2年目12月「選べなかった道の先へ」
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どこをどう歩いてきたのか、それすらもおぼろげだった。
雨は衣服の奥の奥にまで浸透し、履いている靴はドロドロになって歩くたびに奇妙な悲鳴をあげている。
どしゃ降りの雨の中をずぶ濡れでどれほど歩いただろうか。
突然変貌した亜矢。
まるで別人のような真柚。
極限の混乱状態のまま夢遊病のようにフラフラと夜の街を歩き、そうして唯依がたどりついた先は、結局、自分たちが住んでいるアパートの一室だった。
「ただいま……」
ドアノブをひねり、返ってきた硬い手ごたえに思い出す。
「あ、そっか。鍵、僕がかけたんだっけ……」
亜矢とともにここを出たのが、遠い昔のような気がしていた。
「鍵、鍵はっと……」
ポケットから鍵を取り出した途端、チャリッと軽い音がして、凶悪な顔をしたウサギのキーホルダーが揺れた。
それはいつだったか、真柚が色違いのキーホルダーを4つ買ってきて、家族全員の鍵に強制的に付けさせたものだった。
「ははっ……」
意味もなく笑いがこみ上げる。
「子供じゃあるまいし……」
『キミにとってはショックなことかもしれないけど――』
いつもと違う口調。
「子供みたいに元気で……」
『狩部真柚も一ノ瀬亜矢も、もういない――』
赤く輝く瞳。
「……なんだよ、それ。意味わかんないよ……」
鍵を回してドアノブをひねる。
今度は抵抗なくドアが開いた。
「ただいま……」
もう一度つぶやく。
暗い部屋の中、そこに誰もいないことはわかっていた。
「……ただいま」
だが、もう一度。
そして濡れた靴下のまま、家の中に上がりこむ。
「誰も、いないのか……」
電気を点ける気にはなれなかった。
暗い雨の中を歩いてきたおかげで目は闇に慣れている。
「……誰も、いないんだ」
部屋の中には雨の音が大きく響いていた。
リビングのテーブルには、亜矢が出かける前に準備していた夕食が中途半端に用意されている。
今日はいつもより豪華な夕食になるはずだったことを思い出し、唯依はテーブルについた。
「亜矢、珍しくはしゃいでたもんな……」
電話口で平静を装いながら嬉しそうに養父と話していた亜矢。
――唯依を殺そうと指先を向けてきた彼女。
その表情が交互に頭に浮かんでは、消えていく。
「戻って、こないのか……」
考えることも面倒になって、唯依はテーブルの脇にあった大きなクッションに身を埋めた。
「……なんなんだよ」
そのまま仰向けになって天井を見上げる。
時折、雷鳴が部屋を明るく照らした。
そのたびに部屋の中を見回し、そこに誰かいないかを確認する。
それを何度か繰り返すと、口もとが自然と歪んだ。
「ははっ……バカみたいだ」
自嘲の笑みが浮かぶ。
「そんなに気になるなら、電気を点ければいいだけじゃないか……」
そして家の隅々まで探してみればいいのだ。
もちろん唯依にはわかっている。そこには誰もいない。
各部屋のドアは閉ざされたままだから、ドアを開けてみればみんながそこにいるかもしれない。
そんな虚しい希望にすがり付こうとしているだけなのだ。
「……もう、帰ろうかな」
そうつぶやいてみる。
ここを出て、養父母のところに帰ればいい。そこには自分のことをよく知っている養父と養母がいて、義弟も義妹もいる。
「もう、こんなところにいる必要なんてないんだし……」
そもそも唯依が高校生になると同時にここにやってきたのは、顔も知らない両親が言い残したとか、そんなよくわからない理由からだった。
今にして思えば、おそらく悪魔の血や、彼女たちが突然誰かに乗っ取られたことと関係があるんじゃないかと思ったが、それも今となってはどうでもよかった。
「力を隠して生きれば、それでいいんだろう……?」
養父母だって自分を邪魔者扱いしたりはしないはずだ、と思う。
「姉弟ったって、もともと他人みたいなものだったんだし、別に……」
そう言い聞かせてみると不思議と気が楽になってきた。
養父母のもとへ帰る。
それこそが最良の道であるようにさえ思えた。
「そうだ。帰ろう……」
思い立つと、唯依はゆっくりとクッションから身を起こした。
電話台の引き出しから自分の財布を取り出し、旅費には充分な金額が入っていることを確認する。
「今から電車に乗れば、明日の夜ぐらいには着けるかな……」
フラフラと、ずぶ濡れのままで玄関へ急ぐ。
終電まではまだ時間があるし、時刻表は駅で確認すればいい。
荷物は――特別持っていかなければならないものはないような気がした。
「持って帰りたい思い出なんて、なにも……」
半ば自暴自棄になりながらそうつぶやいた。
……そのときだった。
「!」
ガチャ、という玄関のドアが開く音に、唯依の意識は一瞬にして覚醒した。
弾かれたように顔を上げ、玄関へ視線を向ける。
「誰だッ!?」
すぐに飛び出していった。
