2年目9月「予兆」
なんかおかしい。
修学旅行は特に変わったこともなく終わり、休みを挟んで久々に登校した9月最後の月曜日の朝。
いつものように学校に着き、2年1組の教室に向かうまでの間のこと。
(……なんだ?)
妙に周囲の視線が気になった。
下駄箱、廊下、階段。
まったく顔見知りでもない連中が、俺を見て"あれ?"というような顔をしながらすれ違っていくのだ。
最初のうちは気のせいだとばかり思っていたのだが――
「あれ。あの人もしかして……」
女生徒のつぶやきに視線を動かすと、まったく見知らぬふたりの下級生がさっと視線をそらし、そそくさと去っていく。
どうやら気のせいではなさそうだ。
(なんなんだ、いったい……)
修学旅行に行く前とは明らかに様子が違っている。
といっても、まさかその連中の首根っこをつかまえて事情を聞き出すわけにもいかず、俺は首をかしげながらそのまま教室へと向かった。
「おっ、来た来た」
「……なんだ?」
すると、俺が来るのを今か今かと待ち受けていた将太の口から、その妙な視線の理由を聞かされることとなったのである。
そして放課後。
「……あれ? 言いませんでしたっけ?」
訪れた美術室で、亜矢は澄まし顔でうそぶいた。
「先輩をモデルにしたあの絵、入賞しちゃったので一昨日からデパートで展示されているんです。土曜日はちょうど秋のデザートフェアをやってたので目に止まった子も結構多いみたいですよ」
これで先輩も町中の有名人ですね、と、亜矢は親指と人差し指で作った窓の向こうからこちらに向かってウインクしてみせた。
「聞いてねぇぞ、おい!」
俺はすぐ前にあった机をバンと叩いて、猛烈に抗議する。
「しかもなんだよ、あの絵! 俺、いつの間にか半裸になってんじゃねーか!」
「ああ、そこはほら。アニメとゲームでつちかった私の妄想力のたまものです。……というのは冗談で、そこは唯依に一肌脱いでもらったんですけどね。文字通り」
「はぁ!?」
一緒についてきた唯依を振り返ると、唯依はモジモジしながら、
「……あの。なんか断りきれなくて」
まるで水着になるのを恥ずかしがるウブな女の子のような反応だった。
亜矢はそんな唯依を横目でチラリと見ながら、
「男の人の裸ってリアルじゃなかなか見る機会ないですし。こないだの海水浴のときはじっくり観察できましたけど、あの絵はその前に提出したものなので」
「……あのデパートで展示とか最悪すぎんだろ、マジで」
絵が展示されているのは、この町唯一のデパートである。
しかも展示場は1階のエスカレーター付近にあって、たいていの買い物客が近くを通っていく場所だ。
「とっくに終わったことだと思ってたのに、なんでいまさらこんな羞恥プレイを……」
ガックリと肩を落とした俺に、亜矢はちょっと苦笑して、
「すみません。ホントは私もこんなことになるとは思ってなかったんです。でもほら。済んでしまったことは仕方ありませんし」
そう言って右手で銃の形を作ってみせた。
「久々にうさ晴らしでも行きませんか? 先輩も負けっぱなしじゃ気分が悪いでしょ?」
バン、とつぶやいて、引き金を引く仕草をする。
「ゲーセンか……」
相変わらず強引というかマイペースというか。
しかしまあ。
確かにここでいくら文句を言っても手遅れであることに変わりはない。
「……まあ、いいだろう」
結局、俺はそんな彼女の提案に乗ることにした。
「けど覚悟しとけよ。復讐に染まった今の俺の強さは、この前とは比較にならんぞ」
「なんですか、それ」
亜矢は吹き出すように笑い、すぐにキャンバスの片づけを始めた。
相変わらず美術部員は彼女ひとりしか来ていないらしい。
