2年目12月「氷眼」
「あらかじめ言っておくわ、優希くん」
指定された電話ボックスで晴夏先輩と合流した後、唯依たちを尾行しているらしい彼女の仲間と合流するべく、俺たちは雨の中を走っていた。
「私たちは敵に姿を見られるわけにはいかないの。だから協力できるのはそのラインまで。まず、それを頭に置いといて」
「わかった」
理由を尋ねる気にはならなかった。
聞いたところで素直に答えるはずもないだろうし、彼女が自分たちの利益を最優先に行動しているのはわかっていたことだ。
リスクがリターンを超えそうなら引くのは当たり前だし、人情的なものは最初から期待していない。
「それともうひとつ」
そう言いながら晴夏先輩が顔を上げる。
視線の先には傘を持った背の高い男の後ろ姿があった。細い道の曲がり角で、その向こうをうかがうようにして立っている。
(あの男は、確か……)
記憶にあるシルエットだった。
夏休みの旅行の帰り、初めて晴夏先輩と会ったときにいたエセ関西弁の男。
純、といったか。
そして晴夏先輩が続けた。
「こうなった以上、なにがなんでも彼らを助けようとは思わないほうがいいわ。少しでもまずいと思ったらすぐに逃げなさい。あなたが無茶をしても状況が好転することはおそらくないから」
「……なんだって?」
晴夏先輩のその言葉とほぼ同時に、純がこちらに気づいて振り返った。
以前、電車で会ったときの軽い雰囲気はそこにはなく、眉間に皺を寄せて厳しい表情をしている。
「……俺らはここまでや」
俺と晴夏先輩が駆けつけるなり、純はメガネの奥から険しい視線をこちらに向けてそう言った。
「どうしたの、純? 向こうに気づかれた?」
「わからん。けど、尾行はあらかじめ予想してたみたいやな」
と、純は曲がり角の向こうを親指で示す。
「待ち伏せ?」
純が無言で首を縦に振ると、晴夏先輩も小さくうなずきながらこちらを振り返った。
「どうやらそういうことらしいわ。私たちが行けるのはここまでよ。……あとは優希くん。あなたの判断に任せる」
「あー……っと。ちょっと確認させてもらっていいか?」
俺はそこでようやく口を挟んだ。
このふたりは状況のほとんどを理解しているからいいだろうが、俺はまだ完璧には理解していない。いくら急いでいるとはいっても、最低限の情報は集めておく必要があった。
「まず、その先に待ち伏せしてるヤツがいるんだな?」
「そうね」
「それは今の俺たちにとっての敵で、唯依たちにちょっかいを掛けようとしてる連中か?」
晴夏先輩が黙ってうなずく。
「ってことは、唯依と亜矢は今……」
「間違いなくピンチでしょうね。放っておけば平穏無事に戻ってくることはないでしょう」
「オッケー」
俺はうなずいた。
「つまり助けに来た以上、この先に行かなきゃ始まらねえってことだな」
「……」
晴夏先輩と純が無言で顔を見合わせた。
ふたりとも少し驚いたような顔をしていたが、どう考えてもそれ以外の結論はない。
だいたいその程度のことで引き下がるのなら、最初から家を出てくるなという話だ。
「……あなた、長生きはできないタイプね」
やがて口を開いた晴夏先輩は呆れ顔だった。
「ついでにいうと、あまり一緒に行動したくないタイプだわ。巻き添えにされたらたまったものじゃないもの」
「そりゃどうも」
先輩の言葉は嫌味というより本心からの言葉のようで、かえって嫌な感じはしなかった。
「俺は嫌いやないけどな、そういうの。……けどスマン。晴夏も言っとったが、俺らはこれ以上協力できん」
俺は鼻で笑って軽く手を振る。
「別に謝る必要ねーだろ。俺が勝手にやるだけだ。それに、あいつらのピンチを教えてくれただけでも感謝はしてんだぜ」
「……忠告しておくわ」
晴夏先輩は相変わらずの冷めた表情ながら、ほんの少しだけ感情のこもった声を出した。
「意地を張るのもいいけど、危ないと思ったら本当にすぐ逃げるべきよ。それと……その先にいるのはきっと、あなたの知ってる人だから」
「知ってる人?」
どういう意味だ、と、そう聞き返そうとしたときに異変は起こった。
「……ッ!?」
純と晴夏先輩の表情がこわばる。
俺もすぐ異変に気づいた。
(雨の音が……変わった?)
