2年目11月「始まりの電話」
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唯依のアパートで電話が鳴ったのは、11月中旬のとある火曜日の朝のことだった。
時間は午前6時半。
朝練のある真柚と舞以がちょうど朝食を終えたところである。
「こんな時間に……? あ、私取るよー」
制服姿の真柚が立ち上がって電話台へ向かう。
長女だからという意識があるのか、家にいるときはだいたい彼女が電話を取る係だった。
唯依はそんな真柚の背中をボーっと眺めつつ、起きたばかりで腫れぼったい眼をこすり、牛乳の注がれたコップを手に取った。
一気に飲み干すと、少しだけ頭がすっきりする。
そこへ、受話器を上げる音と真柚の声が聞こえてきた。
「はい、白河です」
ちなみにここの玄関には舞以の名字である"白河"という表札がかけられており、電話を取るときも最初はその姓を名乗るのが彼らの間での決め事である。
「あ、はい。……え、亜矢ちゃんですか? ちょっと待ってください」
真柚が受話器の口を手で押さえて振り返ると、ちょうど朝食を終えた亜矢が不思議そうな顔をした。
「私?」
「うん。男の人だよ」
「男……?」
心当たりがなさそうだった。
亜矢は首をかしげながら席を立ち、電話口へと向かう。
「もしかして亜矢ちゃんの彼氏?」
「こんな時間に電話してくるような彼氏だったら、即刻縁を切ってやるわ」
真柚の軽口を辛辣な言葉でかわし、受話器を受け取る亜矢。
戻ってきた真柚は少し納得できない顔をしながら、
「こんな時間だけど、どうしても君の声が聞きたかったんだ……なんて感じだったらアリかなぁ、私は。舞以ちゃんだったらどう?」
「私ですか?」
湯気の立つお茶を口に運びながら、舞以は答えた。
「私の場合は"彼氏レベル"によりますね」
「彼氏レベル? なにそれ?」
真柚が不思議そうに尋ねると、
「どうでもいい順に5段階あります。早朝の電話はレベル4以上じゃないと許しません」
「え、彼氏ってそういうもん?」
と、真柚がなぜか唯依に話を振ってくる。
「いや、僕に聞かれても……舞以と付き合う人は大変だなぁ、としか」
すると舞以はクスッと笑って、
「唯依さんは最初からレベル5ですから。心配無用ですよ」
なにが心配無用なのかわからなかったが、唯依はとりあえず愛想笑いを返しておいた。
「ねぇ、舞以ちゃん。そのレベル5ってのはどの程度なの?」
真柚の問いかけに、舞以は少し首をひねりながら、
「手をつなぐことを許す程度でしょうか」
「あ。案外プラトニックなんだ」
「ちなみにレベル1は、私の視界内での二足歩行禁止です」
「……それ、もう彼氏じゃなくない?」
そんなふたりの姉の"彼氏談義"に少々居心地の悪さを感じながら、唯依がテーブルの箸に手を伸ばそうとすると、
「……えっ?」
電話口の亜矢が急に驚いたような声を上げ、全員の視線が彼女に集まった。
「ああ、なんだ。男の人だって聞いたから誰かと思ったじゃ――え? ううん、別にそういうわけじゃないわ。……うん。みんな起きてた」
「……」
唯依たちは無言のまま視線を交わす。
舞以が少し声を潜めて言った。
「誰でしょう? ずいぶんと親しげですが、本当に彼氏でしょうか?」
「いや、それはないと思うけど……」
「少しおじさんっぽかったよ」
と、真柚。
舞以がなるほどという顔をした。
「確かに亜矢さんは年上趣味っぽいですものね」
そんな舞以の言葉に、唯依は思わずうなずいて、
「あ、それはちょっとわかるかも。ちょっと年上とかじゃなくて、おじさん趣味というか――いたっ!」
飛んできた消しゴムが唯依の額に命中した。
見ると、亜矢が電話の相手と会話しながら軽く唯依をにらんでいる。
舞以がクスクスと笑って、
「声、大きすぎですよ、唯依さん」
「……先に言ったのは舞以なのに」
どうにも納得のできない唯依だったが、亜矢がもうひとつ消しゴムを手にしたのに気づき、慌てて彼女に謝罪のジェスチャーを送った。
亜矢はそれで満足したらしく、
「……ううん、なんでもないわ。ちょっと外野がうるさくて――え? ああ、それは大丈夫」
以降はそっちの会話に没入してしまったようだ。
……そして10分ほど。
「そろそろ時間――うん。わかってるわ。そっちこそ体に気をつけて。うん、じゃあまたね」
亜矢の電話が終わったのは、ちょうど唯依が朝食を食べ終わったときのことだった。
受話器を戻す音が部屋に響き、同時に全員の視線が亜矢に集まる。
そして、
「お義父様ですか?」
舞以が真っ先にそう言ったのを聞いて、唯依はなるほどと納得した。
確かに彼女がこれだけ親しげに会話する相手というのは、よく考えてみればそのぐらいしか思い当たらない。