誰かが帰ってきたのかもしれない。
そう考えると頭がいっぱいになって、それ以外のことはまるで考えられなくなっていた。
そしてそんな唯依の希望は、半分ぐらい叶えられたといっていいだろう。
「……唯依さん」
薄暗い玄関のドアは間違いなく開いていて、そして階段の蛍光灯を逆光にそこに立っていたのは、この家の住人のひとりだった。
「舞以……!」
何度か顔と体に視線を行き来させ、それが間違いなく彼女であることを確認すると、唯依は自分のうっかりさ加減を思い出して恥ずかしくなった。
どうして彼女のことを忘れていたのだろうか、と。
唯依の目の前から去っていったのは亜矢と真柚だけで、舞以が帰ってくるのはむしろ当然のこと。
あるいは真柚のことがあったせいで、彼女もまた戻ってこないものだと決めつけてしまっていたのかもしれない、と。
「あ……はははっ。よかった……」
緊張がゆるみ、思わず笑いがこぼれる。
もちろん舞以が戻ってきただけですべての解決になるわけではなかったが、それでも今の唯依にとってそれは充分な救いだった。
……が、しかし。
「唯依さん……」
そんな唯依を、舞以は彼女らしくもなく哀しそうな目で見つめた。
その足は、玄関から先に進もうとはしない。
「舞以?」
そんな彼女を怪訝に思い、そして唯依はその出で立ちに疑問を覚えた。
「……舞以、傘は? どうやって帰ってきたんだ?」
そう。
どしゃ降りの中を帰ってきたはずだというのに、彼女は傘も持たず、しかもまったく雨に濡れた様子がなかったのである。
「……すみません、唯依さん」
そして舞以は静かに頭を下げた。
「舞以? なんで謝るんだ?」
「どうしても最後にお話をさせてほしくて」
「最後……に……?」
「上がっても、いいですか?」
「……」
不安が広がる。
いや、その時点で唯依はもう気づいていた。
――彼女もまた、真柚と同じなのだろう、と。
「ああ……」
だが、それでも。
彼女の来訪によって落ち着きを取り戻していた唯依は、自分でも不思議なほど冷静にそう答えていた。
「もちろんだ。ここは、みんなの家なんだから」
「……ありがとうございます」
舞以はやはり哀しそうにそうつぶやいて、そしてかすかに笑ったのだった。
「……記憶と力を移植する術?」
「そうです」
ようやく電気の点いた部屋の中。
まるでいつもと変わらない日々であるかのようにお茶で冷えた体を温めながら、唯依は舞以の話に耳を傾けていた。
いや、正確にいえば舞以ではない。
彼女はメリエルと名乗っていた。
「ただ、今の私自身は、厳密にいえば舞以でもなくメリエルでもありません。行動の主導権をにぎっているのはメリエルですが、実際には両方の人格が融合した存在なのです」
そんな彼女の話は唯依にとってはにわかに信じがたいものだったが、今日のできごとを思い返してみれば信じざるを得ない内容でもあった。
「でも……僕には君が、白河舞以じゃないなんて到底思えないんだけど……」
「それはおそらく唯依さんの前で、私の舞以の部分が強く出てしまっているためでしょう」
「真柚は――いや、亜矢はぜんぜん違ってた」
唯依は途中でそう言い直した。
今にして思えば、あのミレーユという女性もまた、この目の前にいるメリエルほどではないにしろ、元の人格である真柚の面影が残っていた気がしたのだ。
ただ、亜矢――アイラは違っていた。
彼女が唯依を見る目は、明らかに見知らぬ他人を見る目だったし、なによりミレーユが現れる直前まで唯依に向けられていた殺意は間違いなく本物だった。
そんな唯依の疑問に対し、メリエルは少し考えるような仕草をする。
「おそらく……ですが、亜矢さんの場合は完全に閉じこもってしまったのでしょう」
「閉じこもった?」
「先ほど言ったとおり、本来は私やミレーユのように元の記憶を持ったまま両方の人格が融合した状態となるはずですが、彼女の場合はアイラが完全に意識を支配してしまっているように見えます。亜矢さんの記憶もまったくないようですし……」
そんなメリエルの言葉に唯依は不安を覚えた。
「それってつまり、亜矢は完全に消えてしまったということなのか?」
だが、メリエルは即座に首を横に振る。
「消えてしまう、ということはありません。この体はあくまで娘たちのもの。私たちはいわば幽霊で、この体に取り憑いているようなものなのです」
幽霊が取り憑いている、というのは、わかりやすい表現だった。
「じゃあ、君たちはずっと前から? 今まで僕らと一緒にいたのは?」
「私がこの体の中で目を覚ましたのは1年ほど前です。ミレーユも同じぐらいの時期だったと聞いていますが、いずれにせよ私たちは必要なとき以外は表に出ないようにしていました。ですから、今まで唯依さんたちと一緒にいたのは舞以本人ですし、真柚さんも同じ状況だとミレーユからは聞いています。それに、私がメリエルとして行動しているときの記憶は舞以にはありません」
「……じゃあ、つまり」