「お詫びといってはなんですが、今日のゲーム代とその後のお茶代は私が出します。唯依。当然あなたも来るわよね?」
唯依はきょとんとして、
「え、僕? でも僕が行ってもなにもすることが……」
「あるでしょ。野獣のような先輩の毒牙から姉さんを守りなさい」
「……おいコラ。お前調子に乗るのもいい加減にしとけよ」
「はいはい。威勢のいいセリフは私に勝ってから言ってくださいね」
「くっ……」
「……優希先輩。なんか本当にすみません」
唯依が心の底から申し訳なさそうな顔をするので、結局なにも言えなくなってしまった。
「さぁ、それじゃ行きましょうか」
そんな俺たちとは対照的に、亜矢は妙に楽しそうな笑顔だった。
「あー……疲れた」
駅から少し離れた軽食喫茶で軽く食事をとり、3人でそこを出たころには外はもう真っ暗だった。
腕時計を見ると、すでに午後7時を回っている。
結局、ガンシューティング勝負は前回とほぼ同じ展開、つまりは俺の敗北で終わっていた。
その後、最新レーシングゲームでの再戦を挑んで辛くも勝利し溜飲は下げたものの、相手が初体験のゲームでは胸を張るわけにもいかず。
ちなみにそれは最大4人プレイが可能で、唯依も一緒にやったのだが周回遅れの最下位だった。
「遅くなっちゃいましたね。先輩、家は大丈夫ですか?」
全員分の支払いを終えた亜矢が最後に店から出てくる。
年下の女の子に全額払わせるのはどうかと思って一応金を出そうとはしたのだが、亜矢は頑としてそれを受け入れなかった。
俺は、ごちそうさん、と、一言つぶやいてから、
「家にはさっき電話した。お前らこそ、あのふたりが心配してるんじゃないのか?」
「いえ、学校出る前に真柚に言っておいたので。朝帰りになるかもしれない、って言ったら目を丸くしてましたけど」
「なるほど。俺が抗議に行くことまで織り込み済みだったってことか。……じゃあ、あとはお前らふたりで朝まで頑張れよ」
そんな俺の言葉に亜矢は笑って、
「姉弟で朝帰りなんて、少女マンガじゃないんですから」
「……少女マンガってそういうもんなのか?」
唯依に聞いてみると、案の定困った顔をされてしまった。
「あら。だったら後学のために再現でもしてみる?」
「ちょっ……ちょっと亜矢!」
唯依が顔を真っ赤にして拒否し、亜矢はおかしそうにケラケラと笑った。
いつもこんな調子なのかと思うと、唯依の境遇には同情を禁じえない。
そんな他愛もない会話をしながら。
俺たちは少し奥まった住宅街の喫茶店から、駅へと続く道を3人並んで歩いていた。
と、そこへ。
「……おい」
突然、相手を威嚇するような低い声が聞こえて、俺たちは同時に足を止めた。
なにかと思って振り返ると、たった今俺たちとすれ違ったばかりの、やや派手な格好をした3人組の男がこちらをにらんでいる。
……いや。
「す、すみません」
男たちがにらんでいたのは、俺たちのすぐ後ろを歩いていた他校の高校生ふたり組だった。
「どこ見て歩いてんだ、こら」
ガラの悪い男のひとりが肩を押さえている。
(あー……)
どうやら肩がぶつかった(ぶつけた?)かなにかで言いがかりをつけているらしい。
3人組が、ふたりの高校生を取り囲んでいる。
(……どうしたもんか)
辺りを見ても近くに俺たち以外の人間はいない。
助けられるとしたら俺たちだけだが、かといってこっちは女連れである。自ら火の中に飛び込んでいくのはためらわれた。
かわいそうだが、放っておくか。
あるいは人を呼んでくるか。
「すみません、じゃねえんだよ。こっちは昨日ネンショーから出てきて気分良く遊んでいたとこなんだ。それをよ……」