傘にぶつかる雨の音が明らかに変化していた。
水滴を弾く音から、なにか硬いもの――まるで氷の粒がぶつかっているような音に。
「気づかれたわね。行くわよ、純」
急いだ様子で晴夏先輩が背を向ける。
「……死んだらアカンで」
純が最後にそう言い残して。
そしてふたりの姿は雨に煙る暗闇の中へすぐに消えていった。
(……そりゃ死ぬつもりはないけどさ)
空から降り注ぐ雨は、俺の周囲だけアラレに変化していた。
おそらくは雪と同じ氷魔の力だろう。
曲がり角の向こうからゆっくりと気配が近づいてくる。
俺はそちらへ向きなおってこぶしをにぎり締めた。
そこに小さく炎が灯る。
今日の調子は2~3割といったところか。
晴夏先輩や純の警告の内容からすると充分とは言いがたいが、かなりマシなほうだ。
このぐらいの力が出ていれば、あとは戦い方でいくらでもやりようはある。
「出てきなさい」
近づいていた気配が声を発した。
少し落ち着いた女性の声だった。
しかも、聞き覚えがある。
晴夏先輩の『あなたの知ってる人だから』という言葉がよみがえって。
(……まさか)
「出てこなければこのまま攻撃します」
続いたその言葉で正体を確信し、俺は曲がり角から飛び出した。
「お前……」
案の定、そこに立っていたのは見知った顔のロングヘアの少女。
俺の知っているその少女は黒髪だが、今は氷魔の特徴でもある銀髪に変わっていた。
「舞以……白河舞以か」
「……優希さん。あなたでしたか」
彼女のほうも少し驚いたような顔だった。
(……どういうことだ?)
一瞬の沈黙の間に思考をめぐらせる。
白河舞以。奇妙な3姉妹の三女。
唯依の姉であり、亜矢の妹である少女。
一番上の姉である真柚とこの舞以については、力に目覚めていないと考えていたのだが――
いや、それよりも。
どうして彼女が俺の前に立ち塞がろうとするのか。
俺は頭の中にいくつかの可能性を浮かべながら、目を細めて正面の舞以を見据えた。
「舞以。俺は唯依と亜矢を助けに行くところだ」
「知っています。だから私はここにいるのです」
「なるほどな……」
その言葉で俺の頭に浮かんでいたいくつかの可能性はほとんどが消え失せ、ひとつの推測に到達する。
「つまりお前は白河舞以じゃない。……ってことでいいんだな?」
「私たちの事情を知っているのですね?」
舞以は俺の視線を冷静な表情で受け流しながら、納得したように小さくうなずいた。
「なるほど。それで唯依さんたちの後をつけていたのですか」
「で? お前は何者だ?」
俺がそう問いかけると、舞以はこちらの意図を見透かそうとするように目を細める。
「それも知っているのでしょう? 私はメリエル。かつて女皇と呼ばれた悪魔のひとりで、あなたの知る白河舞以の母親だったモノです」
そう言って、舞以――いや、メリエルは俺に向かってゆっくりと右手を向けた。
「それと亜矢さんはもう手遅れです。あなたが今から向かったところでどうにもならないでしょう」
「……事情はわかんねぇけど、気にいらねーな」
身構える。
「女皇だかなんだか知らねぇし、あんたらの目的がなんなのかも知らねーけど、平穏に暮らしていた娘たちの体を乗っ取って利用しようってのか? てめぇ、それでも本当に母親か?」
「……」
一瞬。
メリエルが不思議な表情を見せた。
(……なんだ?)
だが、俺がそんな疑問を覚えていられたのも一瞬のこと。
渦巻く冷気。
地響きにも似たうなりとともにメリエルの魔力が急速にふくれ上がる。
(……こいつは)
俺は瞬時に戦慄を覚えた。
ビリビリと大気を震わせる魔力の胎動は、今まで相手にしてきた連中とは明らかに質が違っている。
神村さんと協力して倒したあの暴走妖魔すら問題にならないほどの、圧倒的な力。
(……確かにヤベぇかも)
これが"女皇"――
「優希さん。邪魔をしなければ、あなたに危害を加えるつもりはありません」
メリエルが細めた目でこっちを見据える。
俺は太ももをこぶしで軽く叩き、圧力に逆らうようにその場に踏みとどまった。
「……へぇ、なんだ。抵抗しなきゃ見逃してやるだなんて、あんた、娘よりはずいぶんとサドっ気が薄いみたいじゃないか」
「この力を前に軽口を叩けるとは、大したものですね」
周囲の雨はヒョウとなって降り注いでいた。
濡れた地面の水分が凍て付き、アスファルトを黒いスケートリンクへと変化させていく。
(……さて、どうする)
これがただの敵であったなら、単純にどうやって勝つかを考えるだけでよかっただろう。
しかし、目の前にいるのは知人であり、唯依の姉だった少女である。
ただ勝つだけではなく、元に戻す方法を考えなければならない。
……しかしどうやって?
