2年目11月「衝動」
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ついていないときは悪いことが重なるものである。
11月も末に近づいたとある水曜日。
朝まで晴天だった空は昼すぎから急に厚い雲がかかり、午後7時頃には雨が降り出した。
「ついてないわねぇ……」
亜矢はパラパラと雨粒が傘に弾ける音を聞きながら、真っ暗な道を自宅に向かって歩いていた。
現在の時間は午後8時。
この日は間近に迫った文化祭の準備でちょっとしたトラブルがあり、彼女を含めた何人かが遅くまで残ることになってしまったのだが、そんな彼女を待っていたのがこの雨というわけである。
空模様を見て一応傘を持ってきてはいたものの、明日の朝から降り出すという予報だったため、この雨は亜矢にとって想定外のものだった。
予定どおりの時間に帰れていれば雨に当たることもなかっただけに、彼女の気分が少し沈んでしまったのも無理からぬことであろう。
「……ついてない」
つぶやきながら水たまりを避ける。
この時期、この時間になると辺りは真っ暗だ。人通りも極端に少ない。
駅前通りですらそんな状況なのだから、住宅地の通りなどはおそらく無人に近いだろう。
だからこそ。
住宅地に入ってすぐの通りにたたずんでいた人物に、亜矢がわずかに注意を向けたのは当然だった。
細かい雨が降りしきる中、薄暗い街灯の下に立っているのはどうやら大柄な男性のようだ。
まだ10メートル以上離れているから人相までは確認できない。
さらに近づくにつれ、亜矢の警戒心は徐々に増していった。
奇妙だったのは、この雨の中に黙ってたたずんでいるということだけではなかったのだ。
(……なに、あの人?)
無言で街灯の下に立つ大男は傘を差していなかった。
確かにそれほど激しい雨ではないが、無視できるほどに弱いわけでもない。
亜矢は歩みを速めた。
もちろん関わり合いになるつもりはない。これが子供や老人で、傘がなくて困っている様子だったというならまだしも、男は着ているものもまともだったし、とても困っているようには見えなかったからである。
かすかに注意を向けながら、無言でその男の前を通り過ぎる。
いや。
通り過ぎようとした。
「待ちな」
男の呼びかけに、亜矢はピタリと足を止めた。
本来なら素直に立ち止まるべきではないだろう。人通りの少ないこの状況であればなおさらだ。
しかし、彼女は普通ではなかった。悪意を持って呼び止める人物であっても撃退できるだけの力を持っていたし、そういった相手はむしろ彼女にとって進んで撃退すべき対象でもあったのだ。
「なにか?」
「へぇ」
振り返って短く言葉を返した亜矢に、彼女より20センチ以上も背の高い大男は口もとに薄い笑みを浮かべた。
「力を使える状態だってのはどうやら本当らしいな」
「!」
その言葉に亜矢は眉をひそめ、そしてすぐに異常を察する。
「あなた、まさか……」
大男の周囲には蒸気が立ち上っていた。
よく見ると、雨の只中にいるはずの男の体はまったく濡れていなかったのだ。周囲を満たす雨は、男の体に到達する前にすべて蒸発していたのである。
亜矢の体を緊張が駆け抜けた。
男は先ほど"力"と発言した。
それはつまり亜矢の力のことを知っていて、その上で声をかけてきたということに他ならない。
その事実だけでも彼女にとって歓迎すべき相手でないのは確かだった。
「……それで?」
しかし表面上は冷静さを保ち、今度は視線だけでなく体ごと男のほうに向き直る。
傘を持ち替え、利き腕をいつでも動かせるようにして備えた。
「私になんの用かしら?」
「用? そうだな」
そんな亜矢の一挙手一投足を薄笑いのまま追いつつ、男は右腕を持ち上げて軽く握りこぶしを作ってみせる。
「いい加減しびれを切らしちまってな。無理やりにでも目覚めてもらうぜ」
「!?」
瞬間、男の姿が変貌した。
耳が大きく尖る。
髪の色が燃えるような赤色へ。
(……唯依と同じ……!)