いかにも小悪党なセリフを吐いて、男のひとりが高校生の胸ぐらをつかむ。
(……仕方ない)
ここで知らんぷりをするのも寝覚めが悪いかと思い、俺は手にしていたカバンを唯依のほうに押し付けながら、
「唯依。お前、亜矢を連れて先に行ってろ。俺は――」
そう言おうとして、言葉を止めた。
……俺はここで完全に失念してしまっていたのだ。
一緒にいるのが、他の誰でもない"あの"亜矢だったということを。
「……」
亜矢の顔からは表情が消えていた。
「亜矢……!」
俺が止める間もなく、亜矢は一歩彼らのほうへと歩み寄ると、その3人の男に向かって堂々と言い放ったのである。
「その汚い手を離してあげなさい。この狭い道で図体ばっかりデカいのが並んで歩いているほうが悪いわ。……少年院に入ったことを自慢するようなクズは、小さくなって隅っこでも歩いてりゃいいのよ」
あぁ、やっちまった、と、俺は思わず夜空を仰いだ。
「ぁん? なんだこいつ?」
その言葉に3人組が当然のごとく怒りの声をあげ、つかんでいた高校生を離してこちらへやってきた。
「なんだてめぇら。まさか俺らにケンカ売ってんのか?」
「ちょっ、ちょっと亜矢!」
唯依が彼女のそでを引っ張って制止しようとする。
だが、もちろん彼女は止まらなかった。
「ケンカじゃないわ。常識のない3匹の小ブタさんを"調教"してあげようというのよ」
「!」
男たちが瞬時に激昂した。
そのうちのひとりが言葉もなく亜矢に向かって手を伸ばす。
が、
「言っておくけど……」
亜矢は微動だにせず、男をまっすぐに見据える。
「私に触れると、感電するわよ」
バチッ、と、白い光が走った。
「っぅ……!」
男が小さく悲鳴をあげ、手を押さえて後ろに下がる。
そしてギラリと亜矢をにらんだ。
「こいつ、スタンガンかなにか持ってやがる……!」
男たちの怒気がさらにふくれ上がる。
うちひとりはポケットからなにかを取り出そうとしていた。
「おい、亜矢! やめとけ!」
このままだと大事になってしまう。
俺も唯依と同じように亜矢の手をつかんで彼女を制止した。
が、亜矢は俺たちに手をつかまれたまま、前のめりに挑発を続ける。
「どうしたの? かかってきなさいよ。どうせ自分より弱い人間しか相手にできないんでしょう? この、クズどもが……!」
亜矢の言葉がさらに熱を帯びる。
バチ、バチ、と、彼女の体が帯電した。
「なんだ、こいつ……」
さすがに異変に気づいたようだ。
男たちがたじろぐ。
「亜矢、やめろ!」
「亜矢!」
「お前たちのような連中は……!」
俺と唯依に腕をつかまれたまま、それでも亜矢は男たちに歩み寄ろうとするのを止めず。
さらに言葉が鋭くなる。
「死になさい。いいえ、死ぬべきよ。お前たちのような連中は、私に殺されるべきだ!」
「……亜矢ッ!」
ドン、と、亜矢の体が大きく揺れた。
「え……?」
一瞬我に返ったのか、亜矢がほうけたような声を出す。
彼女の体が空中に浮かんだ――ように見えた。
……いや。
「先輩!」
正面から亜矢に抱きついた唯依が、彼女の体を力ずくで抱え上げたのだ。
「逃げましょう!」
唯依はすでに、悪魔の身体能力を解放しているようだった。
なりふり構ってはいられなかったのだろう。
俺は瞬時に、ふたり組の高校生がすでに逃げ出した後であることを確認し、
「よし! 走れ、唯依!」
「ちょっ……唯依! 離しなさい!」
そんな亜矢の叫びにも構うことなく。
俺たちは呆然とするチンピラ3人組を尻目に、薄暗い道を全力で逃げだしたのだった。
