2年目12月「顕現(けんげん)」
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深い夜の闇。
雨はまだ降り続いている。
そして雷鳴。
ひときわ大きなとどろきに、辺りの人々は近くに落雷したのではないかと、それぞれの家から夜空を見上げたのだった。
しかし。
(いったい……)
ほんの数十秒前、この一帯にとどろいた雷鳴は自然現象ではない。
(なにが起きたんだ……?)
激しい雨の中、唯依は傘も差さずにそこに立っていた。
空から落ちてくる雨はさらに強さを増し、目を開けているのが辛くなってくるほどだ。
だが、そのことは今の唯依にとって大した問題ではなかった。
彼は今、目の前で起きたできごとを理解しようとすることで頭が一杯だったのである。
雨にけむる視界の中には、全身に白い稲妻をまとった少女がひとり。
それが一ノ瀬亜矢なのかという問いかけがあったとしても、そのときの唯依はおそらく即答することができなかっただろう。
「その力……さすがだな」
視界にはもうひとつ、大柄な人影がある。
少女の放った稲妻によって負傷した赤髪の大男。
焼け焦げた右腕を押さえ、苦痛に顔を歪めながらも口もとには勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
「頭が、ぼうっとするわ……」
ポツリと少女がつぶやいた。
声は亜矢のそれとまるで変わらない。
だが――
(……あれは、亜矢じゃない)
考えるまでもなく、唯依はそう直感している。
(でも、どうして。なにがあったんだ……?)
混乱していた。
つい先ほど、数分前まで亜矢は確かにそこにいたのだ。
その瞬間までは、楽しそうに夕食の献立の話をしていた。
なのに――
「待ちくたびれたぜ。"雷皇"アイラさんよぉ」
困惑する唯依をよそに、炎魔らしき大柄な男は少女にそう呼びかけた。
ますます混乱する唯依。
「あ……や……?」
呼びかけようとした声は小さなつぶやきにしかならなかった。
これだけの雨が降っているにも関わらず、のどがカラカラに干上がっている。
そうして唯依はゆっくりと視線を移動させた。
その場にさらにもうひとりいる。
……いや、いる、という表現はもしかすると正しくないのかもしれない。
雨に濡れた地面に横たわる、40代後半ぐらいのやせた男性。
唯依にとっては初めて見る顔の人物だったが、亜矢の反応から、それが彼女の養父であろうことは容易に想像することができた。
生きているのか死んでいるのかはわからない。ただ、意識がないことだけは確かで。
唯依たちの前に突然現れた大柄な炎魔は、亜矢にそんな養父の姿を見せつけ、亜矢は怒りのままに力を使ったのだ。
そして――
"入れ替わった"、と、唯依は直感的にそう思った。
「いまいち、状況がつかめないのだけど……」
そんな唯依に背を向けたまま、"亜矢だった少女"は小さく頭を振って大柄な炎魔に問いかける。
「あなたは私の敵、かしら……?」
「いいや。俺はクロウのヤツに言われて、あんたが目を覚ますための手伝いをしてやったのさ」
「ああ、そう。クロウの。残念ね」
曖昧だった言葉の語尾が徐々にはっきりとしてくる。
「寝起きの運動にはちょうどいい相手だと思ったのに」
と、愉快そうに含み笑いを漏らした。
入れ替わったその人物がいったい何者なのか。
唯依の中にはその知識がない。なぜ入れ替わったのかを推測することもできない。
いや、それよりも。
本当に入れ替わったのだとすれば、いったいどうすればいいのか。
どうすれば元に戻るのか。
グッとこぶしをにぎり締める。
今、目の前で起きていることが、かつて優希に相談した"衝動"と関係があるらしいことはなんとなくわかった。
つまり、見も知らぬ誰かに突然体を乗っ取られたわけではなく、もともと亜矢の中にいた誰かと入れ替わったのだ。
であれば。
本来の亜矢自身は、まだその体の中にいるんじゃないか、と、唯依は単純にそう考えた。
そんなかすかな希望が、背中を押す。
「……亜矢!」
先ほどは出なかった呼びかけが、口をついて出た。