それが炎を操る悪魔の特徴であることを亜矢はかろうじて知っていた。
緊張の糸が張り詰める。
傘を放り投げ、亜矢は大きく後ろに下がった。
右手が白いイカズチをまとう。
(やるしか、ないわね……)
突然のことで、相手の素性やどうして自分が狙われたのかまで考える余裕はない。
ただ、やらなければ殺されてしまうであろうことは、相手の表情や身にまとう雰囲気から察することができた。
命の奪い合いになる。
それを認識してもなお冷静に戦う体勢を整えることができたのは、夏休みのできごとが彼女の経験になっていたからだろう。
そして亜矢の体も変化する。
全身が白い電気を帯び、額には小さな角が浮かび上がった。
「……ふん」
大男はそんな亜矢の姿にも平然と鼻を鳴らしただけで、右のこぶしを改めて握りなおした。
「じゃ、行くぜぇッ!!」
それが開戦の合図となった。
男が地面を蹴る。
亜矢は距離を取ろうと後ろに下がった。
悪魔同士であれば女性のほうが非力なのは人間と同じだ。体格から考えても接近戦が彼女に不利であることは簡単にわかった。
パリッ、と、亜矢の手の中で小さな音が鳴る。
手加減の必要はないだろうと判断し、亜矢は突っ込んでくる男に向けて白い稲妻を解き放った。
男が横に避ける。
突進する速度が一時的に落ちた。
その空白の時間を利用し、亜矢は足を止めて集中する。
全身を痺れたような感覚が駆け巡り、やがてそれが両手に集まっていった。
暗闇に包まれていた路地の風景が、白い光の中に浮かび上がる。
亜矢の両手に宿ったのは、大きな破壊力を秘めた強烈な雷。
「はん……っ!」
しかし、男は意に介した様子もなく再び突進してくる。
多少は警戒するだろうと思っていた亜矢にとって、これは予定外の動きだった。
(撃つしかないわね……!)
体格差を考えれば、絶対に近づかせるわけにはいかない。
両手に力を込めると、雷はさらに大きさを増した。
人間が直撃を受ければ間違いなく即死する量のエネルギーだ。
(だけど……)
ふと、亜矢の心に不安が過ぎった。
……もしもこの全力の攻撃が通じなかったら。
夏休みの一件では唯依が、そして優希や雪が助けに来てくれた。
しかし、毎度毎度そう都合よく助けが来るはずもない。
通じなければ、今度こそはおしまいだろう。
緊張。
恐怖。
(負けないわ、絶対……)
しかし亜矢はその不安を振り払い、奥歯を強くかみ締めた。
(負けられない。もう二度と……)
――主張を押し通すためには。
頭が熱くなる。
――力を示す必要がある。
心臓が高く、そして強く鼓動を打ち始めた。
(今度は絶対に負けない……!)
力が入る。
(絶対に――)
その、直後だった。
ドクン……ッ、と。
心臓がさらに強く、そして不気味な鼓動を奏でた。
「……え……っ?」
手の平に集まっていた雷が急速に輝きを増す。
急速に。
膨張する。
「……!?」
突進してきた男の足が止まった。
その表情は驚愕の色を帯びていたが、亜矢にはすでにそれを確認するほどの余裕はなかった。
「な、に……これ……ッ!」
手が震える。
体の奥から"なにか"がこみ上げてくる。
辺りの景色が白い輝きの中に飲み込まれた。
同時に、湧き起こる衝動。
――その力で。
――その雷で。
敵を殺せ――、と。
(殺、す……?)