あのチンピラたちが追いかけてくる可能性も考え、念のため駅とは逆の方角へと逃げてきた俺たちは、10分ほど走ってウチの近くの中央公園へたどり着き、そこでようやく一息つくことができていた。
「……なんですか」
街灯の明かりに照らされた公園の中。
亜矢はベンチの上で少し不満そうな顔をしている。
俺はそんな彼女と、その隣でうなだれたまま息を切らしている唯依に、近くの自販機で買った缶ジュースを渡しながら、
「亜矢。お前さっき、本気であいつらを殺そうとしてなかったか?」
すると亜矢は不機嫌そうに視線を流して、
「……そんなわけないじゃないですか。脅しですよ。ちょっと懲らしめてやろうと思っただけです」
「だったらいいんだけどな」
いつもよりどことなく歯切れの悪い亜矢の回答に、俺は自分の缶ジュースのプルタブを開け、口をつけて一気に半分ほど飲んだ。
ふぅっと息を吐く。
日ごろのランニングの成果か、息はすでに整っていた。
そのまま――しばらく無言。
やがて、亜矢は少しバツが悪そうな顔をして、
「……唯依。大丈夫?」
息を切らせたまま一言もしゃべれないでいる唯依に、さすがに心配そうな声をかける。
「へっ……平気……」
どう見ても平気じゃない。
まだしばらく放っておいたほうがいいだろう。
そんなふたりを横目に見ながらジュースをもうひと口。
一応近くの通りに視線を配ってみたが、連中が追いかけてくることはなさそうだった。
それを確認し、俺は再び亜矢へと言葉を向ける。
「たぶん雪のヤツも同じこと言ったと思うんだが、お前のその力は危険なものだ。後先考えず衝動的に使っていいもんじゃないぞ」
すると亜矢は力なく笑って、
「確かに雪さんにも似たようなこと言われました。見た目は似てませんけど、さすがは兄妹ですね」
「茶化すな」
冗談に紛らせたがっているらしい亜矢に対し、俺は少し声を低くして言った。
「いいか。万が一にでもお前が一般人を殺したりしたら……」
言葉に力を込める。
「俺や雪が、お前を退治しなきゃならなくなるかもしれないんだぞ」
「……!」
その言葉にハッと顔を上げたのは、亜矢ではなく唯依のほうだった。
亜矢は余裕の、いや、おそらくはそれを取りつくろった笑みを浮かべたまま、
「冗談はやめてください。私が人を殺す? そんなことあるわけないです」
強い調子でそう返してきた。
「さっきだって最初からあれ以上やるつもりなんてなかったです。イレギュラーなできごとでしたしね」
「……なら、いいんだが」
確かに、亜矢はそういう意味での常識に欠けている人間ではない。
あの程度のことで人を殺してしまうことなどない……はずだ。
しかし――
さっきの剣幕。
本当にすべて演技だったのだろうか。
「あ……亜矢……」
そこへ、ようやくしゃべれるようになった唯依がゼェゼェ言いながら口を開いた。
「優希先輩の言うとおりだよ……こんなの、もうやめようよ……」
「……なによ。あなたまで」
亜矢は不満そうだった。
「だって……さっきの亜矢、怖かった。俺も、本当に殺してしまうんじゃないかって……」
「……そんなことないわ」
亜矢は断固としてそれを否定する。
「私は人を殺したりなんかしない。それは絶対よ。だってそれが……」
私自身の意志だから、と。
そう言ったとき。
俺は違和感を覚えた。
(……亜矢。お前……)
強い意志を持った亜矢の目が、まるで俺たちには見えていないなにかをにらみつけているような、そんな風に見えてしまったのだ。
なんだろうか。
漠然とした不安。
しかしそれは、その場で具体的な形を成すことはなく――
結局、俺たちはそこでしばらく時間を潰した後、由香の家まで行って梓さんに事情を説明し、車で唯依たちを家まで送ってもらうことにしたのだった。