唯依はうかがうような目をメリエルに向ける。
「メリエルさんとしての部分がなくなれば、完全に元の舞以に戻る……ということ?」
「そうですね。あなたがよく知る白河舞以に戻るでしょう」
メリエルは躊躇することなくうなずいた。
「……」
唯依は言葉に詰まってしまった。
もちろん今の言葉の意味はメリエルにも伝わっているはずだろう。
舞以を元に戻したければ、メリエルの存在を消せばいい。そういうことなのだ。
……にもかかわらず。
彼女は躊躇なくその事実を唯依に暴露したことになる。
「……君は」
唯依は手元の湯飲みに視線を落とした。
「僕がなにを望むか、わかっているんじゃないの?」
「ええ、わかっています」
「じゃあ、どうして?」
「……」
メリエルは無言で視線を泳がせる。
その仕草は、彼女自身もまた、その明確な答えを持っていないかのように見えた。
そして数秒の沈黙。
「……あなたにも」
メリエルは意を決したように口を開く。
「力があるはずです。あなたの本当の力があれば、この体から過去の亡霊を追い出すことができるかもしれません」
「え?」
怪訝な顔をした唯依に、メリエルは場違いなほどに優しい微笑みを浮かべてみせた。
「あなたには女皇と呼ばれた女性と……あの人の血が流れているのですから」
「どういう、こと……?」
「そろそろ帰ります。次に会うとき、もしかすると私たちは敵同士かもしれませんね」
メリエルはそう言ってゆっくりと立ち上がった。
まるで、それを望んでいるかのように聞こえた。
「あなたが私の中からメリエルを消そうとするなら、私は全力で抵抗するでしょう。……くれぐれもお気をつけて」
そう言って背中を向けるメリエル。
「ぁ……」
そんな彼女を呼び止めようとして、唯依はかける言葉が思い浮かばずに言いよどんだ。
(……僕は、どうすればいい?)
考える。
つい先ほどまではすべてを投げ捨てて養父母のもとへ帰ろうとしていた。
もうなにもかもがどうでもいいと、そう思って。
しかし。
(どうでもよくなんかない……)
力及ばず、また助けられなかった亜矢。
別れ際に哀しそうな目を向けてきた真柚。
そして今こうして――おそらくは、希望を託そうとしてくれている舞以。
(どうでもいいはず、ないんだ……)
沸々と、胸の中に熱いものがこみ上げてくる。
「……舞以ッ!」
大きな声で呼び止めると、玄関の前にいたメリエルの足がピタリと止まった。
振り返らない。
ただ立ち止まっただけだ。
「僕は――」
一瞬だけ言葉に詰まって。
それでも唯依はまっすぐに、強い視線を彼女の背中に投げかけた。
「次に会うときは君の敵だ! そして……全部! 全部僕が元に戻してみせる!」
「……あなたは」
かすかに、空気が震えた。
「お父さんに……あの人にそっくりですね」
「え……父、親……?」
メリエルが肩越しに唯依を振り返る。
その目は、まるで母が息子を、姉が弟を見るような優しい目だった。
「あの人も仲間をとても大切にする人でした。それだけに少しだけ道を踏み外してしまった。……憎しみというのは恐ろしいものです。クロウも本来は、このような卑劣な手段をよしとする人ではなかったのですが……」
「舞以……いや、メリエル、さん?」
「時間が、経ちすぎてしまったのでしょうね……」
静かなため息。
玄関の薄暗さでその表情をはっきりと確認することはできなかったが、唯依には彼女がうっすらと涙を浮かべているように見えていた。
「私たちはもう、後戻りできません。……15年前。あのときの私たちにもし別の道があったのならば……唯依さん。あなたがその道の先へ娘たちを導いてくれることを願います」
そう言い残し、メリエルの後ろ姿がドアの向こうへと消える。
「……メリエルさん」
その後ろ姿を見送った唯依の視界が急にぼやけた。
「……あ、れ?」
不思議に思い、両目をこすろうとして気づく。
「……涙?」
両目から大量の涙があふれていた。
「どうして……」
怪訝に思いながら拭ってみても、それは後から次々にあふれ出して来て止まらない。
止まらない――
「メ、リ、エ、ル……?」
その名をつぶやくと、どうしようもない哀しみが胸を襲った。
……そしてようやく思い当たる。
それはおそらく唯依自身ではなく、彼の中にいるという母親がこぼした涙なのだろう、と。
(父と、母……メリエルさん、か……)
不思議と静かになった雨音の中、唯依は深い息を吐きながら天井を見上げた。
過去、彼女たちの身になにがあったのか、唯依にはもちろん知るよしもない。
ただ、それはきっととても哀しいできごとだったのだろう、と、思った。
そして唯依はゆっくりと立ち上がり、電話台へ向かう。
やることは決まっていた。
受話器をあげ、ダイヤルを回す。
何度目かの呼び出し音の後、目的の場所へ電話がつながった。
「はい、不知火ですが……」
「……神崎さん? 僕、香月唯依です。優希先輩は――」
唯依にとって、最大の戦いが始まろうとしていた。