あふれ出す。
力。
力。
とてつもない力――
(これなら……)
熱に浮かされているかのようなぼんやりとした思考。
どこか心地よい。
そして彼女の口が、彼女自身の意思とは関係なくつぶやきを発した。
「……殺せるわ。いともたやすく」
激流のような魔力が無尽蔵に湧いてくる。
今までの自分など比べ物にならない。
夏休みに苦戦した悪魔たちや、助けにきた優希、雪をも上回る強大な魔力。
それが今、亜矢の中に生まれようとしていた。
「……こいつは、まさか」
立ち止まった男は目を見開いていた。
「これほどとは……」
そして一瞬のためらいの後、男が一歩後ずさる。
「……逃げるつもり?」
だが、亜矢は追いかけるように一歩前に踏み出していた。
「これ以上の悪事を働くなら……殺して――殺す? 殺したりはしないけど……でも……ふふっ……殺してみようかしら……試しに――」
統一性のない言葉が口からあふれ出す。
心の隅ではなにかおかしいと感じていたが、なぜか深く考える気にはならなかった。
「ちっ……」
男が舌打ちして、手の平を亜矢へ向けた。
ふくれ上がる力。
男の太い腕を巨大な炎の塊が覆い尽くす。
そして男は炎に包まれた左腕を前に伸ばし、まるで弓のように右手を後ろに引き絞った。
「喰らいなッ! "降り注ぐ火雨"!」
手から巨大な炎の塊が飛び出すと、途中で無数の塊に分裂して四方八方から亜矢に襲い掛かっていく。
しかし亜矢は口もとに笑みを浮かべたままそこから動かなかった。
そして、ダラリと下ろした右手を軽く握り締める。
亜矢の体が一瞬だけ白い電光に包まれた。
……それだけ。
ただ、それだけで――
「……バカなッ!」
男の表情がすべてを物語っていた。
彼の放った無数の炎は亜矢の体に到達することなく、その数センチ手前ですべて消し飛んでしまったのである。
「……ふふ」
亜矢は焦点の定まらない目でおかしそうに笑ってみせた。
「さようなら……おとなしく……これ以上は……」
つながらない言葉をつぶやきながら、ゆっくりと男へ近づいていく。
「逃げないと……殺して……あげる……ぼうや……」
「ちっ……」
男の全身から炎が噴き上がる。
そして再び、四方八方から亜矢の体を包み込むように伸びていった。
「目くらましね……?」
そんな亜矢のつぶやきどおり、男は攻撃を放つと同時に身をひるがえしていた。
「逃げる……ふふっ……やっぱり逃げるのね……無様に……」
亜矢の体が白く発光する。
男が目くらましに放った炎はやはり一瞬で消滅し、そして亜矢は初めてその右腕を男へ向けた。
腕の付け根から指先に向かって、まばゆいばかりの雷が生まれる。
亜矢は半身になって、男の背中へ照準を合わせた。
「死になさい……いえ」
左手が右腕に添えられた。
……いや、右腕をつかんだ。
「こんなの、私は……」
わずかなためらい。
「……でも、あいつはきっと悪党だから――」
「……殺しても、いい……?」
まるで別人のような言葉が、立て続けに口から漏れた。
左手が右腕を解放する。
再び照準を合わせた。
まだ射程内。
間違いなく当たる。
間違いなく死ぬ。
亜矢――いや、ほんの少し前まで"亜矢だった人物"はそれを確信していた。
その攻撃は、確実に男の命を奪うだろう、と。
「さようなら」
そして右腕の雷が放たれる。
……いや。
放たれる直前。
さぁぁぁぁぁ――……
「……?」
降り続いていた雨が、風もないのに急にその動きを変えた。
少しずつ、やがて大胆に流れを変えていく雨糸が、彼女の周りを渦巻くように取り囲んでいく。
「これは……?」
大したことではない。
たとえそこになんらかの力が働いているのだとしても、それは彼女の行動を制限するほどのものではなかった。
ただ、その不思議なできごとが一瞬とはいえ彼女の戦意をそらしたことは間違いない。
そして、
「一ノ瀬亜矢!」
