな?」
「……うん」
今はなにも考える必要はない。
これからのことを考えるのは、まずこの場を離れて、事情を聞いて、それからだ。
「元の姿に戻れるか?」
この姿のままじゃいくらなんでも目立ちすぎる。
無理そうなら俺の上着を頭からかぶせてやろうと思っていたが、雪は1分ほどでいつもどおりの人間の姿に戻ることができた。
「よし」
手を引いて半ば無理やりに立ち上がらせる。
考える暇も与えないように俺は急いで雪を路地から連れ出した。
出た通りには幸い誰もいなかった。
日没が進んでいる。
あと10分もすれば太陽の光は完全にこの町から消えるだろう。
日の沈む方向に向かって、俺は雪の手を引いて早足に進んでいった。
(……くそっ)
腹立たしい。
自分のバカさ加減が腹立たしくて仕方なかった。
俺が今回の件で雪のことをそれほど気にかけなかったのは、心のどこかで"悪魔の力があるから大丈夫"と、そう思っていたからだ。
万が一変質者とやらに出会ったとしても、普通の人間が雪のことをどうにかできるはずがない、と、そういう考えがどこかにあった。
雪は力の制御が不安定だ、という伯父さんの言葉を忘れていたわけではなかったのに。
今まで雪の力が暴発したことなんてなかったから安心していたのだ。
これまで暴走悪魔たちを退治してきたときも、不安定さを感じたことなんて一度もなかったから。
風の音。
俺と雪の足音。
(……どうする)
しかし過ぎたことをいつまでも悔やんでいるわけにはいかない。
これからのことだ。
まず、瑞希のやつに知られないようにすること。
そのために、雪が今までなにをしていたか適当な理由を作って口裏あわせをしておく必要があるだろう。
次に死んだ男のことだが、そちらについては案外心配ないような気もしている。
死体はすぐにでも発見されるだろうが、死因はおそらく凍死だ。殺人事件として扱われるかどうかさえ定かではないし、雪の力のことを知らない警察が事実にたどり着くのは難しいだろう。
死んだ男は自業自得だ、と、そう考えるしかない。
道徳的に問題があるのだとしても、そんなことは些細な問題だ。
誰になんと言われようが、俺にとっては道徳心より妹のほうが大事だから。
そこまで片付いたとして、あとは雪の気持ちの問題か。
しばらく学校を休ませるのも手だろう。
落ち着くまで四六時中そばにいてやるのもいい。
そうしていれば、いつかは――
風の音。
俺と雪の足音。
「……?」
考え事に一区切りをつけた俺は違和感に気付いた。
風の音が聞こえる。
俺と雪の足音が響いている。
風の音。
俺と雪の足音――
(……なんだ、これ)
ピタリと足を止めると、完全な静寂が訪れた。
静か過ぎるのだ。
あまりにも不自然だった。
人通りが少ないのはまだしも、遠くに聞こえるはずの車の音も、踏み切りの警告音も、犬の遠吠えも。
いっさいの音が聞こえてこないのだ。
……パチ。
一度は静まった耳鳴りがまた聞こえる。
俺は片手で頭を押さえた。
「ユウちゃん……?」
……パチ。
……バチィッ!
「っ……」
「ユウちゃん!?」
まるで頭の中に電流が走ったかのような衝撃。
俺はゆっくりと顔をあげて心配そうな顔の雪を見て、そしてハッとした。
足音が聞こえたのだ。
ひとつ、ふたつ――
静寂と無人の世界に現れた、新たな人影。
近付いてくる。
やがてそれは視界の中にも現れた。
ふたりの男。見た目は人。
けれど――
わからない。
わからない、が――
あれは敵だ。
俺の中の何かがそうささやいていた。
「雪!」
「え……っ!」
とっさに雪の手を引いて、男たちとは反対方向へと走り出す。
だが――
「不知火雪、だな?」
「!?」
そこにもひとりの男が立っていた。
(いつの間に……!)
薄手の黒い服、腰には時代錯誤な小太刀を差し、その視線は明確な敵意を込めて俺たちを見据えていた。
どう見ても普通じゃない。
こいつらは――
「氷魔族、不知火雪。我々はお前を人々に危害を加える存在と断定し、抹殺する」
「!」
一度だけ、伯父さんから聞いたことがあった。
"この世界には、人々に危害を加える悪魔たちを退治する組織が存在する"――と。
そのときは、善良な自分たちにはあまり関係がないこと、と、あまり気にも留めなかった。
が。
間違いない。
(こいつらが、悪魔狩り……!?)
ゆっくりと事情を聞く暇もなく。
俺はおそらくこれまでの人生で最大の決断を迫られることになりそうだった。