「ん?」
初めて気づいたように唯依を振り返った少女の視線は、完全に他人を見る目だった。
冷たい目。亜矢もどちらかといえばクールな目をしていたほうだが、その少女は明らかに異質で退廃的な色の目をしていた。
「あ、や? あや、亜矢……そう」
そして愉快そうに笑う。
「この子は亜矢という名前だったのね?」
「!」
少女の言葉に、唯依の頭は瞬時に沸騰した。
……それではまるで、彼女がすでにこの世から消えてしまったようではないか、と。
「亜矢の体から出て行けッ!」
後先も考えずにそう叫ぶと、体も燃えるように熱くなった。
同時に唯依の髪は真紅に染まり、にぎり締めたこぶしが炎をまとう。
「……あら」
それを見た少女が少し不機嫌そうな顔をした。
「出て行けですって? どこの坊やか知らないけれど、私に命令するつもりなの?」
その身にまとう稲妻が強さを増す。
魔力が大気を震わせる。
「……っ!」
10メートル近く離れているにもかかわらず、その圧力は唯依の背筋を凍りつかせた。
本能が警告を発する。
……行くな。それ以上踏み出せば殺される、と。
しかし。
「……何度でも言う。出て行け。その体を亜矢に返すんだ」
唯依は臆することなく、一歩前に踏み出した。
恐怖を感じていないわけではない。悟りを開いたわけでもない。現に体は今も小刻みに震えている。
それでも唯依が後ろに下がらなかったのは、夏の記憶が脳裏によみがえったからだった。
一度、亜矢を見捨てそうになったときの、あの後悔。
再びあんな情けない思いをするぐらいなら、どんなに怖くとも精一杯頑張らなきゃならない、と。
「……面白いわね。私を前にして怯えないなんて」
そんな唯依の態度を意外そうに見つめて、少女はあざけるように笑った。
「身のほど知らずとはこのことだわ。寝起きの運動の相手は坊やのほうかしら」
少女の両手に、まばゆいばかりの稲妻が集まる。
そのまがまがしい輝きに、唯依は思わず視線をそむけた。
……勝てる相手でないのは明らかだ。
たとえ唯依が捨て身の覚悟で挑んだとしても、一矢すら報いることは叶わないだろう。
戦いに関する経験が豊富とはいえない唯依でさえ、戦う前からそう確信できるほどに。
そこにある実力差は圧倒的だった。
「亜矢ッ!」
力ずくでどうこうできる相手ではない。
だから唯依は叫んだ。
少女の中に今もいるはずの亜矢が、自分の声に反応してくれることを祈りながら。
「亜矢ッ! 目を覚ませッ!」
「無駄よ、坊や」
そんな唯依の行動を冷めた目で見下しながら、少女の手の中で雷がさらにふくれ上がる。
それはすでに、唯依の命を一撃で奪うのに充分な大きさとなっていた。
「っ……!」
唯依の奥歯がカチカチと恐怖の音を鳴らす。
その攻撃――避けられなければ、確実に死ぬだろう。
死ぬのはもちろん嫌だ。
そしてそれ以上に。
また、なにもできないまま終わってしまうのが嫌だった。
「亜矢ッ!」
それでも唯依には呼びかけることしかできない。
無力な自分に腹が立って仕方がなかった。
あの夏休みのときは、自分の力でないにせよ結果的に亜矢を助けることができた。
だから、『充分よくやった』という優希の言葉を素直に喜ぶこともできた。
しかし、精一杯やっても助けられないのだとしたら。
それでは意味がないのだ。
心臓の鼓動が速くなる。
と同時に、目の奥も熱くなった。
「頼むッ! 亜矢! 目を覚ましてくれぇッ!」
のどの奥から振り絞るようにして、声の限りに叫んだ。
雨にかき消されないよう、彼女の心の奥にまで届くようにと。
体がさらに熱くなる。
腹の奥にマグマのような熱の塊が生まれた。
そんな唯依に。
少女がピクリと反応する。
「……その、力……?」
目が少しだけ見開かれる。
しかし結局、彼女が示した反応はそれだけだった。
「……いえ。とにかく終わりよ。さよなら、坊や」
冷徹な宣告。
「亜矢ッ!」
呼びかけを続けながらも、唯依は死を覚悟した。
不思議と恐怖は薄くなっていた。
……いや、違う。
「……」
少女の圧力がいつの間にか弱まっていたのだ。