(別人……とはいえ、こいつどうやら舞以の記憶を持ってるな)
そうでなければ俺のことを知っているはずがない。
考えながら口を開く。
「メリエルさんだっけ。どうしてもそこを引く気はないのか?」
「あなたこそ」
「俺は唯依たちを助けてやりたいだけだ。それでもお前は俺の邪魔をするんだな?」
「……ですから」
メリエルはゆっくりとした口調で答えた。
「もう手遅れなのです。あなたが亜矢さんのもとに到着する前に、彼女は私たちの仲間――"雷皇"アイラとして覚醒するでしょう」
「どうかな。唯依のやつがついてる。そう簡単にはいかないと思うぜ」
「いいえ、間違いなくそうなります」
メリエルはそう言って視線を泳がせる。
「……!」
俺はそんな彼女の表情に驚いた。
そこには、明らかな哀しみの色が浮かんでいたのだ。
(……こいつ、本当に舞以じゃない……のか?)
疑問が生まれる。
「私たちは亜矢さんの大切なものを壊してしまいました。亜矢さんは怒りのままに力を使い、そしてその怒りが亜矢さんの中に眠るアイラを呼び起こすでしょう」
なにかに耐えるようにしながらも淡々と。
一言一言を、まるでしぼり出すかのように。
「お前――」
そして俺は疑問を口にしようとする。
お前は本当に舞以じゃないのか――、と。
しかしそれよりも早く。
――遠くで、視界が真っ白に染まるほどの閃光がほとばしった。
「な……にぃ!?」
思わず声が上がる。
メリエルが静かに目を閉じた。
(この、力……ッ!)
意識がいやおうなしに、そのまがまがしいばかりの強烈な魔力へ引きつけられた。
それは、先ほど戦慄したこのメリエルの魔力さえもさらに上回っている。
雷魔の頂点に立つ力――
「言ったとおりでしょう?」
メリエルが小さく息を吐きながらそう言った。
「……これが……亜矢の力だってのか?」
平静を装い――それがうまくできていたかどうかの確信はないが――俺は引きつった頬の筋肉を懸命に動かしてメリエルにそう問いかけた。
「いいえ。これは彼女の母、かつてこの地の悪魔狩りを壊滅寸前にまで追いやった"雷皇"の力です。……これであなたと戦う理由もなくなりましたね」
メリエルは俺に向けていた右腕を下ろし、無防備のままゆっくりと近づいてきた。
降り注いでいたヒョウが雨に戻って静かに地面を叩く。
「……」
手が届くほどの距離に近づいても、俺はメリエルに対して身構える気にはなれなかった。
"雷皇"の魔力に気を取られていたということもあるが、それよりも、メリエルの体から殺気がまったく感じられなかったためだ。
「その先へは、行かないほうがいいです」
すれ違いざま、メリエルはそう言った。
「無駄に命を落とすことになりますから」
「……舞以じゃないはずのお前が、俺の命の心配をするのか?」
ピタリ、と、歩みが止まる。
一瞬の逡巡があって、メリエルはポツリとつぶやくように答えた。
「私はきっと意志が弱いのです。……あるいは娘の意志が、私の想像以上に強いのかもしれません」
視線だけが肩越しにこちらを振り返る。
それで俺は納得した。
つまりメリエルは、白河舞以の意志の影響を受けている。
記憶を共有してもいるのだろう。先ほどからのいくつかの不審な態度は、きっと彼女の中にいる舞以が見せたものなのだ。
「お前は、それでも亜矢を……?」
「それでも私は、白河舞以ではない。それが哀しくとも泣くことはできないし、止めることもできません」
「……」
俺が無言で彼女を振り返ると、メリエルは目を伏せた。
「優希さん。あなたは唯依さんや亜矢さんを助けようとしてくれました。メリエルとしての私はあなたに敵対心を持っていないし、舞以はあなたに感謝しています。ですから、あなたがここで死ぬ必要はないと、そう思っただけのことです」
ふたつの人格が対等ではないバランスで融合するということ。
それがどういうものなのか、俺には想像することができなかった。
「ただ、もし次に立ち塞がることがあるなら、そのときは……」
メリエルはそこで言葉を切ると、最後まで言うことなくきびすを返した。
水のはねる音が雨に混じり、銀髪の後ろ姿が遠ざかっていく。
俺はなんともいえない気持ちになりながら、彼女の背中から視線を外した。
(確かめなきゃ、な……)
おそらくあのメリエルの言葉に嘘はないだろう。
ただ、このまますごすごと引き返すわけにもいかない。
向こうでもなんらかの動きがあったのか、先ほどまで周囲に満ちていた雷皇の魔力はいつの間にか収まっていた。
俺は雨の中を、その魔力の発生源に向かって走り出す。
しかし――
(……誰もいない、か)
少しだけ焼け焦げたアスファルトと壊れた5つの傘。
残っていた痕跡はそれだけで、俺は亜矢どころか唯依の姿さえもそこに見つけることができなかったのである。