案の定、亜矢はうなずいた。
「ええ、そうよ」
「亜矢の義父さんから電話なんて珍しいね」
と、唯依は言った。
舞以や真柚の養父母(真柚の場合は祖父母に近い年齢のようだ)からはこの家によく連絡があったりして、唯依も何度か声ぐらいは聞いたことがあったのだが、亜矢の養父からかかってきたのはおそらくこれが初めてだった。
ちなみに唯依の場合は養父母よりもむしろ義妹や義弟からかかってくることが多く、そのたびに真柚や舞以に仲の良さをからかわれていたりする。
「義父さんはそういう人だから」
亜矢は素っ気無くそう答え、終えた朝食の片付けを始める。
そんな彼女の言葉に、唯依は昔かたぎの頑固親父なイメージを思い浮かべていた。
「ねぇねぇ、亜矢ちゃん」
そんな亜矢に、急に真柚が尋ねる。
「亜矢ちゃんはお義父さんのこと好き?」
「なに、突然?」
亜矢が怪訝そうに聞き返すと、
「なんとなく。さっき電話で話してるとこ見て、仲よさそうだなって思ったから」
「ああ、そうねえ」
亜矢はちょっと考えるように首を傾けると、
「基本無愛想だし、家のこともあんまできないから親としては赤点ギリギリな人よ」
「……亜矢ちゃんって、お義父さんにも容赦ないんだ」
と、真柚が苦笑する。
「でも」
亜矢はすぐに付け加えた。
「人間としては尊敬してるわ。その背中を見て育ったんだから当然だけど」
真柚は一瞬ポカンとした顔をして、
「……うわ。なんか亜矢ちゃんカッコイイ」
「茶化さないの。ほら、あんたはそろそろでしょ。電車の時間、ヤバいんじゃない?」
亜矢がそう言って時計を指すと、真柚はハッとした顔をして、
「あ、ホントだ! 舞以ちゃん、急ごう! ……って、アレ? 舞以ちゃんは?」
キョロキョロと家の中を見回した真柚に、唯依はちょっと言いにくそうに答えた。
「舞以ならさっき出て行ったけど……」
「ええーッ! なにも言わずに置いてくとかヒドすぎだよッ! ……ちょっと、舞以ちゃーん!」
バタバタと真柚が飛び出していく。
朝っぱらからこんな騒ぎで、近所から苦情が来ないかと唯依はほんのちょっぴり心配になった。
「騒がしいわね、ホント」
腰に片手を当て、亜矢が台所からテーブル拭きを持ってくる。
「あ、僕がやるよ」
「そう? じゃあお願いね」
唯依は亜矢の手からテーブル拭きを受け取って、
「でも、真柚じゃないけど僕もちょっと興味が湧いてきたよ」
「なにが?」
亜矢が台所に戻っていくと、すぐに水の流れる音とカチャカチャという食器のかち合う音が聞こえてくる。
真柚たちに比べると登校時間に若干の余裕があるため、朝食の後片づけはだいたいこのふたりの役目だった。
「亜矢のお義父さん。どんな人なんだろうなと思って」
「だから無愛想な人だって」
再び素っ気ない言い方。
が、先ほどの電話の応対もあって、まったく悪い意味には聞こえなかった。
(……亜矢の義父さん、か)
彼女の正義感も、あるいはその人の影響なのかもしれない。
「ちょっと会ってみたいかも」
唯依はなにげなくそう言った。
もちろんそれは、簡単に会えるはずがないという前提のもとに言ったのだったが、
「会えるわよ。会おうと思えば」
「え?」
ビックリした唯依に、亜矢は台所からひょこっと顔だけ出して、
「近いうちに出張でこっちに来るらしいわ。私ひとりで会いに行こうと思ってたけど、あなたも来る?」
「あ、ええっと……」
思わぬ話に、唯依はちょっと尻込みしてしまった。
亜矢は苦笑して、
「そんな構えなくてもいいでしょ。別に結婚の挨拶をしにいくわけじゃないんだから」
「わ、わかってるよ」
もちろんそんなことを意識しているわけではなく、単に知らない大人と会うことに抵抗があったのだ。
唯依の中では"頑固親父"のイメージが完全にでき上がっていたからなおさらである。
「ま、どっちでもいいわよ。日取りが決まったら教えるからそれまでに決めといて」
そう言った亜矢は、どことなく浮かれているようにも見えた。
(ずいぶん嬉しそうだ……って、半年以上会ってないんだから当然か)
4人ともここに集まってからはまだ一度も養父母の家に帰っていない。
唯依の場合はよく電話がかかってくるのでそれほど久しぶりな感じはないのだが、亜矢の場合は正真正銘の半年ぶりなのである。
彼女が嬉しそうにするのも当然だった。
そしてふと思う。
(いい気晴らしになってくれればいいけど……)
ふと思い出す、最近の亜矢の態度。
具体的にどこがどうということはなかったが、彼女の様子がどことなくおかしいことにはもちろん気づいていた。
だからこそ、養父の訪問がそんな彼女にい影響を与えてくれるんじゃないか、と。
唯依は思わずそんな淡い期待を抱いてしまったのである。