その表情には明らかな戸惑いの色が浮かんでいて、両手の雷は彼女の迷いを察したかのようにその勢いを弱めている。
……少女は気づいていた。
唯依が身にまとう炎が少しずつ、しかし確実に強さを増していることに。
それは"雷皇"と呼ばれた少女の力を上回るほどのものではなかったが――
結局、少女がその力に戸惑いを見せたことが、唯依の命を救う結果となった。
「……待って! アイラ!」
夜の雨を切り裂くように響いたその声は、唯依にとって聞き覚えのある声だ。
……しかし。
「え――?」
それはここに"存在してはいけない"はずの人間の声だった。
まさか、と、唯依は振り返ってその人物の姿を視界に入れる。
「……ま、ゆ?」
そこに立っていたのは真柚だった。
一番上の姉。
頭の後ろに大きなお団子を結った少々元気の良すぎる少女。
しかし直後、唯依の口から疑問の声が漏れた。
「真柚、なのか……?」
いつもの彼女ではない。
唯依はすぐにそれに気づいたのだ。
「……」
真柚はその質問には答えず。
無言のまま唯依に近づいていくと、すれ違いざまに横目で彼を見て、そのまままっすぐ亜矢だった少女へと近づいていった。
「アイラ。ダメだよ、それ以上は」
「あなた……ミレーユなの?」
ふたりの口から出たのは、唯依には聞きなれない名前だった。
「そう、ミレーユ。だから力を収めて、アイラ」
「……真柚? いったいなにを言って……?」
唯依はそう呼びかけたが、真柚は振り返ろうともせずに続けた。
「アイラ。キミはもしかして、一ノ瀬亜矢の記憶をまったく持っていないの?」
「ええ」
「そう、なんだ……。確かに個人差はあるって聞いてたけど……」
「じゃあ、あなたにはあるのね。その体の持ち主の記憶が」
真柚はその質問には答えようとせず、ようやく肩越しに唯依を振り返って言った。
「あの子は、あのふたりの子どもだよ。殺しちゃいけない」
「……ああ、あれが。あの力はそういうことなのね」
亜矢――いや、アイラは納得したような顔をしてうなずいた。
同時にその手から雷の輝きが消える。
「詳しい事情は後で聞かせてもらうことにする。ミレーユ。とりあえずクロウのところへ行くわ」
「うん……」
チラ、と、真柚の視線が唯依の姿をとらえる。
だが、それはすぐにあらぬ方向へとそれた。
「そうだね。急ごう、アイラ」
「真柚! どこに行くんだッ!」
唯依の混乱は頂点に達していた。
いや、それも無理はないだろう。
亜矢が変貌しただけでなく、これまでこんな話にはまったく関わりがなかったはずの真柚が突然現れて、しかも亜矢の体を乗っ取った人物とまるで旧知の仲であるかのように話しているのだから。
唯依にとって、それはまさに悪夢のようだった。
(……まさか、真柚も誰かに……?)
その可能性をまったく考えなかったわけではない。
最悪の可能性だった。
唯依が、そして亜矢がそうだったように、真柚もまた悪魔の力を持っていて。
しかも彼女は、もっと以前から別の人物と入れ替わっていたのではないか、という。
まさに悪夢のような可能性。
「……唯依くん」
しかし、ようやく唯依に向けられた真柚の言葉が、その悪夢が現実であることを無情にも肯定した。
「なにがどうなっているかわからないよね。……キミにとってはショックなことかもしれないけど、狩部真柚も一ノ瀬亜矢も、もういない。そういうことだよ」
赤髪の大男に続いてアイラが背中を向け、その場から去っていく。
「なにを……」
色々なことが同時に起こりすぎていた。
そのできごとは、唯依のそれほど大きくない思考のキャパシティを大きくはみ出してしまっていて。
「なにを言ってるんだよ、真柚……」
ついに唯依は、なにも考えることができなくなってしまった。
うつむき、言葉だけを振り絞る。
「なにを言ってるんだよ! そんなんじゃぜんぜんわかんないよ、真柚ッ!!」
「……」
真柚――いや、ミレーユはそんな唯依を哀しそうに見つめた。
そこに、一瞬だけよく知る少女の表情が浮かんだが、唯依がそれに気づくことはなく。
やがてミレーユも彼に背を向けた。
他のふたりを追うように遠ざかっていく。
ただ立ち尽くすだけの唯依を、深い雨の中に残したまま。