彼女の背後から鋭い声が飛ぶ。
「戻りなさい! 一ノ瀬亜矢!」
「……あ、や……?」
それは彼女の名前ではない。
"彼女だったもの"の名前だ。
……いや。
「だれ……私を呼んでいる……?」
亜矢はまだ、かろうじてそこに残っていた。
「一ノ瀬亜矢!」
その声が。
その名の響きが。
奥底に潜りかけていた"亜矢"を呼び戻す。
「私は、いえ……ふふっ……私は亜矢じゃ――」
「いいえ、違う」
振り返った亜矢の眼前に立っていたのは、おかっぱ頭の少女だった。
傘もささずに――いや。
「一ノ瀬亜矢。目を覚ましなさい。そして力を収めなさい」
少女の周りにも雨が渦を巻いている。
その少女が雨を操っていたのだと、亜矢はぼんやりとした頭で理解していた。
「あなたは、敵……?」
「それはあなた次第よ」
少女はそう言って亜矢をにらみ付ける。
「あなたが一ノ瀬亜矢である限り、きっと私は敵ではない。だけど、あなたがそのまま流されるのであれば……」
雨の渦が強さを増した。
視界をさえぎるほどに、強く。
「一ノ瀬亜矢。私はあなたが不安定なうちにあなたを殺すわ。ためらいもなく」
「殺す? あなたが、私を……?」
その表情に、一瞬愉悦とも思える笑みが浮かびかける。
「殺せるものなら――」
「一ノ瀬亜矢! しっかりしなさい!」
「っ……うぅっ……!」
その名を聞くたびに、亜矢の瞳に理性の色が戻ってくる。
少女は、名を呼ぶこと自体にそういう効果があると理解しているようだった。
「あ、や……私は……私……ッ!」
亜矢のつむぐ言葉の語尾が次第に強さを増す。
逆に、彼女が身にまとっていた雷は徐々に弱まっているようだった。
そして数秒。
全身を襲った脱力感に、亜矢は膝から地面に崩れ落ちた。
「私……は、一体……」
「戻ったようね」
おかっぱ頭の少女は相変わらずの厳しい表情で、それでも少しだけ安堵した声で言った。
「しっかりなさい。二度とこんなことがないようにね」
「あ……あなた……」
亜矢が疑問の声を上げるより早く、少女は背を向け雨煙の中へと消えていった。
本当ならそこで少女を引きとめ、自分の身になにが起きたのかを確認すべきだったのかもしれない。
だが、そのときの亜矢の頭は混乱と、眠気にも近い疲労感とで、まだ自分がなにをすべきなのか判断できる状態にはなかったのだ。
そして細かい雨が降り注ぐ中、完全に自我を取り戻すまでの数分間を、亜矢は膝をついたままずっと雨に打たれていたのだった。
「お疲れさん」
亜矢がアパートへ戻っていくのを見届けた晴夏の頭上に、大きな黒い傘が差し出された。
振り返った彼女の前にいたのは、メガネをかけた長身の青年――純である。
「ハラハラやったな。勝つ自信はあったんか?」
軽い口調でそう問いかけた純に、晴夏はいつもの素っ気ない態度で返す。
「さっきの状況ならまだ勝てたかもしれない、ぐらいかしら」
「たいしたもんや」
ぎこちないイントネーションで純が笑う。
「俺なら一目散に逃げとるわ。あんなん、どー考えても勝ち目ないし」
わずかな沈黙の後、晴夏は答えた。
「名前を呼べって。そうすれば戻ってくるかもしれないからって、ブルーにそう聞いてたからね」
「その話を聞いてなかったら?」
「そりゃ逃げてたわよ。……規格外すぎるわ、あんなの」
勝気な彼女にしては珍しい言葉だったが、純は納得顔をした。
先ほどそこにいた相手がそれほど強大な力を持っていることを純も知っていたからである。
晴夏は純から傘を受け取り、亜矢が戻っていった先のアパートを見上げた。
「でもま、ただの勘だけど、結局のところ一時しのぎにしかならないかもね。いずれは……」
「あー……お前の勘、よー当たるもんなぁ」
「もちろんそうならないことを願っているけど」
そう言って晴夏はきびすを返し、純もその後ろに続いた。
雨は、さらにその強さを増しつつあった。